第2話 石室の手記
平成某年、奥多摩の旧日方邸を訪れた私、渡辺は、石室にある箪笥から一冊の手記を見つけ出した。異なる質感の紙が重ねられたその手記を、私は息を潜めて開き、読み始める。
◇
農民の記
寛政七年 六月某日
村の者ども申すに、与作の娘お梅が山へ薪を取りに行きて、三日帰らず。
人足を募り探すうち、古き石室の前に草履の片方が落ちており。
その石室は古より「入るべからず」と伝えられし所なり。
……四日目の夜、娘は戻りし。
ただし、眼の色変わり、言葉も他国の者のごとく。
爾来、笑うこともなく、ただ石室の方角を見やり続け候。
◇
僧の記
文政三年 冬夜
修行の途にて、山中の石の間に籠る。
心を鎮め読経すれば、壁に文字浮かび、光の筋現る。
目を凝らせば、遠き世の町並み見ゆ。
人はみな異なる装いをし、鉄の車走り、空までも裂く。
この世は幾度もめぐり、我らの知る時は糸の一筋に過ぎぬや。
恐れ多く、経巻の余白に記すのみ。
◇
与力の報告書
天保十二年 八月
御用にて奥多摩山中を探索、石窟と見える地穴を検分。
内部は広大にして奥深く、灯を掲ぐれど底知れず。
供の者ふたり、忽ち行方知れずとなる。
残された者は「光の中に呑まれた」と申す。
本件、怪異につき触れ候ては民心惑わす恐れあり。
従って記録はここまでとし、以降は差控ふ。
◇浪人の記
慶応二年 春
京にて事破れ、故郷にも帰らず、武州の山を漂泊す。
或る夜、雨を避け石の窟に入り、仮寝せし折。
夢とも現ともつかぬ光景、見たり。
異様なる建物並び立ち、空を裂く鳥もなく、鉄の竿に火の星が点々と並ぶ。
我は己が時を過ぎ、別の世に迷い入ったか。
目覚めてなお、懐の刀の冷えぬうちは夢と断じられず。
◇
商人の手控え
慶応三年 師走
江戸を離れ甲州路を行く途にて、道を誤り山中に至る。
石積みの入口あり、風除けにと潜りしが、奥にて不思議の声を聞く。
異国の言葉に似て、耳慣れぬ節まわし。
怯えて立ち戻る途中、壁に刻まれし絵を見る。
丸き器より火の尾を引きて天へ昇る図なり。
これ如何なる吉凶か、帳面にのみ記し、誰にも語らず置くべし。
◇
書生の覚え書き
明治二十三年 初夏
西洋の学理を修めんと志し、郷里を離れて上京する途、峠にて石の室に憩う。
薄暗き中にて、我は奇妙なる幻を見たり。
空に浮かぶ塔は鉄の筋にて組まれ、灯りは昼のごとく煌々と照る。
人々は着物ならず、洋の装束に身を包み、掌に小さき板を持ち、其に光の文字を浮かべて談じ合う。
時代の急変、かくも烈しきかと心震えしが、
覚めてみれば、外の蝉声ばかり。
◇
新聞記者の断片
明治三十七年 秋
取材にて山間を歩き、村人に導かれしは古き石の祠。
帳面を開き、風習を記録する内に、眠りを覚えず。
されど夢にて見しものは、筆に余る奇観なり。
海の彼方より黒き鉄の巨船が空を飛び、
街には無数の旗めき、火の舌を吐く機械が人を追う。
これを記事にすれば紙面を賑わすやもしれぬが、
荒唐無稽と笑われんこと必定。
ゆえに、ただ傍註に小さく残すにとどめたり。
◇
◇
私は手記を最後まで読み終え、ページを閉じ、しばし黙考する。
……これほどの記録が、いままで表に出てこなかったのはなぜだ?
重い気持ちを抱えつつ、私は山荘を後にした。
外に出ると、夕暮れの光が西の空を赤く染めている。
私は足早に駅へ向かい、そのまま会社へと帰社した。
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