第15話
朝、少しだけ早く目が覚めた。雨が上がったあとの空気は、やや重たく、それでいてどこか乾いていた。冷えはもう寝巻き越しにはっきり感じられ、創は一枚羽織ってから戸を開けた。玄関先の廊下には、誰かの傘から落ちた雫が、まだ濡れた輪郭のまま残っていた。
大学へ向かう坂道を歩くうちに、創は自分の呼吸の音がやけに大きく聞こえることに気づいた。人はいた。学生の姿も、雑談の声もあった。だが、彼らの視線のどれ一つとして、彼の輪郭を捉えていない。まるでガラス越しに歩いているようだった。
講義棟に着くと、予定されていた教室には知らない名前が掲示されていた。英語学集中講義。非常勤講師、佐野美咲。創は掲示された白い紙をしばらく見つめた。それから数秒間、自分の名前を探したが、ない。ひとまず事務室に確認を取らねばならない、と創は事務室へ足を送った。事務室のカウンターに出てきた若い職員に、事を説明すると、ファイルをめくりながら職員は言った。
「ええと……西嶋先生、ですね。ええ、こちらでは、今期の担当科目には、載ってないみたいですね」
その声は、まるで誰かの来訪を告げる甲高い自動音声のように聞こえた。創は提出したシラバスの写しを机に置いた。
「これ、私が提出したものです。講義名も、時間も、すべて通ってるはずです」
職員は創の差し出した紙を眺めた。じっくり見ているような、何も見えていないような生温い眼だった。
「うーん、そうですね……ああ、たまにあるんですよ、申請通ったのに反映されてないことって。すみません、確認しますね」
この職員はあくまで丁寧だった。だが彼女の声には、事務的な誠意以上の何かが、僅かにも含まれていなかった。その声の向こうで、もう存在していない講義の空席が、白く、無音で口を開けているような、そんな錯覚を起こしかけたが、小さな眩暈になって、現に引き戻された。。
講義棟の廊下に、迷子のように突っ立ったまま、創は自分の携帯に届いたメールを見た。数日前に送った論文の投稿確認への返信が来ていた。開くと、見知らぬ編集者の名前とともに、こう記されていた。
「このたびはご投稿ありがとうございました。なお本誌ではすでに同内容を含む論考が前号に掲載されておりますため、今回のご投稿については重複と判断し……」
スクロールすると、その論文のタイトルと著者名が記されていた。タイトルは、創のものと一字一句違わなかった。著者名だけが、知らない名前があげられていた。構成、理論、引用まで——まるで、創がその人物のものを模倣したかのような完璧さで。
何かの手違いに違いない。創は過去の自分のメールを確認した。送信済みの日付が、送ったはずの日から一週間後になっている。そんなはずはなかった。先に送ったはずのものが、あとにずれている。時計の針が逆に回っていれば、こんなことも起こるのかもしれない。しかし手首に巻かれた時計は、創が考えを廻らす間にも、端然と右へ、右へ回っていた。
創は自分の講義を受けていたはずの学生をひとり見かけ、声をかけた。
「あ、君……この時間、先生の講義じゃなかった?」
学生はぽかんとして、少し戸惑ったような顔をしたあとで、軽く頭を下げた。
「え、えっと……最初から英語学の集中講義でしたけど……あの、すみません、急いでて……」
彼は走り去った。創は伸ばしかけた手をだらりと垂らした。その靴音がやけに硬く創の頭に響いた。
昼過ぎ、創はひかりに電話をかけた。なにか確かな音を聞きたかった。自分を知っている誰かの声を。
彼女は出た。いつものように、どうしたの、とやや間を置いて、落ち着いた声で。
創は息を吸った。そして言った。
「なあ、去年の秋、嵐山行ったよな?」
「……うん、嵐山?」
「渡月橋で、すごい陽差しで、焼けそうになって、お前が、リゾットこぼしてさ……」
ねえ、と言いかけてひかりは黙った。
その声は優しかった。創は首を垂らして、ひかりを思い浮かべた。あの日、夕陽を背に振り返った彼女の顔は影ばかりで表情が少しも見えなかった。それは夕焼けの空にあいた洞のようで、まるで日が沈むのを待っている夜行獣のように、密かに、生々しい活力で、創の眼に飛び込んできた。あれはずっと昔のことのように思われたが、この時にはまだ一年しか経っていなかった。人は、死んだ後にこそ、なまなましく現れるのかもしれない。
「そんなこと、あったっけ」
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