第五話 裏切りの錬金術師と封印された触媒

 遺跡の奥から溢れ出す黒い霧は、それ自体が意思を持っているかのように、うねりながら一つの形を取り始めた。

 それは、巨大な、禍々しい影の巨人だった。

 その顔があるべき場所には、ただ、絶望に歪んだ無数の顔が、苦悶の表情のまま、浮かび上がっては消えていく。

 数百年前、この国を滅ぼした『記憶の残滓レムナント』の、いわば根源そのもの。

 アゼルは、そのあまりに強大な負の力に、立っていることさえままならなかった。

 ガイウスとの訓練で鍛えたはずの精神力も、この絶対的な絶望の前では、赤子が大人に抗うように、無力だった。

(だめだ…勝てない…!)

 だが、リリアは、違った。

 彼女は、その絶望の塊の中に、一つの、あまりにも悲しい、か細い声を聞いていた。

(助けて…誰か、私を、ここから…)

「先輩、行きましょう」

 リリアは、アゼルの手を、力強く引いた。

「この声の主は、戦うことを望んでいない。ただ、救いを求めてる…!」


 二人は、影の巨人が放つ絶望の波動に耐えながら、遺跡のさらに奥、王宮の中枢であったであろう、巨大な広間へとたどり着いた。

 広間の中央には、巨大な錬金術の魔法陣が描かれ、その中心で、一体の白骨死体が、玉座に座ったままの姿で残されていた。

 そして、その白骨が掲げた両腕の中心には、一つの水晶が、禍々しい黒い光を放ちながら、ゆっくりと脈動している。

 あれが、全ての元凶だ。

「…あれは、錬成記録用の水晶か」

 アゼルは、最後の力を振り絞って、その水晶を分析した。

 そこには、この王国が滅びる、最後の瞬間の記録が、封じ込められているはずだった。

 アゼルが、水晶に手を伸ばそうとした、その時。

 影の巨人が、二人の前に立ちはだかった。

『邪魔を、するな…!』

 巨人の咆哮が、遺跡全体を揺るがす。

「リリア、俺が時間を稼ぐ!君は、あの水晶を!」

 アゼルは剣を構え、影の巨人へと斬りかかった。

 だが、その刃は、巨人の体を、空気を斬るように、虚しく通り抜けるだけだった。

 巨人の腕が、アゼルを薙ぎ払う。

 アゼルは壁に叩きつけられ、意識が遠のいていく。

 その時だった。

 リリアは、水晶に手を伸ばすのではなく、その前に、そっと膝をついた。

 そして、歌い始めた。

 それは、アストラルムの、古い、古い子守唄だった。

 母から子へ、そしてまたその子へと、何百年も歌い継がれてきた、ただ、優しく、そして温かい、魂を癒すための歌。

 彼女の澄んだ歌声が、絶望に満ちた広間に響き渡る。

 影の巨人の動きが、ぴたりと止まった。

 その巨体を構成していた、無数の苦悶の表情が、少しずつ、穏やかな顔へと変わっていく。

 リリアの歌は、彼らが求めていた、何百年もの間、誰からも与えられることのなかった「安息」そのものだったのだ。


 やがて、影の巨人は、その形を保てなくなり、穏やかな光の粒子となって、静かに消えていった。

 後に残されたのは、黒い輝きを失い、ただの透明な水晶へと戻った、記録用のクリスタルだけだった。

 アゼルは、薄れゆく意識の中、その光景を、ただ、呆然と見つめていた。

 論理でも、力でもない。

 ただ、一つの、優しい歌が、数百年続いた悲劇を終わらせたのだ。


 アゼルが意識を取り戻した時、彼は、リリアの膝の上で横になっていた。

 彼女は、彼の傷の手当てをしながら、静かに、あの子守唄を口ずさんでいる。

「…リリア…」

「あ、気づきましたか、先輩。もう大丈夫ですよ」

 アゼルは、ゆっくりと体を起こすと、祭壇へと歩いて行き、その上に置かれた水晶を手に取った。

 そして、自らの魔力を注ぎ込み、その中に封印された、最後の記録を再生した。

 二人の脳内に、直接、数百年前の光景が、奔流のように流れ込んできた。


 ――最初に映し出されたのは、穏やかで、知的な探求の光景だった。

 白亜の研究室で、幾人もの錬金術師たちが、宙に浮かぶ、淡く美しい光の粒子を、感嘆の眼差しで見つめている。

『見てくれ、この美しい光を…。魂が肉体を離れる瞬間、その記憶が、世界の理から解き放たれ、純粋な情報として束の間だけ姿を現す…。我々は、これを「記憶の残滓レムナント」と名付けた』

 一人の老錬金術師の、穏やかな声が響く。

 彼らにとって、「記憶の残滓レムナント」は、まだ脅威ではなく、世界の真理に触れるための、神聖な研究対象だったのだ。


 ――場面が変わる。研究は、次の段階へと進んでいた。

『この情報の流れの仕組みを完全に解明し、制御できれば、我々は魂を永遠に保つ術…すなわち、真の不老不死さえも実現できるやもしれん。それは、全ての病と死を克服する、我々の悲願だ』

 別の錬金術師が、希望に満ちた声で語る。

 彼らは、アストラルムの創設者たちが漠然と伝えていたように、確かに「不老不死」を、その研究の最終目標としていた。

 だが、それは、支配や権力のためではない。

 ただ純粋に、生命を苦しみから解放するための、平和利用の研究だった。


 ――そして、運命の日。最後の実験の光景が映し出される。

 広間には、これまでの穏やかな雰囲気はなく、張り詰めた緊張感が満ちている。

 中心には、野心的な光を目に宿した主席錬金術師ヴァレリウスが立ち、何かを呟きながら、制御用の術式に、他の誰も気づかぬよう、微細な細工を施している。

 彼は実験をわざと失敗させ、「記憶の残滓レムナント」の力を独占しようとしていたのだ。

『なぜ、この偉大な発見の栄光を、奴ら凡庸な同僚たちと分かち合わねばならんのだ…? この力は、この叡智は、全て私が一人で解き明かした!ならば、この成果は、私一人のものとなるべきだ!』

 彼の嫉妬と独占欲に満ちた囁きと同時に、制御下にあったはずの「記憶の残滓レムナント」が、美しい光から、全てを飲み込む禍々しい黒い奔流へと変貌した。

 絶叫と、建物が崩れ落ちる轟音。

 人々が次々と黒い本流に飲み込まれ、その意識が「記憶の残滓レムナント」へと変わっていく。

 平和利用の研究は、ヴァレリウスの裏切りによって、歴史上最悪の大災害へと変わったのだ。


 そこに映し出されたのは、王国の滅びの真実だった。

「…これが、真実か」

 アゼルは、その事実の重さに、言葉を失った。

「記憶の残滓は、元々は破壊の力ではなかった。ヴァレリウスという男が、それを破壊の力に変えたんだ」


 映像の最後には、生き残った数人の錬金術師たちが、ヴァレリウスが使った究極の触媒、『銀の雫アルゲント』を手に、燃え盛る王宮から必死に脱出する姿が映っていた。

 彼らは、暴走の引き金そのものと化したそれを、二度と悪用されぬよう、王宮の地下深く、特別な封印の間に隠した。


 水晶の記録は、その封印の間の場所を示して、終わっていた。


 二人は、記録が示した、王宮の地下へと向かった。

 厳重な封印が施された扉を、水晶の記録にあった通り、二人の魔力を同調させて開くと、その先に小さな祭壇の間が姿を現した。

 その中央に、一つの小さな小瓶が、淡い銀色の光を放ちながら、静かに置かれている。

 究極の触媒、『銀の雫アルゲント』だ。

 だが、その小瓶は、薄い光の障壁に守られており、手を伸ばすことができない。

 二人が祭壇に近づくと、障壁の中から、古王国の時代のローブをまとった、半透明の錬金術師の幻影が、静かに姿を現した。

 それは、特定の個人ではない。この触媒を封印した、創設者たちの「意志」そのものだった。

『我らが遺した最後の希望を求める者よ』

 その声は、直接、二人の脳内に響いた。

『汝らは、その力を、何のために使う?』

 それは、資格を問う、最後の試練だった。

 アゼルは、一歩前に進み出た。

「我々は、貴方たちが犯した過ちを、正すために来た。だが、力でではない。理論でだ。我々には、都市に満ちる汚染を、時間をかけて、安全に、そして確実に浄化する術式がある。二度と、この悲劇を繰り返させはしない」

 彼の言葉に、創設者の幻影は、わずかに頷いたように見えた。

 だが、障壁は消えない。

 幻影は、次にリリアを見つめた。

 リリアは、アゼルの隣に並び立つと、まっすぐに幻影を見つめ返した。

「私たちは、森で、たくさんの声を聞きました。苦しくて、悲しくて、ただ安らかになりたいと願う、たくさんの魂の声を。私は、その人たちを、助けたい。ただ、それだけです」

 その言葉に、創設者の幻影の険しい表情が、初めて、穏やかに解けていった。

 論理だけではない。心だけでもない。

 確かな理論と、純粋な救済の意志。

 その二つが揃って、初めて、彼らはこの力を手にする資格を得たのだ。

 光の障壁は、雪が解けるように、すうっと消えていった。


 究極の触媒、『銀の雫アルゲント』。


 二人は、ついに、旅の目的を、その手にしたのだ。


 だが、二人の心に、達成感はなかった。

 代わりにあったのは、これから自分たちが向き合わなければならない、あまりにも大きな真実の重さと、そして、この触媒をアストラルムへ持ち帰るという、新たな責任の重圧だけだった。

 二人は、顔を見合わせた。

 その目には、故郷アストラルムを救うという、揺るぎない決意が、改めて、強く宿っていた。

 彼らは、この遺跡で滅びていった、名もなき人々の魂に、静かに黙祷を捧げると、故郷への、長く、そして険しい帰路へと、再び歩き始めたのだった。

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