第一話 閉ざされた扉

 その日の午後、探求室の扉が勢いよく開き、リリア・フローレスが転がり込むように入ってきた。

「室長、やはりダメです…!」

 彼女の衣服は埃と、正体不明の黒い煤のようなもので汚れ、息は切れ切れだった。

 その悔しそうな声に、室内にいた若手研究者たちが一斉に彼女を振り返る。

「旧市街の第七区画。あそこだけ、私たちの浄化術式が全く通用しません。それどころか、術式を発動させようとすると、逆に『記憶の残滓レムナント』が活性化して、周囲の幻影を汚染・暴走させてしまうんです」

 アゼルは、リリアから差し出された観測データに目を通すと、壁に貼られた巨大な都市地図の上に、また一つ、赤い×印を書き加えた。

 ここ数週間で、その×印は七つに増えていた。

 都市の最も古い区画を中心に、浄化が全く進まない汚染地帯が、まるで都市の身体を蝕む癌のように点在している。

「塔からの報告も同じだ」

 アゼルは、水晶板に映し出された複雑なデータを示した。

「これらの区画の『記憶の残滓レムナント』は、他とは構造が根本的に違う。通常の残滓が、いわば『情報の霧』であるとすれば、こいつらは、極めて強固な構造を持つ『情報の結晶体』だ。我々の術式は、その表面を撫でているに過ぎない」

「結晶を砕くには、もっと強い力が必要ってことですか?」

「いや、違う。力で砕こうとすれば、それこそドクター・ヴァンスの二の舞だ。砕けた破片が、より広範囲に汚染をまき散らすことになるだろう」

 アゼルは、机に散らばった古文書の山に視線を落とした。

 その目には、久しく見られなかった焦りの色が浮かんでいる。

「これは、力ではなく、理論の問題だ。この結晶構造を、内側から『解きほぐす』ための、何か別の理論が…何らかの特殊な『鍵』が必要なんだ」

 彼らの作業は壁にぶつかっていた。

 それも、あまりに高く、分厚い、絶望的な壁に。

 アストラルムの浄化は、最終段階を目前にして、完全な手詰まり状態に陥っていた。


 その日から、アゼルとリリア、そして大図書館の司書長であるセラフィーナ・ローブによる、不眠不休の研究が始まった。

 三人は、大図書館の禁書庫に籠り、都市創設期に関する、あらゆる文献を読み解いていった。

 革装丁の古文書が放つ黴と古いインクの匂いの中、羊皮紙をめくる音と、三人が時折交わす議論の声だけが、静寂を支配する。


 何日も経ったある夜、リリアが、ある創設期の錬金術師が遺した実験日誌の、ページの隅に書かれた走り書きを見つけた。

 それは、通常のインクではなく、特定の魔力を通さないと読むことのできない、特殊な隠蔽インクで書かれていた。

「…『浄化の最終段階には、銀の雫アルゲントが必要不可欠なり。されど、それは大いなる罪と共に、忘れられた王国の地に眠る』…」

 リリアが、解読した文字を読み上げる。

「『銀の雫アルゲント』…? それに、忘れられた王国って…」

「古王国のことか…」

 アゼルが、その言葉に鋭く反応した。

 セラフィーナは、その記述を見ると、これまで保っていた静かな表情を、初めて深い苦悩の色に歪ませた。

「…やはり、それが必要でしたか」

 彼女は、重々しく呟くと、ついに、これまで固く閉ざしていた口を開いた。

「アゼル君、リリアさん。あなたたちには、話さなければならないことがあるようです。このアストラルムの創設の、さらに以前…。全ての元凶となった、あの悲劇の始まりについて」

 セラフィーナが語り始めたのは、歴史の闇に葬られた、ある王国の物語だった。

 数百年前、このアストラルムが築かれる以前、エレジア大陸には、錬金術によって空前の繁栄を極めた「シルヴァニア」という王国があった。

 彼らは、後に『記憶の残滓レムナント』と呼ばれることになる、魂と情報の境界線を扱う禁忌の研究に手を染め、そして、歴史上最悪の錬金術災害を引き起こして、一夜にして地上からその痕跡を消した。

「シルヴァニア王国…?」

 リリアが、驚いて聞き返した。

「ですが、私たちが伺っていた話では、記憶の残滓は『不老不死の研究』の失敗から生まれたと…」

「同じことだ、リリア」

 リリアの疑問を遮ったのは、アゼルだった。

 彼の瞳には、驚きではなく、長年の疑問が解けたかのような、深い納得の色が浮かんでいた。

「不老不死とは、結局のところ、魂という名の『情報』を、朽ちる肉体から解放し、永遠に存在させる術だ。その研究の核心が、『魂と情報の境界線』を扱うことになるのは、当然の帰結だ。…セラフィーナ司書長の話は、我々が知っていた歴史の、空白だった部分を埋めてくれたに過ぎない」

 アゼルの言葉に、セラフィーナは静かに頷いた。

「ええ。アストラルムの創設者たちは、そのシルヴァニアから生き延びた錬金術師たちです。彼らは、自らが犯した過ちを二度と繰り返さぬよう、そして、世界に拡散してしまった『記憶の残滓レムナント』という名の汚染を封じ込めるため、この孤島にアストラルムを築き上げたのです」

「では、その『銀の雫アルゲント』というのは…」

「シルヴァニアの錬金術師たちが、『記憶の残滓レムナント』を制御するために作り出した、究極の触媒です。ですが、その触媒こそが、あの悲劇の引き金となった。だからこそ、創設者たちは、その存在そのものを、アストラルムの歴史から完全に抹消したのです」

「その触媒が、今、私たちの浄化研究の鍵になっていると…」

「皮肉な話です」

 セラフィーナは、痛みを堪えるように言った。

「毒を以て毒を制す、というわけですか。ですが、その『銀の雫アルゲント』がなければ、あなた方の研究がこれ以上進まないのも、また事実でしょう」

 彼女は、禁書庫の最も奥の棚から、石板に刻まれた、一枚の古びた地図を取り出した。

 それは、アストラルムが存在する島ではなく、海を隔てた対岸、エレジア大陸の北西沿岸部を示していた。

「創設者たちは、触媒の全てを廃棄しました。ただ一つ、最も危険で、最も強力なコアだけを、故郷シルヴァニアの王宮跡地の最深部に再封印したと、記録に残っています。いつか、本当にそれが必要になる時のために…」

 彼女の細い指が、地図上の一点を指し示した。

 そこには、「囁きの森」と記されていた。

「この触媒を手に入れるためには、あなたたちは、この都市の外へ、未知なる世界へと、旅立たなければなりません」

 その言葉に、アゼルとリリアは、息を呑んだ。

 都市の外。

 それは、彼らが生まれ育ったこのアストラルムの常識が、一切通用しない場所。

 二人の心に、これまでに感じたことのない、巨大な挑戦への覚悟と、そして、未知なるものへの、抑えきれない興奮が、同時に湧き上がっていた。

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