第15話 決意

 私たちは旧日方邸の前に立っていた。秋の夕暮れが、長い影を石畳に落としている。空気は冷たく、沈黙だけが広がっていた。私は、視線を佐藤に向ける。


「佐藤、今回、どうするつもりだ?」

 私は低く問うた。これまで数度、石室に踏み込んで、ほとんど何の情報も持ち帰れなかった。記憶は薄れ、恐怖だけが体に残る。だが、今回の突入では何かを変えたい。


 佐藤は肩をすくめ、穏やかに答えた。「大男には毎回、まともに答えてもらえてないようだ。今回は聞き方を工夫するつもりだ」


 その隣に、ホランド・K・ショーン博士が立っていた。表情には動揺も恐怖もない。ただ、純粋な好奇心がうっすらと光っている。彼にとって、この石室はただの異常空間ではなく、未知の記録庫、検証すべき“現象”の対象なのだ。私はその視線を目で追った。博士は手元のメモ帳をちらりと確認し、さらに観察対象への期待を隠さない。


 山本は黙って立っている。彼にとって今回の目的は明確だ。石室で何が起こるのか、宇佐美は帰れるのか。それ以上の関与は求められていない。ただ、無事に戻ることだけを考えている。


 設楽は通訳として、常に博士の隣に立ち、状況に応じて説明を補助する。彼女の存在は不可欠だ。言葉の壁を越え、全員が同じ情報を共有するために。


 私はふと手元のメモ帳を握る。ここに書き記すことが、突入で唯一残せる痕跡になる。短い単語、断片的な描写、それでも積み重ねれば全体像が見えてくる。私の役割は、ひたすら観察し、書き留めることだ。


「準備はいいか」

 佐藤が小さくつぶやく。返事をする必要もない。互いの決意は沈黙のうちに共有されている。恐怖や不安よりも、確かに「知る」という意志が勝っている。


 空は赤く沈み、建物の影が長く伸びる。旧日方邸の扉に手をかける前に、私は深く息を吸った。記憶が消えるかもしれない。恐怖が襲うかもしれない。それでも、知りたい。知ることこそ、この場に立つ理由だ。


 佐藤が私の横で短くうなずく。山本も、設楽も、博士も。各々の目が決意で光っている。私は手帳を胸に抱え、扉に触れた。冷たく硬い木の感触が指先に伝わる。


「行くぞ」

 佐藤の声が静かに響いた。返事はなかったが、全員が覚悟を固めていることを感じた。

 扉を押し開ける。廊下の空気がひんやりと肌を撫でる。これから、数秒間の異界が待っている。


 背後で静かに風が揺れ、落ち葉が舞う。外の世界は何も変わっていない。だが、私たちが踏み込もうとしている先は、時間も空間も歪む場所だ。何が待ち受けるか分からない。足元の影が揺れ、私の心拍を少し速めた。


 手帳をぎゅっと握り、私は視線を前に戻す。石室への階段はすぐそこにある。狭く、暗い通路の先に、誰も知らない光景が広がるのだ。


 一歩、二歩。階段を下りる感触が、冷たい空気と共に体に伝わる。背筋がひんやりする。大男の存在を思い浮かべる。ここに入れば、彼は確実にいる。迎え撃つ気配すら感じられる。


 佐藤が小声でささやく。「今回は質問の順序を工夫してみる。少しでも答えやすくなるように」


 博士はノートに目を落とす。その視線は石室の暗闇に吸い込まれるように集中している。恐怖よりも観察欲が勝る。その姿を見て、私は、私自身の好奇心も、恐怖を越えることを確信した。


 扉の奥に広がる闇が、私たちを待っている。石室の内部、異常な空間、大男、そして帰還の仕組み。何も分からない。だが、確かなのは、ここで得るものが、必ず私たちの手元に残るということだ。


 私は最後にもう一度深呼吸した。メモを握り、足を踏み出す。階段を降り、狭い通路に踏み込む。異界の始まりは、もうすぐそこにある。

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