第24話
十一月も半ばを過ぎた。昼過ぎ、嵐山の駅を出たときには、まだ人通りがあった。友人たちとの昼食を終え、午後の光が傾きかけるころには、渡月橋の上の風がいくぶん冷たくなっていた。
大堰川沿いを友人から少し遅れ歩いていたひかりは、ふとひとり道を外れていた。川の分流沿いの小道が足元に細く流れ、人の気配がだんだん薄れるにつれて、竹林の音も遠ざかっていくのが、いつかの耳の名残りのように聞こえた。かすかな水音と、葉擦れの音、鳥の羽ばたきが、聞こえなくなった耳の奥で再生するようだった。
ひかりはいつも、思い出そうとしていたわけではなかった。ただ、風の揺らした木影や、靴の底に鳴る湿った土の感触が、届かない背中の痒みの跡のように、彼女の耳を記憶の方へと向けさせた。
ひかりは川べりに膝を折った。水が石を転がす音の聞こえるようで、しばらく黙って流れを見つめていたが、やがてそっと、右手を水に差し入れた。思った以上にずっと、川は冷たかった。水の硬い輪郭が手のひらを通りすぎていく。掬いあげると川面の光が反射して、ひかりの目を眩ませた。水は指のあいだからこぼれて、滴が土に落ちた。何かが抜け落ちていくみたい、とひかりは感慨深いような声でつぶやいた。
「ほうろろろろ……」
声に振り返ると、友人の一人が立っていた。
「ひかりい、どうしたの、ぼうっとして」
「救われてたの、私も、あの人も。死んで、ようやく生きていけるみたい」
友人は怪訝そうに顔を顰めて、なにそれ、早く行くよ、と彼女の手を引く背中を、ひかりは嬉しいような、哀しいような気持ちで眺めた。
風はすでに秋の名残を捨て、冷えきった指先のような細さで流れた。いわた山の裾には薄い雲がかかり、それが落ちかけた日の光を受けて、むごいような紅色を差した。その山肌の奥ではすでに夜が忍び寄るように降りて、木々の輪郭は沈黙のなかにほどけていた。つくつくぼうしが鳴いた。やはりいずれは死んでいくのか。川沿いの細い道には、長く引き伸ばされた人影がところどころに残っていたが、それらはやがて風に流されるようにして、石畳の曲がりを越えて消えていった。
大堰川は音を失っていた。流れは確かにあるのに、耳に届くはずのせせらぎは冷気だけを広げていた。水面にはところどころ小さな渦が浮かび、夜の予感をそのまま映していた。浅瀬に沈んだ石のひとつひとつが、永遠に触れられない記憶のかけらのように、ひそやかに息をしている。
欄干のついた小橋の上を、数人の人影が足早に渡っていく。子どもを抱えた母親の姿、手袋を口元に当てて話す若い男と女、買い物袋を提げた年老いた夫婦。彼らの誰もが足元を気にして歩いていた。その頭上には、紫と青と灰が溶け合うようにしてひらいた空があり、それはもう、今日という時間の境を閉じかけていた。西の方角では、空の底がうっすらと菫色に染まり、あの世のはじまりがそっと垂れ込めているかのような、やわらかな、しかし拭いがたい色だった。
橋の下の影には、烏が一羽、じっとしていた。濡れた羽根がわずかに光り、目だけが生きた黒曜石のように動いた。飛び立つ様子はなかった。まるで時間ごと凍りついたかのように、烏は夕暮れの底に沈んでいた。
通り過ぎた人々の笑い声が、遠く、霧散するように消えていく。日が暮れていくこと、すでに繰り返し暮れてきたということ、それ自体が静かで、生と死を混ぜ合わせたような抗いがたい現象として、川と空と、そして石と風のあいだに満ちていた。
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