第17話

 翌朝、創はふたたび大学に向かった。

 前日、講義名簿から自分の名前が消えていたことを朝、習性のように着替えを済ませて、玄関に立つまですっかり忘れていた。

 見間違いかもしれない。記入ミスか、あるいは掲示物の張り替えの途中だったのかもしれない、いやむしろ、それしか考えようがない、と彼は可能性のある理由を、通勤のあいだ、頭に並べ続けた。

 構内はいつもどおりの賑わいだった。石畳には乾いた落ち葉が舞い、学生たちの声が木立のあいだからこぼれていた。

 創が掲示板の前に立つと、昨日と同じ紙が、まったく同じ位置に貼られていた。

 「倫理学概論」の欄。講義名だけが残り、担当名は空白のままだった。創はそのまま事務室に向かった。窓口の女性職員は昨日と同じ人物だった。顔を覚えていたのか、彼女は軽く会釈した。

「すみません、昨日もお伝えしたと思うんですが……倫理学概論の担当について、確認をお願いできますか、西嶋です」

 あ、西嶋先生。ええと……はい、こちらですね、と職員はモニターを操作し、いくつかの画面を開いた。

 その手際は明らかに慣れたものだった。こういうことは本当に何度か起こっているのだろう、と創は少し安心したようにカウンターに手をついて彼女の確認が終わるのを待った。一分ほどで、眼鏡越しの彼女の顔が画面から創の方へと向けられた。

「今期の登録情報では、こちらの講義には、もともと担当者の記載がないようです。こちらでも記録が見当たらないですね」

「ええ、でも、僕、春にシラバスを出しました。受理の連絡も確かにもらってます。メールも、控えもあります」

「そうなんですね……すみません、こちらではやはり確認できませんでした、よければ教務課のほうに再確認を……」

 丁寧な彼女の口調が、午前のまだ静かな構内に流れた。創は、プリントアウトした講義計画書のコピーを差し出しかけたが、やめて礼を言った。彼女にこれを渡すことなど、最早何の意味もないのではないか、自分の考えたことなどは、彼女のような人の確かさに届くことは一生ないのではないか、と創は、、すでに一歩、橋桁を踏み外してしまったようなことを思った。

 構内の講義棟に向かった。予定されていた教室の扉を開けると、中には見知らぬ講師が立っていた。学生たちは席に着き、ノートを開き、既に講義が始まりかけていた。創は扉の外に立ったままいた。 

 誰も創の方を見なかった。一人だけ、前列の学生が小さく振り返り、すぐに視線を戻した。数分間は立っていただろうか、創は思い出したように扉を閉じた。背後の聞こえたはずの閉まる音が、異様に静かだった。

 帰り道、創はひとつの確かさを手にしようと、駅前の書店に立ち寄った。月刊誌の最新号が並んでいた。目次を開くと、そこにあった、いや、そこにないという形で、見覚えのある論題があった。

「〈関係の倫理〉における応答の理論」

 その題も、構成も、自分がこの春にようやく書き終え、査読を待っていた論文と全く同じだった。唯一著者名だけが、城田拓実、とどこの誰とも知らない名前が印字されていた。

 創はレジの若い店員に話しかけた。

「すみません、この論文、僕が以前投稿したものに非常に似ていて……」

 店員は訝しげな顔で創を見た。それから差し出された雑誌を手に取って数秒読み、そうなんですか、とだけ言った。それは他意のない声のようだった。何か不手際があったのではというような不安を含んだ確認でも、突然の主張に対する驚きでもなかった。

「この人、以前から書かれてますよね。前の号にも載ってたような……倫理がご専門の方ですか?」

 創は、ええ、と曖昧に答えて、それ以上、何も言わなかった。店員に礼を言って、そのまま雑誌を元の場所に戻し、店を出た。

 通りに出ると、雲がちぎれていた。秋の陽が少しだけ差し込んでいたが、彼の周囲には温度がなかった。これまで呼吸をしてきたことだけが、唯一確かなことのように思えた。

 その晩、創はひかりに電話をかけた。

 間違いのないよういつもよりも慎重に番号を押し、呼び出し音が鳴るあいだ、深く息を吐いた。数秒の反復の音を割り、隙間から、ひかりの声が聞こえた。

「どうしたの、こんな時間に」

 落ち着いた声だった。音の背後には、テレビの気配がうっすらと混ざっていた。

「……いや、ちょっとだけ、確認したいことがあって」

「うん、何?」

「去年の秋さ、嵐山に行ったの、覚えてる?」

「……嵐山?」

 短い間だった。が、その空白の長さだけで、創の喉の奥が少し乾いた。

「そう、渡月橋のあたり。暑くて、焼けそうで、ひかりがリゾットこぼして……」

 ひかりはああ、と一拍置いて言った。

「それって、別のときじゃない、嵐山に行ったのはたしか春だった気がするけど」

「違う、秋だった。九月の終わり。映画の帰りに、急に行きたいってひかりが言い出して」

「ごめん、それ、ほんとにわたしだった?」

 ひかりは笑いながら言った。声に怒りや疑いのようなものはなかった。ただ、いつもの冗談をやわらかく受け止めるときの声だった。

 創は見も知らない街で、途方に暮れたように黙った。。

「でもさ、似たようなことって、いっぱいあるじゃない。橋の上で暑かったとか、リゾットとか」

「そういう問題じゃなくて。……そういう出来事の破片みたいなんを覚えてるんやなくて、俺は、あのときの、お前の声とか、顔とか……そういう、……」

 声がいよいよ枯れ窄んだ。彼は、なにか取り返しのつかない比喩を探していた。だがそれはついに見つからなかった。

「……ごめん、ちょっとよく分からなかった」

 ひかりの声は、静かで、柔らかく、しかし決定的に遠かった。テレビの音がふたたび耳に入ってきた。クイズ番組の軽い歓声が抜け殻のように散った。また、話そっか、元気なときに、と彼女の声に創は頷き、元気じゃなかったのか俺は、と顔を上げた時には、電話はプツリと切られていた。創はスマホを耳から離し、机の上に伏せると、しばらくじっと、時を忘れたようにしていた。

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