第20話
朝、窓を開けると、刺すように冷えた空気が流れ込んできた。近頃は秋の空も長くは続かないらしい。十一月に入ったばかりの京都は、まるで冬の膜に覆われているような、寒々しい天気ばかり続いていた。ひかりは、窓枠に手を置いたまましばらく外を眺めていた。
斜向かいの屋根の上に、一羽のカラスがとまっていた。羽をふるわせ、小さく首を傾げる。それから、何もなかったように空へと舞い上がっていく。その動きに彼女は、何か不意打ちのような、ざらついた感覚を覚えた。
台所で湯を沸かしながら、ひかりは手のひらをこすり合わせた。乾燥した肌の表面が、紙のようにひりついていた。ここ最近は、出勤前のコーヒーを飲みきれずに冷めたまま放っておくことが増えていた。
彼女が働いていたのは、寺町通沿いの小さな展示スペースだった。週替わりで若手作家の絵画や写真を並べるような空間で、古い民家が壁を限界まで詰め合う中に、ぽかんと一面だけガラス張りの隙間が空いたように、そのギャラリーはあった。ひかりはそこで受付台に座り、来場者の数を数え、パンフレットを補充し、ときどき来客と世間話をしたりした。
今週の展示は、ガラスに彫刻された詩だった。さまざまな時間に訪れる来場者はみな、壁にかけられた透明な板の前で立ち止まり、反射する自分の顔と、詩の文字を重ねて、じっと見つめるようにした。
ひかりは椅子に座って、来場者たちの背中を眺めていた。その背筋の曲がり方や、立ち姿の流れが、まるで詩への応答であるかのようだった。詩そのものよりも、それを読む姿の方に心が動くのは、昔から変わらなかった。
午後になって、来場者が一時的に途切れたとき、不意に、遠くであの声が聞こえた。
「……ほうろろろろ……」
ひかりは動きを止めた。壁の奥、展示室の向こうから、確かに聞こえた。鳥の鳴き声でも、機械の音でもない。人間の声のようにも思える。けれど、何を語っているのか全くわからなかった。ひかりは耳で、音をかき寄せるように澄ました。が、音はすっかり消えていた。それから空間の温度が変わった気がした。まるで秋が通り過ぎていく朝の余白のように。
ひかりは立ち上がり、ゆっくりと展示室の奥へ歩いた。展示のための資材がまばらに置かれている他には何もなかった。椅子も、展示品も、いつもの位置にあった。何の乱れもなかった。
空調で冷えた汗が彼女の背筋をまわるように滑った。その汗には微かな戦慄のようなものが残っていた。それは恐怖というよりも、ずっと以前に聞いたお伽噺を、夢のなかで思い出したような、懐かしさだった。言葉のない記憶が、胸の奥をなぞっていた。
ひかりが展示室を出たとき、入り口のガラス扉に、自分の顔がうっすらと映った。その表情は、見慣れたものではなかった。〈ずっと前から、あなたに見られていた〉と展示された詩の一節を、ひかりは独り言のように呟いた。
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