第22話
寺町通から脇に入った裏路地にある喫茶店の前で、ひかりは立ち止まった。古い木の看板に、少しく煤けたガラス戸。初めて見るはずなのに、なぜか、扉の開け方を身体が知っている気がした。躊躇いもなく取っ手に手をかけ、押し開けた。
軽い鈴の音が鳴った。店内には四、五組の客がいたが、静かで、コーヒーの香りに満たされた。お好きな席へどうぞ、と老年の店主がカウンター越しに言った。ひかりは一瞬、入口に近い席へ視線を向けたが、身体が傾くように、奥の窓際の席へと足が動いた。誰も座っていない角の席だった。窓の外には、街路樹の葉がゆっくりと舞っていた。
席に着くと、彼女は上着を脱ぎ、首元のストールを外した。木製のテーブルに手を置いたとき、ふと、指が何かを確かめるように木目をなぞった。
店主がやってきた。
「お決まりでしたら」
「ブレンドを……、あ、ミルクだけで」
かしこまりました、と店主の戻る背を眺めながら、誰かと同じ注文をしてしまった、とひかりは曖昧な既視感を覚えかけた。が、それも考えに至る前に消えてしまった。
コーヒーが運ばれ、ひかりはカップを両手で包み込むようにして持った。窓の外では、光は淡く、風は吹いていなかった。
ひかりはふと、ある人のことを思い出した。それは、輪郭のないような記憶だった。顔も名前も、はっきりとは浮かばなかった。けれど、その人と話した時間、その人の横顔、その人の沈黙の形だけが、まるで空白の型枠のように、胸の奥にひんやりと残っていた。
たしか舞台の……ひかりは口に出しかけたが、声にならなかった。カップのコーヒーが、湯気に引かれるように静かに揺れていた。誰だったのだろう、とひかりは懐かしいように首を傾いだ。それは、まるで別の自分のなかにだけ、記憶されているような感覚だった。
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