第二話 未知なる世界への旅立ち
アストラルムの外へ旅立つ。
その決断は、二人にとって、人生を賭けた一大事業の始まりを意味していた。
彼らがまず向かったのは、都市守衛隊の本部、ガイウス・ストーン隊長の執務室だった。
「…本気か、お前たち」
アゼルたちの決意を聞いたガイウスは、開いた口が塞がらないといった様子で、その深い皺が刻まれた顔をさらに歪ませた。
「外の世界が、どんな場所か分かっているのか? ここは、結界に守られた安全な揺り籠だ。だが、一歩外に出れば、そこは理屈の通じない、獣の世界だぞ」
「承知の上です」
アゼルは、静かに答えた。
「ですが、行かなければ、この都市の未来はない」
「それに、私たちだって、いつまでもこの街に閉じこもっているわけにはいきません!」
リリアが、強い意志を込めて付け加えた。
ガイウスは、二人の揺るぎない瞳を見ると、やがて、諦めたように、しかしどこか誇らしげに、大きなため息をついた。
「…分かった。俺が止めても、どうせ行くだろう、お前たちは。だが、死ぬなよ。絶対にだ。俺にできる限りの協力はしよう」
その日から、アゼルとリリアにとって、悪夢のような、しかし必要不可欠な「外界適応訓練」が始まった。
指導教官は、もちろんガイウスだ。
「いいか、小僧ども!お前らのそのひょろひょろの身体じゃ、森の猪に突かれただけでお陀仏だ!まずは体力作りからだ!」
ガイウスは、二人を探求室から引きずり出すと、守衛隊の訓練場で、屈強な隊員たちに混じって、基礎訓練を叩き込んだ。
アゼルは、その貧弱な体力を呪った。
丸太を担いでのスクワットでは、数回で足が震え、剣の素振りでは、三日後にようやく、まともに剣が振れるようになった。
彼のプライドはズタズタだったが、それ以上に、これまで自分が、いかに狭い世界で生きてきたかを痛感させられた。
一方、リリアは、意外なほどの運動神経の良さを見せた。
持ち前の器用さと快活さで、訓練メニューを次々とこなしていく。
だが、彼女にも弱点があった。
対人戦闘訓練では、どうしても相手の急所を突くことに躊躇してしまい、何度も打ち負かされた。
「馬鹿者!相手は、お前の命を奪いに来るんだぞ!情けは、自分の墓にでもかけてやれ!」
ガイウスの怒声が、訓練場に響き渡った。
体力訓練と並行して、外界で生き抜くための、実践的な知識の講義も行われた。
「いいか、アストラルムの外では、お前たちの錬金術は、可能な限り隠せ。特に、エレジア王国の正規軍や役人の前ではな。連中は、自分たちの理解を超えた力を、極端に警戒する。最悪の場合、『危険な魔術師』として、問答無用で拘束されるぞ」
ガイウスは、大陸の地図を広げ、現在の政治情勢を説明した。
宰相カイル・ヴァーミリオンの登場で、大陸は新たな時代を迎えつつあったが、その足元では、未だに古い貴族たちの権力争いや、種族間の不信感が、根強く残っている。
「これが、外界の通貨だ。アストラルムのギルダーなぞ、ただの綺麗な金属片にしかならん。それと、これが火打ち石とナイフ、方位磁石。腹が減っても、そこらのキノコを食うんじゃないぞ。毒キノコの見分け方も、頭に叩き込んでおけ」
ガイウスは、旅に必要な実用的な道具一式を、二人に手渡した。
アゼルにとっては、その一つ一つが、錬金術の古文書以上に難解な、未知の道具に見えた。
「それから、リリア」
ガイウスは、リリアに向き直った。
「君は、その人懐っこい性格で、すぐに他人を信用しちまうだろうが、外の世界では、それが命取りになることもある。笑顔で近づいてくる商人ほど、腹の中は真っ黒だということを、肝に銘じておけ」
「は、はい…!」
リリアは、緊張した面持ちで頷いた。
彼女の得意なコミュニケーション能力が、外の世界では通用しないかもしれない。
その事実は、彼女の自信を少しだけ揺らがせた。
だが、同時に、アゼル先輩を、今度は自分が守らなければならない、という新たな決意が、彼女の胸に芽生えていた。
数週間に及ぶ訓練の末、二人は、ようやく旅立ちの日を迎えた。
彼らの服装は、もはや錬金術師のそれではない。
アゼルは、顔を隠せるフードのついた、丈夫な革の旅装束をまとい、腰にはガイウスから譲られた、無骨だがよく手入れされた長剣を差している。
リリアは、動きやすい深緑色のチュニックとズボンに身を包み、背中には、薬草や食料が詰め込まれた、大きな背嚢を背負っていた。
アストラルムの最も外れにある、小さな港。
そこには、ガイウスとセラフィーナが、二人を見送るために立っていた。
「…本当に、行ってしまうのだな」
ガイウスは、ぶっきらぼうに言ったが、その目には、父親が息子を送り出すような、深い心配の色が浮かんでいた。
「これを、持っていけ」
彼が差し出したのは、守衛隊が緊急時に使う、魔法的な信号弾だった。
「万が一、本当にどうしようもなくなった時だけ、使え。気休めにしかならんかもしれんがな」
「…ありがとうございます、隊長」
アゼルは、それを受け取り、深く頭を下げた。
「アゼル君、リリアさん」
セラフィーナが、静かに二人の名を呼んだ。
「あなた方が探している『
その言葉は、単なるアドバイスではなく、かつて同じ禁忌に触れた者としての、切実な祈りのように、二人の胸に響いた。
小さな木造の船が、ゆっくりと岸壁を離れる。
アゼルとリリアは、遠ざかっていくアストラルムの幻影と、いつまでも見送ってくれる二人の姿を、言葉もなく見つめていた。
霧深き海を渡り、彼らの船は、やがて、まだ見ぬ大陸の、鬱蒼とした森が広がる岸辺へと、その舳先を向けた。
二人の、本当の冒険が、今、始まろうとしていた。
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