第3話 零光会へ

 山荘から帰社した私は、早朝に発ち夕方に戻ったつもりだった。

 だが現実には五日間が過ぎていた。


 会社の自席に着くと、普段から仲良くしている18歳の新人の女子が心配そうに声をかけてきた。名はマチコ。

「渡辺さん……おかえりなさい。ずっと心配してたんですよ」

「そうか。俺なんかのこと、気にしてくれてたのか」

「“なんか”じゃないです。いなくなった間、デスクが空いてるのを見るたびに落ち着かなくて……」

「……そんなふうに思ってくれる人がいるなんて、ありがたいな」

 視線が一瞬だけ重なり、どちらともなく笑みを浮かべる。

 12歳差という二人の現実が、これ以上の間柄の進展を邪魔していた。

 ほんのり甘い空気が流れたその時、離れたデスクから編集長の怒号が響き渡った。


 平然と帰社した私に対して、怒りと心配の入り混じったような感情で編集長は言う。

「渡辺君、一体どこで何をしていたんだ?無断で仕事に穴を開けて……大丈夫か?」


 会社からは実家の身内に連絡が取られ、身内からは警察に捜索願が出されていたのだ。


 何が起きているのかとても信じられない。私は今朝、会社を出てから旧日方邸へ赴き、真っ直ぐに帰社している。その事実を編集長に話すも、まともに取り合ってもらえなかった。しかし、私にも五日間が経過していたということは到底受け入れられない。日帰りしているのだから。


 スケジュール帳には赤い取消線が並び、約束はすべて宙に浮いてしまっていた。


 なかでも気掛かりだったのは、零光会への謝罪のアポだった。

 以前の記事が原因で一悶着あり、私以外では到底立ち入れない案件。

 やむなく翌日に延期してもらい、私は教団本部を訪れることになった。


 私は編集部を出た翌朝、どこか落ち着かない胸のざわめきを抱えながら零光会の本部へ向かっていた。

 前夜に旧日方邸の石室で読みふけった手記。その中に綴られていた異様な時代の跳躍と、まるで物語のように唐突に現れては消えていく不可思議な光景の記録は、私の職業的好奇心を強く刺激していた。手記はすでに鞄に仕舞い込んである。勝手に持ち出してきてしまったことへの後ろめたさはある。だが、それ以上に「世に出さなければならない」という記者魂のほうが勝っていた。


 零光会本部の応接室は、深い色の木材をふんだんに使った造りで、正面の窓からは晩夏の光がやわらかに差し込んでいた。障子越しに聞こえる蝉の声が、かえって室内の静けさを強調している。

 私が扉を開けて足を踏み入れたとき、先に腰掛けていた男が顔を上げた。佐藤だった。


「……渡辺」


 その名を呼ぶ声には驚きよりも、長い歳月を隔てた友を確かめるような響きがあった。

 高校時代、二人は山岳部に所属していた。夏には槍ヶ岳や白馬岳を縦走し、冬には雪に閉ざされた谷を歩いた。山頂で飲んだ安いインスタントコーヒーの味や、凍ったシュラフの中で肩を寄せ合った夜の寒さまで、鮮明に思い出せる。


 しかし卒業後は別の道を歩み、互いに会う機会はなかった。私は出版社に就職し、記者として世間の闇に光を当てる仕事を続けてきた。佐藤はというと、零光会の信者として活動していた。


「やっぱりお前だったか。まさか、こんな形で再会するとはな」

 私は乾いた声で笑った。

「お前がここにいるってことは……」


「俺は信者だ。零光会に身を置いて、もう十年以上になる」

 佐藤は静かに答えた。その声音に迷いはない。


 私の胸中に、微かな痛みが走る。今回の件、つまり「零光会が信者や住民を監禁している」という記事を、結果的に私自身が世に出してしまったことが頭をよぎった。記事は瞬く間に拡散され、世間の目は零光会に注がれた。だが、それは誤報だった。根拠を欠いたまま掲載された記事が、無数の憶測を呼び、教団を危機に追い込んでしまったのだ。


「……俺は、お前に会わす顔がない」

 私は低くつぶやいた。

「けど、手記を読んだ。あれには、ただならぬことが書かれていた。人が別の時代へ飛ばされ、また戻ってくる。そんな荒唐無稽なことが、淡々と綴られていた。信じるにはあまりにも奇怪だが、筆致には虚構を紡ぐ作為が見えなかった」


 佐藤は私の言葉をしばらく黙って聞いていた。彼は零光会の信者でありながら、友としての情も失ってはいないように見えた。


 私は、旧日方邸で見つけた古い手記を鞄から取り出し膝の上に置き、じっと視線を落としていた。その手記は、時代ごとの紙が継ぎ足されるように束ねられており、どの時代の記録も「石室」に触れた者の奇怪な体験を語っていた。夢か現か分からぬまま異なる時代や場所に迷い込み、そして元の時代に戻ってきたと記されている。だが私の脳裏にこびりついている疑問はひとつだった。果たして、すべての者が戻ってきたのか。


 私は見逃していたのか、まだ読んでいない手記がもう一枚あることに気がついた。


 "昭和20年代のある日、私はこの山荘で穏やかな日々を過ごしておりました。

 山荘は明治後期、前夫の源太郎によって建てられたもので、地下には江戸時代から続く石室が存在します。

 建築当初から、この石室の存在には気づいておりましたが、日々の暮らしの中で慎重に観察し、必要な管理をしてまいりました。

 地下の石室は、私たち家族にとって日常の一部です。

 日々の暮らしの中で、私は時折その様子を確かめます。石の床に微かなひび割れがないか、壁の陰に不自然な変化はないか、そっと目を向けるのです。

 そこには古くからの鉱石がひっそりと眠っており、形はさまざま。椅子や仮面、燭台のように見えるものもあります。

 私はそれらを「継花石つぎはないし」と呼び、慎重に扱いました。放置すれば何かしらの変化を起こすかもしれない、そんな漠然とした畏怖が、私の心を静かに締めつけます。後夫の源八が行方不明になっているのも、この石室に秘密があるように思えます。

 この石室は私たち家族にとって守るべき場所であり、後世に伝えるために記録しておく価値があります。“


 これは日方ソトの字か。震える筆跡が特徴的だった。


 後夫の城切源八は行方不明ではなく神隠しでは……?


 そんな私の思考を破るように、応接室の扉が静かに開いた。

 現れたのは、零光会の教祖オリビア・シモンズ・ヒガタであった。シンガポール生まれの彼女は、父に日方源太郎を持ち、母はイギリス系シンガポール人。昭和六年か七年の生まれと聞く。齢を重ねた今も背筋は伸び、白髪をきちんとまとめた姿は威厳を帯びていた。

 その眼差しには、幾多の荒波を越えてきた者の静けさがあった。奇怪な話を聞いたところで、眉ひとつ動かさぬ落ち着きが漂う。


「渡辺さん」

 オリビアは穏やかな声で口を開いた。「先ほどからお話は聞こえていました。旧日方邸で、例の石室に入られたとか」

「……はい。そこに残されていた手記も、つい持ち帰ってしまいました」

 私は正直に答え、膝上の手記を軽く叩いた。

「読んでいて思いました。石室に入った人は、必ずしも無事に戻っているわけではないのでは、と」

 その言葉に、応接室の空気がわずかに冷えた。


 オリビアは静かに椅子に腰を下ろし、深く息をついた。

「あなたが書いた記事のことを、私は忘れていません。人々を拉致監禁しているなどと根拠のないことを書かれ、世間に大きな誤解を招きました」

「……申し訳ありません」

 私は頭を下げた。記事が出た当時、突き上げるような正義感と取材熱に駆られ、確認の甘いまま紙面を仕上げてしまった。結果、零光会は激しい非難に晒され、世間からは抗議が殺到した。


「ですが」

 オリビアは続けた。「人々が行方不明になっているという事実はあります。あなたの記事は誤報でしたが、元を辿れば“石室”の存在が火種になっているのです」

 私は顔を上げ、オリビアを見つめた。彼女は少しも怯まず、その瞳に確かな光を宿していた。


「私は長年、この現象を目にしてきました」

 オリビアの声は低く、しかしはっきりと通った。「行方不明者だけではありません。石室に触れた者は、死者、精神に異常を来した者、記憶を喪った者などが数え切れないほどいます。とくに死者は、一時的に寺の境内に安置されることもありました」


 喉が鳴った。

「……あなたは、それを“神隠し”だと?」

「そう呼ぶのが一番しっくりくるかもしれません。ですが私は“現象”としか言えません。理由も仕組みも、誰にも分からないのです」


 私はしばし沈黙した。記事を書く立場として、真実を知りたい。だが目の前の事実は、容易に記事にできるものではなかった。

 オリビアはそんな私を見据え、次の言葉を投げた。


「渡辺さん。あなたに提案があります」


 私は顔を上げた。

「提案……ですか」

「まず、誤報の記事を訂正し、謝罪をしてください。そのうえで、石室の調査を進めてほしい。人々の行方不明は拉致監禁などではなく、“神隠し”による可能性が高いと私は考えています。あなたには、その真相を探る役目を担ってほしいのです」


 胸の奥で、熱いものが揺らいだ。誤報を訂正するのは当然の責務だ。だが、その先に調査を続ける道を託されるとは思わなかった。

「……私が、ですか」

「ええ。そして佐藤を助手につけましょう」

 オリビアは隣に控える佐藤に視線をやった。高校時代、山岳部で共に登った友の顔がそこにあった。信頼できる相棒である。


「調査は、ごく一般的な場所を巡っていただきます。神社、寺、役場、歴史資料館、そして古くから残る伝承を知る人々……。ただし、寺だけは必ず訪ねてください。過去に石室に関わった人々の死や失踪が記録されているからです」


 私は深く息を吸った。寺の境内に死者が一時的に預けられていたという事実が、妙に現実味を帯びて胸に重く沈んだ。


「分かりました。条件を受け入れます。訂正記事は後日発表されるよう準備することをお約束します」

 私の答えに、オリビアは小さく頷いた。彼女の表情には動揺はなく、ただ揺るぎない決意だけがあった。


「では、準備を整えてください。渡辺さん。あなたが見つけるものが、私たちに何をもたらすのか……。それはまだ、誰にも分かりません」


 応接室の窓の外、午後の光が差し込んでいた。

 私は手記を抱きしめるように胸に当て、これから歩む調査の道を思った。石室の謎、行方不明者の影、そして自らの責任。

 重い課題を背負った背中に、佐藤の視線が寄り添っていた。


 こうして、私と佐藤の新たな調査が始まろうとしていた。

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