第9話 探究と究明

 講義が終わると、人波がざわつきながら会場を後にした。だが私は席を立てず、ただしばらくスクリーンに映った立方体の影を眺めていた。胸の中で、あの光景と日方邸の暗がりが妙に重なり合う。


 講義室の喧騒が遠ざかるころ、ホランド博士が壇上からゆっくりと降りてきた。白衣の襟元に付いた名札が小さく揺れる。私は意を決して歩み寄り、声をかけた。


「先生、少しお話を伺えますか」


 博士は私の顔をじっと見て、にわかに興味深げに頷いた。疲れたような目の奥に、研究者特有の光が宿っている。私は講義の中では触れなかったことを、順を追って伝えた。


「先日、私は旧日方邸の寺の蔵で“モダン”と呼ばれる物体を見ました。地元では『継花石』と記されているものです。石室の存在も確認しています。……それから、ひとつ付け加えます。私自身、半月ほど前に五日間、時が抜けるような経験をしました」


 言い終えると、博士はゆっくりと眉を上げた。私の口調は抑えていたつもりだが、真実を告げることで胸の奥の重みが少し緩むのを感じた。博士は私の顔をまじまじと見渡し、まるでそこに書かれた何かを読み取ろうとするように、私を観察した。


「重要な話だ。だがまず確認したい。あなたはその“モダン”を持ち帰ってはいないね?」


「いいえ。手に入れてはいません。寺の蔵に安置されているのを見ただけです」


 博士はほっとしたように息を吐き、しかし同時に目を爛々と輝かせた。研究者の好奇心は、しばしば不穏な熱を帯びる。彼は手早く私の話を整理して、低い声で言った。


「分かった。私にとって非常に興味深い。あなたの体験“時の断絶“と、あの立方体の性質が関係している可能性がある。実際に継花石と現物とを比較検査したい。寺に同行して、調査の許可を取りましょう」


 私は一瞬ためらった。寺側が外部の学者による調査を許すかどうかは分からない。だが、あの石が科学の手に委ねられるなら、私たちが抱える疑問のいくつかが光を帯びるかもしれない。博士の言葉に、知らず頷いていた。


 その日の夕刻、博士は零光会の関係者を通じて寺を訪れる手配を整えた。翌日、私は現地には立ち会わないものの、博士が持ち帰ることになるであろう調査計画を聞いた。彼は淡々と、しかし明確な口調で検査項目を列挙した。


「非破壊検査を第一に。次に実体顕微鏡で表面の微細構造を観察し、偏光顕微鏡や偏光反射顕微鏡で光学的な性質を確かめる。結晶構造の特定にはX線回折装置(XRD)を用いる。さらに放射能の有無も測る。いずれも現物を痛めない範囲で行うつもりだ」


 リストを口にする彼の声には、冷静さと緊迫感が同居していた。私はそれを反芻し、言葉を返す。


「非破壊は絶対条件です。寺側の負担や不安も大きいはずですから」


 博士は黙って頷き、紙の上に簡単な手順を書きつけた。彼の筆致は確かで、研究者の計画書らしい簡潔さがあった。私はその紙を受け取りながら、不意に恐れと希望が交錯するのを感じた。


 もし継花石の正体が何らかの物理的根拠を持つのなら、私たちの経験は単なる迷信ではなくなるだろう。一方で、測定がすべてを暴いてしまえば、今や私を支える小さな謎の領域が失われるのかもしれない、そんな愚かな逡巡が胸をよぎる。


 だが、答えを探すのは私たちだ。どんな結末であれ、目をそらすわけにはいかない。博士は調査のための正式な書面を作成すると言い、近いうちに寺側と面談する手筈を整えると約束した。私はそれを見届けてから、ゆっくりと研究室を後にした。


 歩きながら、胸の中で何度も同じ問いを繰り返した。石はただの石なのか。時間は、誰かの手で弄ばれているのか。次に開かれる扉の向こうに、どんな風景があるのか。それを知るための小さな準備が、いま始まろうとしていた。

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