第13話
二人が店を出ると、酔いのためか、川沿いの街灯が星のように鼓動していた。地面はわずかに湿っていて、驟雨の過ぎたばかりだということが、石畳の光沢に見えた。石畳を渡る風は、創の思っていたより冷たく感じられた。服の隙間に、指を差し込まれるような感覚があった。残された銀杏の実が風に押されてひとつ舗道に転がるのを見ながら、昼の陽差しの残り香を探した。夜の湿気が足元から立ち上ってきた。
秋はもう、確かにそこまで来ていた。光よりも、音よりも、においが先に通り抜けていく。気づけば十月も半ばを過ぎていた。
ひかりはマフラーを取り出し、ゆっくりと首に巻いた。ふわりと石鹸の匂いが上がり、創は思わずその呼気の波に足を止めた。
「寒くなってきたね」そう言いながら、ひかりは軽く腕を組んだ。
創は黙って頷いた。たったそれだけの動作に、何かを守るような仕草を彼自身で感じたが、彼女はそのことに気づいているようには見えなかった。
二人は並んで歩いた。言葉はなかった。その沈黙は気まずいものではなかった。ただ、必要のないものが間引かれているような、そんな静かさだった。
通りを一本逸れると、通学路の名残のある細い道に入った。そこは学生の頃彼らがよく通った道でもあった。自転車のライトがときおり背後から近づき追い越してゆく。歩道の端に並ぶ桜の枝が枯葉を落とし始めていた。枝の端から広がる空を見上げると、雲は薄く引き裂かれ、青い銀色をしていた。
空気が段々と冷えていく。呼吸のたびに、肺の奥まで澄んだ夜が入り込んでくる。何かを言おうとしてやめるまでの時間が、以前より長くなったような気がする。指先の動きも、歩幅も、どこかぎこちないまま揃わない。風は静かに、遠くで水の流れるような音がした。おそらく下水が露出した鉄格子の下で反響したのだろう。
「さっきの話だけど」創は話し始めた。
ひかりは立ち止まりはしなかったが、一歩、歩調を緩めた。
「……なんとなく吉田山に行ったって言ったけど、実はあんまり覚えてないんだ。自分がそこにいたってことは確かなんだけど、なんでいたのか、とか、そのとき何を考えてたのかとか、あとからぜんぜん思い出せなくて」
「でも、それって、よくあることじゃない?」
そうかな、と創は受けながら、通り過ぎる車の方を見るようにしていた。ひかりは横目で彼を見たが、しばらく何も言わなかった。
「そういうときのことって、大体あとから急に思い出すのよ。ぜんぜん関係ないときに。たとえば、冷蔵庫の前とか」
「冷蔵庫?」
「うん。光と音が遠いみたいに小さく鳴ってて、誰も喋ってないとき。ああいう場所って、記憶が出入りしやすい気がして」
聞きながら、創は自然と笑った。
「そういうの、前から言ってた気がする」
「うん、変わってないもの」
彼女の言葉に創は頷いた。変わってない。たしかに創にとって彼女は昔のままのようにも思われた。だが彼には、変わらないというよりはむしろ、彼女とのこれまでの会話がまるで死後を回顧するような、そのためにより一層勢いよく迸るもののように感じられた。
路地の角を曲がると、ひかりのアパートの明かりが見えた。二階の窓に干しかけの洗濯物が草臥れたように腕を投げ出している。シャツの裾がうす暗がりの中でふわりと風に撓んだ。階段の下で、二人は立ち止まった。
ひかりは上を見上げ、いつものように鍵を取り出しかけて、ふと手を止めた。
「ねえ」
「……うん?」
「今夜は、ここでいいかな」
その声はいつものように穏やかで、問いというより、確認のようだった。
「……ああ、ああ。じゃあ、今日は帰るよ」
「うん、ごめんね」
ひかりは笑った。その表情は自然で、目尻にできた生々しい皺や、少し傾いだ首の曲線が、創には、作りものにはまるで見えなかった。ただ、あまりにも自然そのもののよう——そんな感覚が、彼の胸の奥を静かに掻いた。それは彼にとって、この時はじめて感じた異和のようであり、すでに何度も出くわしてきたもののようでもあった。
ひかりが階段をのぼる音が、たんたんと鳴る。一段ずつ、一度も振り返ることはなかった。夜の静かさそのものみたいだ、と創は思った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます