第14話

 玄関の扉が閉まると、部屋の内から漏れた暗がりが切れ、ほの明るさが戻ってきた。創はしばらくその場に立ったままいた。湿ったような風が頬に触れた。暗がりのなかに誰かが話した声が、かすかに流れていた。声は誰に語られているのでもないように、彼の耳に聞き取れず流れた。排気ガスの残り香と、濡れた土のような匂いが交互にやってきて、鼻腔の奥に短く滞った。遠くで犬の鳴き声がし、次いでまた静かさが戻った。

 帰り道、彼はわざと遠回りをした。すこし歩くだけで、手の甲がひりついた。空気がひかりといた時より数段冷えていた。夜の坂道はほとんど無音で、滑るように踏むアスファルトの質感だけが、足裏にざらつくように聞こえてきた。

 側道に並べられた木々の葉がほとんど茶色く色づき、照明の届かぬところでは、それらが舗道に折り重なっていた。冷気はすでに風のためではなく、地面からひたひたとまとわりつく影のようなものから浸み出ていた。

 鍵を回し、古びた木戸を押し開けると、室内の空気がすぐにそのままの形で押し返してきた。灯りをつけると、紙と本に囲まれた部屋の中に、白い光がけだるいように沈んだ。読みかけの本の頁が乾ききらぬままめくれている。まるで女が交わった後、白い腿をその身体ごと重たるくひねるように。

 脱いだコートを椅子の背にかけると、かすかに濡れた音がした。肩に触れていた部分が、じっとりと冷たい。窓の隙間から風が入り込んでいた。古い建付けのせいで密閉はされなかった。

 創は無意識のうちに襟を正し、指先をこすり合わせた。指の節が少しだけかじかんでいた。部屋の隅に置いたままにされたグラスに、わずかな曇りが浮かんでいる。

 しばらく立ったまま、彼は何もせずにいた。かかとの下に、床の軋む感触が尾を引くように残る。そこには誰もいないはずなのに、誰かが息をひそめているような気配がして、彼は幽霊のように振り返った。だが、何もなかった。部屋には家具でできた輪郭があるだけだった。

 いつのまにか、彼の身体のなかで小さな震えが起こっていた。寒さのせいにも、何か不安のようなもののせいにも感じられた。ただ、〈どこかに戻ってきた〉という感覚が、この夜はなぜか曖昧だった。

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