第四話 文明の亡骸

 宿場町での一件は、二人に大きな教訓を残した。

 アゼルは、自らの知識が、実社会ではいかに無力であるかを痛感し、リリアは、人の善意を信じるだけでは、この世界を渡っていけないことを学んだ。

 二人の間の信頼関係は、この過酷な旅を通して、より一層、強固なものとなっていた。

 セラフィーナの地図と、アゼルが持ち前の記憶力で暗記した星図を頼りに、彼らはさらに森の奥深くへと進んでいく。

 囁き声は、もはや絶え間なく二人の精神を蝕み、時には、あまりに鮮明な、古王国の滅びの幻影を見せることもあった。

 燃え盛る王宮、逃げ惑う人々、そして、天を覆う巨大な、黒い影。

 アゼルは、その幻影を見るたびに、自らの失われた過去の悪夢が刺激され、激しい頭痛に襲われた。

 そのたびに、リリアは、彼の背中をさすり、彼女が知る限りで最も効果のある、精神安定の薬草を、彼に与え続けた。

 一方、リリアもまた、その強すぎる共感力ゆえに限界を迎えつつあった。

 アゼルが情報の奔流として処理している『記憶の残滓レムナント』を、彼女は一つ一つの魂の「痛み」として、直接受け止めてしまっていたのだ。

 囁き声が強まるたびに、彼女の顔からは血の気が引き、その足取りは目に見えて重くなっていった。

「リリア、これを」

 ある夜の野営で、アゼルは小さな水晶のお守りを彼女に差し出した。

「俺が即席で作った、思考遮断器だ。君の優れた直感はそのままに、余計な感情のノイズだけを遮断する助けになるはずだ。君は優しすぎる。今はその優しさが、君自身を壊しかねない」

 リリアは、その不器用な優しさに涙ぐみながら、お守りを強く握りしめた。

 アゼルの論理が、感情の奔流に飲まれそうなリリアの盾となり、リリアの優しさが、過去の悪夢に囚われそうなアゼルの心を繋ぎとめる。

 二人一緒でなければ、とっくにこの森の狂気に飲み込まれていたかもしれない。

 二人はお互いを助け合いながら、森の奥へと歩を進めていった。


 旅を始めて、三週間が過ぎた頃。

 二人はついに、地図が示す目的地である、巨大な渓谷の底にたどり着いた。

 そこには、風雨に晒され、蔦に覆われながらも、かつての壮麗さを留める、巨大な遺跡が、静かに眠っていた。

 シルヴァニア王国の、王宮跡地だった。

 二人の目の前に広がっていたのは、もはや「遺跡」という言葉では生ぬるい、一つの文明の亡骸だった。

 天を突いていたであろう白亜の塔は、半ばから無残に折れ、傾いたまま、数百年もの間、静止している。

 幾何学的な模様が刻まれた壁面は、まるで巨大な一枚岩から削り出されたかのようで、石材の継ぎ目がどこにも見当たらない。

 巨大な樹木の根が、その完璧な壁を蛇のように締め上げ、砕き、その隙間から力強く枝葉を伸ばしていた。

 聞こえるのは、風が空洞と化した窓を吹き抜ける、悲しげな口笛の音だけ。

 あまりに壮大で、あまりに美しい、死の光景だった。

「ここが…」

 アゼルは、そのあまりに荘厳で、しかし悲しい光景に、言葉を失った。


 遺跡の入り口である巨大な石の門には、古王国の紋章が刻まれていた。

 二人が門に近づいても、門はびくともせず、ただ沈黙しているだけだった。

「…ただの扉じゃないな」

 アゼルは紋章に近づき、その複雑な刻印を指でなぞった。

「これは、一種の問いかけだ。『我らが犯した罪を、何をもって贖うか』と、この門は俺たちに問うている。答えは言葉じゃない。錬金術的な実証が必要だ」

 彼はしばらく思考を巡らせると、一つの結論に達した。

「リリア、君の力を貸してくれ。この門が求めているのは、破壊や支配の力じゃない。純粋な『癒やし』と『調和』の力だ。僕の論理だけでは、その力は生み出せない」

 リリアは、アゼルの真剣な瞳を見て、こくりと頷いた。

 彼女は門の前に進み出ると、そっと紋章に手を触れ、目を閉じた。

 彼女は、森で感じた名もなき魂たちの痛み、そして彼らを救いたいと願う、自らの純粋な想いだけを心に込めた。

「…どうか、安らかな眠りを」

 彼女の祈りに応えるかのように、その手のひらから、温かく、穏やかな光が溢れ出し、紋章へと吸い込まれていく。

「今だ!」

 アゼルは紋章の対となる部分に手を置き、リリアの放つ純粋なエネルギーを制御・増幅するための、極めて複雑な術式を魔力で描き出した。

 二つの力が合わさった瞬間、古王国の紋章が、これまでとは比較にならないほどの、まばゆい青白い光を放った。

 ゴゴゴゴ…という地響きと共に、数百年ぶりに、遺跡の門が、ゆっくりと開かれていく。

 門の向こうは、漆黒の闇だった。

「行くぞ」

 アゼルは、錬金術で作り出した光球を灯し、リリアは、背嚢から取り出した松明に火をつけた。

 二人は、互いの顔を見合わせ、頷くと、躊躇なく、その古代の闇へと足を踏み入れた。

 遺跡の内部は、静寂に包まれていた。

 だが、その静寂は、死の静寂ではなかった。

 まるで、巨大な何かが、息を潜めて、侵入者を待ち構えているかのような、張り詰めた空気が漂っていた。

 広いホールに出た、その瞬間。

 壁際に並んでいた、騎士の石像たちが、一斉に、その石の瞳を、不気味な赤い光で輝かせた。

 ガコン、という硬質な音と共に、石像たちが動き出す。

 古の錬金術師たちが遺した、自動防衛人形、ゴーレムだった。

「来るぞ!」

 ゴーレムたちは、機械的で、寸分の狂いもない動きで、二人を包囲し、その石の剣を振り上げてきた。

「リリア、下がって援護を!」

 アゼルは剣を抜き、一体のゴーレムの攻撃を受け止める。

 凄まじい衝撃が、腕を駆け巡った。

(重い…!それに、こいつら、ただの力任せじゃない。動きに、一切の無駄がない!)

 ゴーレムたちの動きは、アゼルがこれまで戦った、どんな人間よりも、合理的で、そして冷徹だった。

「先輩、奴らの動力源は、胸の結晶石コアです!」

 リリアが、ゴーレムの体表に浮かび上がる、魔力の流れを読み取り、叫んだ。

 彼女は、背嚢から取り出した、いくつかの薬品を素早く調合すると、それを粘土に混ぜ込み、一体のゴーレムの足元へと投げつけた。

 粘土は、ゴーレムの足に張り付くと、瞬時に硬化し、その動きを、ほんの一瞬だけ、封じ込めた。

 その隙を、アゼルは見逃さなかった。

 彼は、体勢を崩したゴーレムの懐に飛び込み、その胸の中心にある、赤く輝く結晶石コアに、渾身の力で剣を突き立てた。

 甲高い音と共に、結晶石コアが砕け散る。

 ゴーレムは、その動きを止め、元の石像へと戻った。

 だが、休む暇はなかった。

 残りのゴーレムたちが、仲間が倒されたことで、その攻撃パターンを変化させ、より連携の取れた動きで、二人を追い詰めてくる。

 アゼルが一体の攻撃を防げば、別の二体が、その死角から襲いかかる。

「このままじゃ、ジリ貧だ…!」

 アゼルは、リリアが作り出した閃光玉で、ゴーレムたちの視覚を眩ませ、一時的に距離を取った。

「リリア、あのホールの中央にある、台座が見えるか!」

 アゼルが指差した先には、床から突き出た、紋章が刻まれた石の台座があった。

「あれが、こいつらの制御装置のはずだ!俺が奴らを引きつける!その隙に、あれを破壊しろ!」

「でも、先輩一人じゃ…!」

「やるしかない!」

 アゼルは、再びゴーレムの群れへと突進していった。

 リリアは、唇を噛み締めると、一瞬の躊躇の後、アゼルの作ってくれた活路を駆け抜け、ホールの中央へと走った。

 アゼルの体には、次々と、ゴーレムたちの石の剣による、浅いが、しかし無数の傷が刻まれていく。

 リリアは、台座の前にたどり着くと、その表面に刻まれた、複雑な術式を読み解こうとした。

(だめ…この術式、あまりにも複雑すぎる…!破壊しようとしたら、逆にこっちが吹き飛ぶ…!)

 彼女は、台座を破壊するのではなく、その機能を「停止」させる方法を探った。

 そして、術式を制御しているであろう、五つの小さな魔力供給用の水晶を発見する。

 彼女は、背嚢から、銀色の液体が入った小瓶を取り出すと、その液体を、五つの水晶に、正確に垂らした。

 液体は、水晶の魔力を中和し、その輝きを失わせていく。

 その瞬間、あれほど猛威を振るっていたゴーレムたちが、一斉に、ぴたりと、その動きを止めた。

 アゼルは、血塗れのまま、その場に崩れ落ちた。

「…やったか…」

 二人は、互いの無事を確かめ合うと、安堵の息を漏らした。


 だが、本当の恐怖は、ここからだった。

 ゴーレムたちが機能を停止したことで、この遺跡に封印されていた、より強力な「何か」が、長い眠りから目を覚まそうとしていた。

 遺跡全体が、地響きを立てて揺れ始め、壁の隙間から、濃密な、黒い霧が、溢れ出してきたのだ。

 それは、これまで二人が経験した、どの『記憶の残滓レムナント』よりも、悪意に満ちた、純粋な絶望の塊だった。

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