3.9 Heaven's Door

 最愛の人を失った私に残されたものは、彼女のいない日々だった。

 家に帰っても、私の揚げモノを美味しく食べてくれる彼女はいない。

 その笑顔も二度見れない。

 彼女の教えてくれたスマホに残った写真も、この手で触れらない虚像だ。

 キャバクラでの仕事は続けていたが、以前よりも身が入らなくなった。

 ──何か新しいキッカケが必要だ。またナタネに出会うようなことは無理だとしても、このままでは気がどうにかなってしまいそうだ。

 こんな私のことなどナタネは見たくないだろう。美味しく揚げ物をする私を、私の揚げモノで誰かが笑顔になるのを──きっと見たいはずだ。

 戸籍のない私にできることは少ない。誤魔化し誤魔化し、世間の目をかいくぐりながら生きる存在。私を雇ってくれたキャバクラの店長には頭が上がらない。しかしお世話になるのもこれまでだ。

 彼女との思い出が染みついたアパートを出た。

 私の居場所は、庭の隅っこ、光も届かないような一角──衣咲家を出たあの日を思い出す。

 私の足取りはまた、日の当たらない影を求めてさまよっている。

 たどり着いたのは、昼間で人通りの少ない繁華街。それも奥の方。

 “Heaven’s Door”

 アルファベットはカタカナよりも苦手だ。

 なんて読むのかは分からないが、白いロゴには羽根が描かれていた。

 ファサリと舞い散る羽根、アルファベットを持ち上げる羽の生えた幼い子供。

 どこか浮世離れした気配を感じられる。

 ──ここが私の新たな居場所かもしれない。そう思った。

 衣を咲かせる私もまた、不可思議な存在である。



 そして私はHeaven’s Doorで働くことになった。

 店の雰囲気や、料理を運んでくれた彼女らのことも気に入った。

 まさしくここが私の次の居場所だと思った。

 レジで会計を済ませた私が、急に働かせてくださいなんて言ったのには、店員さんも驚いていたけど──店長も穏やかな方で、深い理由も聞かず私を雇ってくれた。

「丁度、キッチン担当の子がやめちゃったから、丁度いい」

 料理は得意だと言ったがスイーツなど作ったことなかった。突然メンバーに加わった私にも、彼女らは親切に作り方を教えてくれた。

 店の店員は皆若い女性だった。何故か胸部がやたらと大きい人ばかり。

彼女らに囲まれて過ごす日々は、屋敷での日々に似ていた。家政婦のたくさんいた屋敷。

 あの夜を懐かしめるぐらいには、私の心の傷も回復していた。

 皆、どこか傷心気味な私のことを気遣ってくれた。深くは聞かないでいてくれたのも、彼女らが私の心を分かってくれる、優しい人だからだろう。皆、何か事情があってこの店に集まっている。

 揚げ物の得意な私のために、唐揚げや天ぷら、ドーナツもメニューに加えてくれた。

 時には人を揚げることもあった。それこそ私の本領発揮の場であったが……以前の様には快く揚げられなくなっていた。

 美味しく揚げて、食べた人はみな他では味わえないほどの幸せを感じるのに……それはナタネが望んでいた光景ではなかったのか?

 私は人肌に衣咲かせることに疑問を持ち始めていたのだ。

 否、幼い私は──屋敷の外に出る前の私は、あんなに揚げ物を嫌がっていたではないか。

 なのになぜ私は今、こんなにも揚げたがっている?

 只の食物だけではない、人さえ……快く思わないなどと言いながら、その実心の中では揚げたがっているんじゃないか?

 ナタネと出会った日、大男を揚げた私はどんな表情をしていた? 襲い掛かって来たのはあちらだが、揚げる必要などあったのか?

 私は何故、あんなにもナタネを揚げたがっていた?

 ──本当に獣はいるんじゃないか? 私はソレを見つけたんじゃないか?

 嫌、そんなはずはない。私であるはずがない。

 それは今もきっとどこかの街で、誰かを襲い続けている。

 そうだ。だったら、僕が懲らしめないといけない。そのために館を出たんだから。

 僕からナタネを奪ったそいつを見つけ出して、揚げ者にしてやらないと。


 ──そしてあくる日、ずっと探していた獣に出会った。

 まさか向こうからやって来てくれるとは。

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