エピローグ
故郷への帰路は、行きとは全く異なる様相を呈していた。
アゼルとリリアは、もはや外界の常識に戸惑う、世間知らずの研究者ではなかった。
その足取りは確かなものとなり、その瞳には、世界の真実の一端に触れた者だけが持つ、深い覚悟が宿っていた。
再び足を踏み入れた「囁きの森」の声は、もはや彼らの精神を蝕む呪詛ではなかった。
それは、ヴァレリウスの陰謀によって無念の死を遂げた、古王国の民の悲しみの声。
二人はその声に耳を傾け、時折立ち止まっては、鎮魂の祈りを捧げながら森を抜けた。
数週間後、アストラルムの港に二人の乗った船が帰り着いた時、そこにはガイウスとセラフィーナが、まるで毎日待ち続けていたかのように、静かに立っていた。
「…おかえり」
ガイウスは、ぶっきらぼうに、しかしその声には隠せない安堵を滲ませて言った。
彼は、二人の顔つきが、旅立つ前とは比べ物にならないほど、精悍で、そして力強くなっているのを見て、ただ黙って頷いた。
セラフィーナは、リリアが大切に抱える小瓶――『
「あなた方は、答えを見つけ出したのですね。…いいえ、自らの足で、新たな答えを掴み取ってきた。その顔に、そう書いてあります」
探求室に戻ったアゼルとリリアは、休む間もなく、最後の実験に取り掛かった。
壁の地図に、忌まわしい×印として記された、浄化不能の汚染地帯。
二人は、その一つである旧市街の第七区画へと向かった。
そこでは、『
リリアが、震える手で『
「起動」
アゼルの声に応え、術式が穏やかな光を放つ。
これまで術式を頑なに拒絶していた黒水晶が、その光に触れた瞬間、内側から、まるで氷が解けるかのように、ゆっくりと透明に変わっていく。
そして、最後には、純粋な光の粒子となって、霧散した。
後に残されたのは、本来の、穏やかで美しい幻影の街並みだけだった。
長かった戦いが、本当に終わった瞬間だった。
リリアの瞳から、大粒の涙が溢れ落ちた。
アゼルは、そんな彼女の肩に、ただ、静かに手を置いた。
数週間後の夜、探求室のバルコニーで、アゼルとリリアは、眼下に広がる、完全に浄化された都市の幻影を見下ろしていた。
「…昔の俺なら、信じられなかっただろう」
アゼルが、ぽつりと呟いた。
「最後の決め手になったのが、君の歌だったとはな。論理でも、力でもない。ただ、魂を癒すためだけの、あの優しい子守唄が、数百年続いた呪いを解いた。俺は、この旅で、ようやく理解したのかもしれない。真実とは、ただ書庫で読み解くものではない。こうして、誰かと共に歩き、その心に触れることで、初めて見えてくるものなのだと」
「私もです」
リリアは、少しだけ頬を染めながら、しかし誇らしげに胸を張った。
「先輩の論理がなければ、私はただ、森の声に飲まれていただけでした。先輩の知識が、私の直感に、進むべき道を教えてくれたんです。私たちは、二人で一つ、ですよね?」
その言葉に、アゼルは、穏やかに微笑んだ。
その時だった。
探求室の扉が、控えめにノックされた。
入ってきたのは、ガイウスだった。その手には、白銀の鷲の紋章で封をされた、一通の正式な書簡が握られている。
「…俺たちの故郷が、ようやく本当の平和を取り戻したというのに、すまんな。どうやら、この世界は、俺たちに休む暇を与える気はないらしい」
ガイウスが差し出した書簡。それは、エレジア王国の宰相、カイル・ヴァーミリオンからの、正式な国交樹立を求める、公式な使節団の派遣を告げるものだった。
アストラルムの浄化は、完了した。
だが、それは、この孤高の都市が、ついに大陸の歴史という大きな渦の中へと、その身を投じることの始まりを意味していた。
新たな出会いを予感させる、外界からの風が、今、確かに吹き始めていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます