3.6 お礼をさせて?
「本当に、行ってしまわれるのですね」
屋敷を出る私は、家政婦たちに見送られようとしていた。戸口に父の姿はなかった。
「そなた、私が屋敷を出たいのを知っていて、屋敷の外の獣と言う存在を作ってくれたのでは」
「──いえ、偶々ですよ。偶々、お坊っ様が獣退治という理由を思いついただけです」
クスリと笑う。本当に偶然なのか、図ってのモノなのか。私には後者に思える。
すべて見越して、私を救い出してくれたのではないかと。
「では、行ってまいる」
「ええ、お気をつけて」
産まれて初めて屋敷の門をくぐった私は、外の世界に驚くことになるのだ。
私は所詮、屋敷の中の蛙だった。
「えー」
角棒のような形のとてつもなく高い建物──のちにビルという名前を知ることになるが、この時の私にとっては、紛れもなく未知の存在。あとは通りをけたたましい音を立て、馬より早いスピードで駆けて行く──後に知る車とか。
威勢よく家を飛び出した私は早速、立ち往生することになる。
帰ろうかとも思ったけど、今さっき出たばかりなのに──別れを交わした彼女らにカッコ悪い真似は見せられない。本当は道を引き返して泣きつきたかった。
大分悩んだのち、アスファルトの通りを歩きだした私。行きかう人々はみな奇抜な格好。
最初はためらったモノのよく見るとこう、身体の線がくっきり浮かんだ衣服や、胸元を大胆にくりぬいた服なんかも合って──見ていて楽しい。
いつの間にか緊張は取れ、周囲の人と同じように悠々と外の世界を闊歩していた。後から思うと、私の着物姿は異質だったが。
あまりにリラックスしていたせいか知らない場所まで来てしまった。いな、この世界に知る場所など一つもないのだが、“知らない場所”と感じさせる場所だった。例えば、庭の隅っこの木の影が落ちている場所のような、光とは離れた寂しさを感じさせる。
「きゃっ、ごめんなさい」
不意に走って来た女子が肩にぶつかって、そのまま細い道に去っていく。やたらと先を急いでいるようだ。
「てめぇ、待てやごら」
おまけに向こうからは目を黒いもので覆った、恰幅の良い男が歩いてくるではないか。
私は思わず腰に刺した菜箸を引き抜いた。
黒い膜の向こうで男の目がこっちを見た。細い男一人など見過ごそうと思ったが、私の格好も相まって、鼻についてか足を止めた。
「なんだ、兄ちゃん? やろうってか?」
私はじっと菜箸を構えたままだ。いな、動こうとしても足がすくんで動けぬのだった。
「そんなん構えちゃって、よっぽど怯えてるんだな」
私の菜箸を指ではじこうとした。
これは我が衣咲家に伝わる伝家の菜箸なのだ。固まっていた体も流石にほどけ、私は菜箸が触れられぬよう身を引いた。
「くそ──」
そんな私の態度が気に食わず、男は拳を振り上げた。
そして私は──外の世界で初めて、人の肌に衣を咲かせたのだった。
通りには男の叫び声が響いた。
衣は──美味しくも、美しくも、凶器にもなりうる。
「二度揚げは趣味じゃない」
一撃で仕留めてこそ、立派な
練習用の豚人以外を揚げるのは初めてだが、上手く出来た。
「どうしたの?」
男の叫びを聞いて、さっき逃げていた女子が戻って来た。
「これは──」
今先ほどまで自分を追いかけて来ていた男の惨状に動揺しているようだった。
「もしかして貴方がやったの?」
「カラッと揚げてしんぜた」
「そんな……」
目を逸らしたい気持ちを抱えながらしかし、女子の目は揚げたての男に向けられている。
「でも、なんて……美しい衣なの。そして……美味しそうな香り」
私の胸がとても大きな波を感じていた。美しい衣、女子の口から発されたのは何よりの誉め言葉だった。私が図らずも歩んできた衣道に対する。
「よろしければ、一口いかがかな」
「……食べれるの?」
「揚げたてに勝るものはない」
勝るものがあるとすれば──揚げ物に舌鼓を打つ、この女子の幸せそうな表情ぐらいだった。
女子は名をナタネと言った。美味しいという感想と共に名前を教えてくれたのだ。女子は私の揚げた揚げ物だけでなく、揚げた私自身にも好感を感じてくれたみたいだった。
揚げ物はただ美味しいだけではなく、人の輪を繋げてくれる──私は強くそう感じた。この後の出会いもまた結局、私の揚道が導いてくれた出会いだ。
「衣咲さんは私の恩人です。よければ何かお礼をさせてください」
「では、この世界のことを教えてくれないか。私には何もわからぬのでな」
「確かにお侍さんみたいな恰好してますもんね」
それから彼女は私の話気を聞き、街を案内してくれた。ただ歩いているだけでも、知らないものばかりだから、私はそれらについて尋ねた。
ナタネは街の物々を指さしながら、屈託のない笑みを浮かべ、教えてくれた。私は何よりも彼女のことを知りたいと思った。これで別れるのであればつらいが、幸運にもナタネと生活を共にすることになるのだった。
夜を過ごす寝床がないというと、彼女は自分の部屋を貸してくれるといった。私は失礼と身をかがめながら、彼女の家の扉をくぐった。キシリと音を立てる、凄く重そうな扉だった。
「ごめん、散らかってる」
こじんまりとした部屋には、テーブルとベッドと服掛けぐらい。
ナタネは手を伸ばして、カーテンレールに干された下着を回収した。この時の私にはまだ、それがどういう用途の衣類か分かっていなかったが、なんとなく卑猥に感じて目を逸らした。
逸らした先、もっと不味いものを見た。ベッド脇に置かれている、ケーブルが刺さった棒状のソレ。いびつな色だがアレの形をしている。
「ちょっ」
私が見つけたことに気づいて、握りしめる。抜かれたケーブルがパタリと床に渦を巻く。
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