第16話 刻印

 階段を降りた瞬間、目に入った光景はいつもと同じで、しかし奇妙に緊張が違っていた。大男は相変わらず、同じ動作を繰り返している。何度も何度も宇佐美を掴み、穴へと放り込む。叫びは一瞬で消え、闇だけが音を吸い取っていった。


 だが、その手が突然止まった。男が低く、投げ槍に叫んだ。

「ほら、土産だ!」

 言いながら、男は何かを掴んで宇佐美の掌に押し込んだ。金属のような、あるいは石のような冷たい質感が一瞬だけ光った。いつもの通り、男はそのまま宇佐美を突き落とす。だが……いつもならば、落ちた宇佐美はすぐにまた現れるはずだった。


 私は慌ててメモを取る。手が震えて紙面が踊る。

〈あなたは?で態度軟化〉

〈宇佐美土産〉

〈宇佐美打ち止め〉


 現れない。暗闇の中に戻るべき顔が、今はない。胸がぎゅうと締め付けられる。次の瞬間、男は先頭の佐藤を掴む。私は無意識にさらに走り書きをする。

〈佐藤穴落とされる〉


 佐藤の声が消える。石室が揺れるような錯覚。重力がぐっと変わったように感じ、足元が抜ける、というよりも、こちらがどこかに押し戻される感覚だ。次に博士が掴まれる。彼は一瞬こちらを見たように思えた。私はその視線を目に焼き付けようとして、

〈博士穴落とされる〉


 山本が叫んだかもしれない。記憶は断片となって散る。私は数を数えようとしたが、言葉が重くのしかかる。大男の粗い手つきは容赦ない。次に山本の体が視界から消え、私は自分がどうなるかを摩り下ろすように感じた。まだ最後尾の私が落とされる直前、頭の中で計算する。

〈山本穴落とされる〉

〈設楽……〉

 その瞬間、空気が裂けるように圧がかかり、視界が白く引き伸ばされた。次の瞬間には、私たちは寺の境内に立っていた。石仏の影の先、冷たい空気。時間の感覚が戻ってくるが、記憶はすり切れ、手の中に残ったのはつたない走り書きだけだった。


 私は辺りを見回す。佐藤は地に膝をつき、顔を覆っている。博士は荒い息をつき、設楽は震えながら何かを呟いている。山本は青ざめて立っていた。あの場にいたはずの宇佐美……それが、そこにいた。


 宇佐美は土の上に倒れていた。片手には先ほど男が押し込んだらしい“何か”が握られている。私はそれが何かを確かめるために駆け寄った。彼の顔は蒼く、まぶたは重たく閉じられている。呼吸は浅く、反応はない。


「救急を呼んで」


 声が出たのは設楽だった。私も動けない指で自分の電話を探し、番号を押す。誰かが周囲に走り、毛布をかける。私は無意識にメモ帳を開き、そこへ短く書き付ける。

〈宇佐美倒、手に有り〉


 何が起きたのかを説明する言葉が出ない。あの石室の奥で男が押し付けた“土産”を握っている彼は、確かに倒れていた。意識がない。救急の応答が聞こえるまでの時間は永遠のようにながく、私は冷たい手の感触を思い出しながら、メモをもう一度見た。


 紙には、ぎこちない字で並んでいた。行が乱れ、インクが滲んでいる。だがそこには確かに、今日の断片が残されている。

〈あなたは?で態度軟化〉

〈宇佐美土産〉

〈宇佐美打ち止め〉

〈佐藤穴落とされる〉

〈博士穴落とされる〉

〈山本穴落とされる〉

〈設楽……〉

〈宇佐美倒、手に有り〉


 それだけだ。だが、その断片はこれまでとは種類が違った。何かが変わった。大男の所作が、そして私たちが経験した帰還の手順が、一段と意味を帯びてきたように思える。胸の奥に冷たい予感が落ち、息が詰まる。


 救急車のサイレンが遠くで聞こえ始めた。誰かが私の肩に触れ、私を現実へ引き戻す。私は手帳を握り締め、指先でその一頁を押さえた。言葉は少ない。しかし、断片は確実に増えていく。私の仕事はそれを紡ぐことだ。


 大男の影が、まだどこかで揺れているような気がした。

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