第三話 囁きの森と外界の洗礼

 アストラルムのある島から、海を渡ること半日。

 二人の乗った船は、エレジア大陸の、霧深い入り江にたどり着いた。

 船を降り、最初に踏みしめた大陸の土は、アストラルムのそれとは、全く感触が違っていた。より硬く、そして、様々な生命の匂いが、濃厚に混じり合っている。

「ここが…」

「ああ。『囁きの森』だ」

 二人の目の前には、鬱蒼とした木々が、まるで巨大な壁のように、どこまでも続いていた。


 二人は、すぐに森には入らず、まずは海岸沿いにしばらく歩き、獣道を探すことにした。

 アストラルムの穏やかな海岸とは違い、こちらの海は荒々しく、灰色の波が白い飛沫を上げて絶えず砂浜に打ち付けている。

 リリアは、生まれて初めて見る大きな波に目を輝かせ、アストラルムでは見かけない、螺旋模様の美しい貝殻を拾い上げた。

「見てください先輩!なんて綺麗な…!」

「それは石灰質の外骨格を持った軟体動物の死骸だ」

 アゼルは、リリアの感動を台無しにするような分析を口にしながらも、その視線は、鋭い鳴き声を上げて崖の上を飛ぶ、見慣れない海鳥の群れを追っていた。

 幻影ではない、確かな実体を持つ生き物の力強い翼の動き。

 その一つ一つが、彼にとっての研究対象であり、驚異だった。

 塩の香りと、湿った腐葉土の匂いが混じり合う、濃密な大気の匂いを、二人は肺いっぱいに吸い込んだ。


 やがて、獣道を見つけると、二人は意を決して森の中へと足を踏み入れた。

 陽の光は、分厚い枝葉に遮られ、森の内部は昼間だというのに薄暗い。

 そして、その名の通り、森の奥からは、絶えず、ザワザワという、無数の人々の囁き声のような音が聞こえてくる。

 それは、風が木々の葉を揺らす音ではなかった。

 この森に染み付いた、無数の『記憶の残滓レムナント』が発する、声なき声だった。

「すごい…アストラルムの比じゃないわ」

 リリアは、そのあまりに濃密な『記憶の残滓レムナント』の気配に、肌が粟立つのを感じた。

 都市の『記憶の残滓レムナント』は、塔によって管理され、濾過されたものだ。

 だが、ここのそれは、剥き出しで、野性的で、そして混沌としていた。

「気をつけろ。ここでの幻影は、都市のものとは違い、直接俺たちの精神や肉体に干渉してくる可能性がある」

 アゼルは、腰の剣の柄に手をかけ、慎重に森の奥へと進んでいった。


 森の中は、彼らの想像を絶する、幻想と危険が入り混じった世界だった。

 足元では、踏みしめた苔が、一瞬だけ、苦悶の表情を浮かべた兵士の顔に変わる。

 頭上では、木々の枝が、まるで蛇のようにうねり、道を塞ごうとする。

 そして、囁き声は、次第に明確な言葉となって、二人の脳内に直接響き始めた。

『助けて…』

『熱い…』

『なぜ、我らを見捨てた…』

 それは、数百年前、この地で滅びたという、古王国の民の、断末魔の叫びだった。

「惑わされるな、リリア!これは、ただの情報の残響だ!」

 アゼルは、精神を守るための簡易な結界を張りながら、先へと進む。

 だが、リリアの足は、思わず止まっていた。

 彼女には、その声が、ただの残響には聞こえなかった。

 一つ一つの声に、確かに、今もなお苦しみ続ける、魂の痛みが感じられたのだ。

「先輩…この人たち、あまりにも、可哀想…」

「リリア!」

 アゼルの厳しい声に、彼女ははっと我に返った。

 一瞬、彼女の心が声に共鳴した隙を突き、地面から、黒い霧のような手が何本も伸び、彼女の足首を掴もうとしていた。

「きゃっ!」

 アゼルは、躊躇ちゅうちょなく剣を抜き、その霧の手を薙ぎ払った。

「…す、すみません…」

「謝らなくていい。だが、忘れるな。俺たちは今、極めて危険な土地にいるんだ」

 アゼルの言葉に、リリアは唇を固く噛み締め、頷いた。

 優しさでは、ここでは生き残れない。

 彼女は、その事実を、改めて胸に刻んだ。


 ◇


 その日の夕刻、二人は風を避けられる岩陰を見つけて、初めての野営の準備を始めた。

「…ガイウス隊長の言っていたことが、身に染みるな」

 アゼルは、慣れない手つきで火打ち石を打ちながら、苦々しげに言った。

 湿気を含んだ薪は、なかなか火がつかない。

 彼の理知的な眉間に、深い皺が刻まれている。

「はい…」

 リリアは、アゼルの隣に座り込むと、背嚢から携帯用の薬研やげんを取り出し、森で採取した解熱効果のある薬草をすり潰し始めた。

 その手つきは、錬金術の調合と同じように、正確で、迷いがない。

 火打ち石の、カチ、カチ、という硬質な音だけが、不気味なほど静かな森に響く。

 やがて、アゼルが根負けする前に、小さな火種が生まれ、パチパチと音を立てて燃え広がった。

 小さな焚き火の光が、二人の疲れた顔を照らし出す。

 リリアは、水筒の水で溶いた薬草をアゼルの腕の切り傷に手際よく塗ってやると、干し肉と木の実だけの、ささやかな夕食の準備をした。

「…すまない」

 アゼルが、ぽつりと呟いた。

「俺の知識は、ここでは何の役にも立たない。君に助けられてばかりだ」

「そんなことありません」

 リリアは、首を横に振った。

「私は、先輩の知識があったから、どの薬草が安全か分かったんです。それに、先輩が結界を張ってくれたから、森の声も、今は少しだけ遠くに聞こえます。私たちは…二人で一つ、ですよ」

 その言葉に、アゼルは何も言えず、ただ、黙って干し肉を口に運んだ。

 焚き火の向こうの闇の奥から、また、誰かの囁き声が聞こえる。

 だが、それはもう、ただ恐ろしいだけのノイズではなかった。

 彼らがこれから向き合うべき、世界の、悲しい真実の声のように、アゼルには聞こえていた。


 ◇


 数日間、森を彷徨った末、二人はようやく、古びた街道へと出た。

 遺跡は、この街道を抜けた先にあるはずだった。

 街道に出ると、森の中とは打って変わって、人の気配がし始めた。

 やがて、彼らの視界の先に、小さな宿場町が見えてくる。

「少し、休みましょう、先輩。食料も、水も、もう尽きそうです」

 アゼルも、リリアの提案に頷いた。


 宿場町は、彼らが想像していたよりも活気があった。

 様々な人種が、酒場で陽気に酒を酌み交わし、通りでは、屈強な傭兵たちが、大声で談笑している。

 二人は、その中で、自分たちの身なりが、ひどく浮いていることに気づいた。

 アストラルムの基準では実用的だったはずの旅装束も、ここで見ると、どこか都会的で、洗練されすぎているように見えた。

「…見られてるな」

 アゼルが、低い声で呟く。

 酒場の隅で、値踏みをするような、あるいは、獲物を見つけたかのような視線が、いくつも自分たちに突き刺さるのを感じていた。

 二人は、町の隅にある、一番みすぼらしい宿屋を選んだ。

「一晩、泊めてくれ」

 アゼルが、ガイウスから教わった通り、ぶっきらぼうに銀貨を数枚、カウンターに置いた。

 宿屋の主人は、その銀貨と、二人の顔を胡散臭そうに見比べると、にやりと笑った。

「へい、いらっしゃい。お二人さん、見かけない顔だねぇ。どっから来たんだい?」

「…北からだ」

「北ぁ?北にゃ、あの気味の悪い囁きの森しかねぇはずだが…」

 主人の探るような視線に、アゼルは内心で舌打ちした。

 ガイウスからは、「素性は絶対に明かすな」と、あれほどきつく言われていたというのに。

 その時だった。

「私たちは、巡礼の旅をしているんです」

 リリアが、疲れ切った、しかし敬虔な信者のように、穏やかな笑みを浮かべて、主人の言葉を遮った。

「北の森にあるという、古い聖地を目指しておりまして。ようやくここまでたどり着いたのです」

 彼女の、あまりに自然な演技と、その穢れのない瞳に、宿屋の主人は、一瞬、毒気を抜かれたようだった。

「…へ、へぇ、巡礼ねぇ。そりゃ、ご苦労なこった。ま、ゆっくりしてきな」


 その夜、二人は、硬いベッドの上で、ほとんど眠ることができなかった。

 壁の薄い隣の部屋から、自分たちのことを噂する声が、微かに聞こえてきたからだ。

「…あの二人組、相当な上物を持ってるに違いねぇ」

「ああ、あの娘が持ってた背嚢、パンパンに膨れてやがったぜ」

「明日の朝、街道に出たところで、いただくとするか…」


 翌朝、二人は夜明け前に宿を出ると、街道を避け、再び森の中の獣道へと、その姿を消した。

 外界の洗礼は、彼らが思っていた以上に、手荒いものだった。

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