衣咲編

3.5 人肌に衣を咲かせて

 人の肌に衣を咲かせて三十年──まさかここに来て、我が衣道に影響を与えるような食材に出会うことになるとは思わなかった。今私の感じる感慨を理解してもらうには──そもそも、なぜ私が衣職人を目指し始めたのかを話さねばなるまい。

生まれた時すでに、私の道は決まっていた。衣職人の家元である衣咲家に生まれた私は、当然のように衣道に励み、家を継ぐことを期待されていたからだ。

 しかし私は、この人肌に衣を咲かせる営みが──どうにも理解できなかった。だって普通に、訳が分からないから。

 幼い頃は言われるがまま修行に励んだものの、中学生になった私は耐えきれず、家を飛び出した。そこには、ただ一介の中学生として、修行一筋ではなく青春を楽しみたい思いもあっただろう。

 だけど飛び出した先にもまた──家があったのだ。

 そう、私の家は、二つの家が向かい合わせになっていた。だから玄関を飛び出しても玄関があって、また家の中に入ってしまう。じゃあそもそも、どうやって家に入るのかは謎だが──そもそも私の生きる世界すべては、家の中の話だったのかもしれない。

 というわけで家の外に出れず、戸惑う私。廊下を彷徨っていると

「いかがされました、お坊っ様」

 たまたま向こうから歩いて来た、家政婦のおゆうに見つかってしまった。

「違うのだこれは、逃げようとしたわけじゃないんだからね」

「まさか、お坊っ様、逃げようとしていたんじゃ……」

「ば、ばか、そんなはずあるか」

「ご安心ください、おっ様。お父上にはこのことは秘密にしておきます──ですがその代わり──」

 そこでお湯が持ち掛けてきた条件は私には大変嬉しいなモノであった。

 そう、お湯は私を部屋に連れ込むと、着物の帯をほどき白く大きなそれを宵闇に露出したのだ。闇もまた普段の眠そうな目をかっぴらき、それを注視しているに違いない。私はそのことが少し、妬ましく感じる。

 戸惑う私は、彼女にされるがままだった。急なことで信じがたいだろうが、本当に起きたことだから仕方ない。まさか弱みを握られ抱かれるなど、大変屈辱的なことだ。

 ぼんやりした意識で部屋を出た私。まだ肌の上を何か白い手のようなものが張っているように感じられた。あまりにもぼんやりしていたか、厠に行くのに廊下を歩いていた家政婦、軟水なんすいに出くわしてしまった。

 軟水は私の着物の袖が少しはだけているとの、頬が上気しているのを見てか。そして私がお湯の部屋の程近くにいるからか

「まさかお坊っ様、お湯と寝床を共にしたので──? ご安心ください、このことは黙っております。その代わり──」

 そしてまた私は屈辱的な取引に応じることになるのだ。

 後はこの繰り返しで、夜が明ける頃には、屋敷の全家政婦と寝床を共にしていた。

事態はそれで終わりではなかった。一晩の過ちでは終わらなかったのだ。

数月も経てば、彼女らのうち何人かのお腹が膨らみ始めた。屋敷の人々は、彼女らを見て疑問を感じ始めた。一年もたてば、同じ月に六人もの赤子が生まれたから、事態は明確である。

 懐胎中、一年行われていた犯人探しは佳境を迎え、ついにある家政婦が口を開いた。

 彼女は私と寝床を共にしたものの、妊娠には至らなかった者だ。

「あれはちょうど一年ほど前のことでしょうか。とても暑い晩のことでした。あまりの蒸し暑さに戸を開けて眠っていた所、身体に何か圧し掛かってくる感触を感じて目を覚ましました。見ると月明かりを背負った、こんな大きな影が──私の身体に覆いかぶさっていたのです」

 こんなと手を広げる。

「そして恥ずかしいことですが──その獣は私を好き勝手すると、窓の外に去っていったのです。境遇は違うかもしれませんが、皆もまた同じ目に遭ったのでしょう。あの獣に襲われた」

 突然何を言ってるんだ? と思いながらも、家政婦たちは口裏を合わせ頷く。

「私たちはあまりの屈辱に、おのが体験を口にしませんでした。街の方でも同じ獣のうわさを聞きます。たくさんの女子が襲われている──お館様の耳にはこのような下世話な話、御届き出ないかもしれませんが」

 確かに、衣咲の人間は俗世とはかかわりが薄かった。我々の歩く道は衣道の上だけだった。

「今更になってすみません。私自身、言うべきか迷って今知った。だってこの子らは──」

 座敷に集まった家政婦たちの抱く六人の赤子。

「獣の子なのです。そのことが知れ渡った時、この子らは殺されてしまうのではないかと。しかし、今となっては我々の子であることも事実なのです。首を絞めてしまうのは、あまりに悲しすぎる」

 目を伏せて奥歯を噛む。

「しかしもし、我々に共感し、ご慈悲を頂けるのであれば、この子らが母親とともに身を育むことをお許しいただきたいのです」

 涙うたれるmy父上。意外と血も涙もある。こんな姿見たの初めてだ。

 もしかすると、子であり弟子である私の前では厳格な姿をふるまっていたのかもしれない。俗世には疎くとも、柔らかい心を持ったお方なのだ。

「──よろしい。同じ衣に包まれ、盛大な花を咲かせるがいい」

 はは──と頭を降ろす家政婦たち。何故か私もこっそりと、それに続いていた。

 ──そして話を切り出していた。

「父上」

「どうした」

 皆の視線が私を向く。

「私は皆を苦しませたその獣とやらが許せませぬ。どうか私に、館の外に出てその獣を懲らしめる機会を頂けませんか」

「それは話が違う──そなたの身に何かあったらどうする。それにお主は衣道に励み、私の後を継ぐ者だ。外にいる間、修行はどうするのだ」

「だからこそでございます、父上。衣道に励むが故に、館の外に出たいのでございます」

「……どういうことだ」

「正直、私には父上を超えるほどの才能も気概もないと思います。なので、父上とはまた違った衣道を歩みたいのです。私はこの館の中のことしか知りません。きっと外には私の知らない沢山のモノが転がっています。それらを知り、己の衣道に生かしたいのです。そうすればきっと、父上も見たことのない衣が、我が衣道に咲くと思います。いえ、きっと咲かせて見せます」

 頭を下げる。座敷の空気はピンと張り付いている。父上の次の言葉を待っているみたいだった。

「良く分かんなかったけど、そんなに行きたいなら行ってくれば?」

 そう、衣道は険しく難解で、訳が分からないのだ。

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