第23話

 午後五時を過ぎて、空の色が淡い青から菫色へと沈みかけていた。ひかりは三条通から少し南へ下り、旧小学校の建物についた。今は京都芸術センターになっている。石造りの正門を抜けると、冷えた風が彼女の足首にまとわりついてきた。振り払うように足を中へ運ぶと、中庭で老年の男がヴァイオリンを弾いていた。どうやら調弦をしているらしい。高くも低くもない音が、同じ長さと同じ音量で空間ごと引き伸ばされていく。ひかりには何かその音が、まるで津波が一定の拍動で校舎全体を顫わせ、ついにはまるごと逆立てしまうような、空恐ろしいものに聞こえてきて、早々に踵を返して、目的の部屋を探し首を振った。

 展示室は、旧教室を改装した小さな空間だった。この週は、大学の学生によるインスタレーション展示が行われていた。低い照明に薄く塗られた白壁と、黒い紙で囲まれた窓。その中心に、透明な立体がぽつんと置かれていた。ひかりは無言でその空間に入った。他に客もおらず、室内には音楽もナレーションも流れていなかった。ただ、奥のスピーカーからごく微細な音が、空気の皺のように浮いて撓んだ。それは電気の通る音のようにも、水のゆれる音のようにも聞こえたが、どこか判然としない。光と影が反転しているような部屋なのかしら、とひかりは、黒い窓の方を横目に部屋の壁に沿って歩いた。透明な立体は部屋の中心に動かずに居ながら、プリズムのように姿を変えていく。が、どの角度で見ても、黒窓と白壁、それからひかり自身の姿が映るようだった。その仕組みの方にひかりは驚いて、ぐるぐると何度も部屋を回った。

 しばらくして我に返ったように止まった。それから部屋の戸を開くと、外は薄暮を過ぎ闇が降りかかっていた。そろそろ帰らないと、とひかりがもう一度、立体物の姿を見ようと振り返ると、ほうろろろろ……とあの呪文のような声が聞こえてきた。

 ひかりはその場で眼を見張るようにして動けなくなった。明確な意味も言語もない。その音は、まるで老年の男が、据えた眼で怒る遠い叫びに似て、決して見てはいけないもののように思えた。

 彼女は、静かに深呼吸した。吐く息が少しだけ震えた。怖いというだけではない。なにかが、見てはいけないような場所を、やさしく、しかし確実に触れてきていた。ここに来たことがある——ひかりはそう思った。が、誰と、どうしてが、やはり掴めなかった。

 ひかりは戸を閉める前、もう一度だけ中心を見た。誰もいない部屋に何も動かない立体。そして、空間に残る音の痕。不意に彼女の唇が、ほう……と、小さく、意味のない音を真似た。

 すぐに自分でも驚いて肩をすくめた。声に出すつもりなどなかったのに、口が勝手に動いた。中庭には来たときの老人はもう居なかった。校舎に囲まれた中庭はまるで谷底のようで、覗くようにして見える空には、星がいくつか瞬きはじめていた。中庭の木々が、風もないのに、わずかに揺れているように聞こえた。

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