第21話

 その週末、ひかりは久しぶりに、ひとりで映画を観に出かけた。

 商店街の中にある木造の劇場は、新しい照明と椅子が並び、古い木の匂いが、まだ空気に残っていた。上映前の店内にはすでに人が寄り合っていて、一階に併設されたカフェで店員と話す男、隣で雑貨をいじる老女、周囲の壁一面に並べられた本を、展示品でも見るように眺める学生らしい青年。ひかりは座席の指定だけを済ませると、息が詰まる、と店の外へ出た。

 映画の始まる時間まで少しある。ひかりは入口のそばに置かれていた椅子に腰掛けた。氷のように冷たい感触が、薄くなったデニム生地へじんわりと広がった。

 ひかりが選んだ映画は、戦争後の小さな村を舞台にしたモノクロ映画だった。白黒の方が生を感じられる、とまだ小学生も出ない頃に聞いた言葉をひかりは思い出しかけたが、少女には印象にも残らなかったのか、後に継ぐ言葉は十数年前にすでに忘れていた。

 斜め向かいの昔からある古本屋の店員が店先を掃いてまわっている。半身に障がいのあるのか、彼は動かない右側を中心に傾けながら、円を描くように動いていた。少しすると店内から呼ばれたのか、箒を地面に置いたまま、何か重たいものを運ぶように、白明い店の中へ入っていった。五分前か、とひかりは丸い腰をあげ背伸びして、薄暗い照明の中へ戻っていった。

 物語は静かだった。誰も叫ばず、誰も泣かず、時間がただただ降り積もっていった。隣の席に座った年配の女性が、ときおり鼻をすする音をたてた。ひかりは映画を観ながら、画面に映る少年の行く末よりも、館内の静かさの方に気を取られていた。平日の雨の日、勤めの母の帰りを待って眠ってしまった祖母の家の、香のにおいの染みた床間に似て、物という物が無言のまま囲い立っているような、空恐ろしいと同時に懐かしいような、そんな気配をひかりは感じて、項から背筋に伸びる汗が肌着に滲みるのを嫌って背を離した。

 そのとき、ほうろろろろ……と天井の四隅から滲み出たような声が聞こえた。スクリーンの人物は誰も喋っていなかった。灰まみれの少年が、戦地で別れた兄を探して瓦礫の谷を越えていく場面で、少年に吹きつける灰塵の音だろうか、とひかりは訝しんだ。が、館内の咳払いひとつ聞こえない静寂の中、その声のようなものだけが、音ではない音として山鳴りのように響いた。ひかりは強ばった背筋を反らし、重たるい身体をずらした。

 観客は誰も気にしていない様子だった。何事もなかったかのように、みな、ほの暗い焼けた村の風景を見つめていた。

 ひかりは、ゆっくりと息を吐いた。声は、まるで映画の一部のように、彼女の内部に入り込んでいた。もう一度聞こうと耳をすましたが、それは戻ってこなかった。

 上映後、ロビーに出たひかりは、パンフレットを手にしたまま立ち止まった。

 隣の観客がスタッフと話しているのが耳に入った。

「……あれ、変わってましたね、音響、鳥の声みたいなやつ」

「え?そんな音入ってましたか」

「いや、なんか一瞬……気のせいかも」

 ひかりは振り向かなかった。けれど、その場を離れるとき、自分のなにかが書き換わっているような、空恐ろしい感覚があった。まるで、目に見えない死者が、内側の音響を変えていくような——そんな、兆しのような。

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