第16話

 夜の九時をまわっていた。ひかりの部屋の前の吹き晒された階段に、創は数秒立ち尽くしていた。躊躇いではなかった。ただ、自分がこれから、誰に会いにいくのかがはっきりしないまま、足を一段あげることに妙な覚悟が要った。チャイムの音が鳴る前に、扉は開いた。ひかりは部屋着のまま、片手にマグカップを持って立っていた。あ、どうしたの、とごく自然に言った。創は黙ったまま頷き、靴を脱いで部屋に入った。

 電気ストーブのにおいがわずかに立った。窓辺には洗いかけのグラス、壁際には古いCDラジカセが置かれていた。彼女の部屋は、この前と少し、も変わっていなかった。

「……ごめん、突然。少しだけ話せる?」

「うん、いいよ。座る?」

 そう言って、ひかりはクッションをひとつ、創の足元に差し出した。彼はそれを受け取らず、立ったまま壁の時計を見た。針は、一定のリズムで静かに動いていた。創は促されるように口を開いた。

「……俺、なんかが、違う」

 ひかりは、マグカップを持ち直した。

「何が?」

「何もかもが、や。講義が、なくなっとった。論文も、なかったことにされとった……いや、最初からなかったもんみたいに、まるっきり消えとった」

 ひかりは困惑したような、彼の心を図るような顔で窺っている。

「覚えとるよな、去年、二人で嵐山、行ったよな」

ひかりはほんのわずかだけ目を細めた。そして、静かに言った。

「……さっきも言ってたけど、たぶん、それ、別のときのことと混ざってるんじゃない?」

「いや、混ざっとらん。俺は、覚えとる。お前が言うたこと、笑とったこと、振り返ったときの髪の揺れとかも、全部——」

 創の声が濃やかに震えた。湿った手の平を、空中でもがくように動かしながら、彼は言葉を探した。が、どの言葉も、すぐに意味を裏返してしまうような気がして、何もかもがもつれるように重なった。

「……怖いんや」小さく、低く、ほとんど独り言のように創は続けた。

「自分がおったはずの場所が、どんどん遠くに下がっていって、いや、俺が下がっとるんかもしらんけど……気いついたら、誰にも見えてんみたいで」

 ひかりは、黙って頷いた。その頷きは彼女に似て穏やかだった。だが、その眼に捉えられたものは、自然を愛でるように、残酷な曖昧さをさらしていて、創には決定的に遠いようだった。

 それは言葉ではなかった。それは同じ部屋にいながら、違う窓を見ている人間の顔だった。彼女の狂ったような優しさで、静かな絶縁であった。まるで、創の発している音すべてが、彼女の外耳の直前で消えていくような、そういう距離を刻んでいた。

 創は彼女の顔をまっすぐ見ようとした。だが、焦点が合わなかった。どうしてもそこに、昔知っていたらしい誰かの顔が重ねて映ってしまった。その錯覚に抗ったからか、彼の口元から、ははっ、と声が零れた。あまりにも短く、行き場のない笑いだった。

 それは涙ではなかった。ただ、目の奥がしわんで、視界の縁がゆっくり歪んでいった。ひかりは彼の様子をじっと見つめていたが、何も言わず、冷えたマグカップをゆっくりとテーブルに置いた。そして彼女は、嘘にも似た声で言った。

「……創くん、夢見てるみたい」

 彼女の声は、前に置かれたマグカップの表面を小さく揺らした。まるで遠い岸辺から投げられた石のように、優しい波が立った。夢を見ていたのか、と創が思いかけた時、ひかりが遥か対岸にいることに気づいた。もう十年以上も前のことだった。

 テレビの画面には、速報の文字が赤く滲んでいた。BGMはなく、スタジオの音も抑えられていた。

「先ほど、東京都内の電車内で男が乗客を刺したあと、車内にオイルを撒き、ライターで火を点けたとの情報が……」

 女性アナウンサーの声が、一定の抑揚で流れた。ひかりは台所で洗い物をしていた。水の音が、途切れながら続いている。

 画面が切り替わり、現場の映像が流れる。焦げたシート、運び出される担架、無音の乗客たち。ひかりが、コップをひとつ重ねて置く音がした。

「容疑者は『友人や仕事関係がうまくいかず、人を殺して死刑になりたかった』『東京なら人をたくさん殺せると思った』『誰も死なず、非常に残念な気持ちで落ち込んでいる』と供述しているということです」

 創はテレビを見ていた。音はどこか遠くにあった。男の発言は、画面下のテロップにも表示されていた。無地に白いゴシック体で、整然と並べられていた。

 ひかりはスポンジを洗っていた。水を絞る音が一度だけ響いた。

 創は、笑わなかった。泣きもしなかった。ただ逃げ惑う人々の流れるテレビを見ていた。

 光る画面のなかで、電車が燃えていた。音はついていなかった。

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