第19話

 創は六時半に目を覚ました。

 目覚ましは鳴らなかった。

 音は必要なかった。眠りの底から、ただ浮上するように目が開いた。

 起き上がり、カーテンを開けた。

 外はまだ薄暗く、遠くの屋根に白い朝もやがかかっていた。

 秋の光は、すべての輪郭をやや滲ませていた。

 キッチンで湯を沸かし、パンを焼いた。

 冷蔵庫のなかのジャムを取り出し、丁寧に塗った。

 その甘さを、創は口の中で確認した。

 甘いと思ったその感覚が、自分の舌のものではないような気がした。

 ニュースはつけなかった。

 スマホも触らなかった。

 静かな音だけを聞いていた。

 時計の針の弾く音。隣の部屋の水道の音。

 遠くで誰かがくしゃみをした。

 食器を洗い、シャツに着替え、靴を履いた。

 何のために外に出るのか、彼は知らなかった。

 ただ、朝であり、着替えが終わっていたために彼は出た。

 外は少し冷えていた。

 コートの前を閉じるほどではなかったが、首筋には風が入った。

 彼は大学へ向かう道を歩いた。

 誰に会うつもりもなかった。用事もなかった。

 だが、足は自然とその道を選んだ。

 通い慣れた歩道。角を曲がる角度は、身体が覚えていた。

 構内に入る。

 講義室の扉の前を通る。

 中では別の講義が行われていた。

 若い講師が前に立ち、学生たちがメモを取り、笑い声が時折漏れていた。

 創は一歩も近づかず、廊下の隅の椅子に腰を下ろした。

 誰も気づかない。彼も名乗らない。

 ただそこに座っていた。

 風が窓の隙間から入り、足元に影が落ちた。

 陽は高くなっていたが、温かくはなかった。


 昼過ぎ、彼は鴨川の土手を歩いた。

 川は静かに流れ、対岸のススキが風に揺れていた。

 ジョギングをする学生、犬を散歩させる老人、座って絵を描いている中年男。

 誰も彼に目を向けなかった。

 彼の方も、誰の姿も、木も川も、ただそこにあるものとして見ていた。

 ベンチに座った。

 ポケットから何かを取り出そうとして、やめた。

 何も持っていなかった。手のひらが生温く、やがて死者を思う心になった。

 鳥が飛び、雲が流れ、葉が落ちた。

 時間は端から廻っていた。

 そのことだけは、創の確かだった。

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