第12話
ひかりとの待ち合わせは、出町柳駅の西口を出たあたりにある、小さなワインバルだった。
以前二人で一度だけ訪れたことがある。狭くて、椅子が固くて、窓から見える通りが意外と賑やかだった記憶を創は思い出しかけたが、それがいつ頃のことかはついに定かにならなかった。
創は扉を開けると、半歩遅れて店内に入った。
店内は、午後六時を少し過ぎたばかりだったが、すでに何組かの客がワインを手にしていた。ひかりは、奥のカウンターの端にいた。黒いタートルネックのセーター。左耳にだけ小さなイヤーカフをしていた。グラスを片手に持ち、もう一方の手でスマホをいじっていた。
彼女は顔を上げた。笑ってはいなかった。ただ視線だけがこちらに向けられ、創が椅子に腰かけるのを、何かの間違いのように見届けた。
汗かいてるの、と彼女がいつもの調子で聞いた。
「少し、歩いてた」
「どこへ行ってたの?」
「吉田山の方、なんとなく……ね」
へえ、とひかりは短く笑ったように見えたが、それは声にならず二つの赤い唇の奥で折れた。創は頷いた。そして、どこから話せばいいのか考えあぐね、目の前のメニューをただ開いた。
「今日は……どうだった」
「まあ、普通かな。そっちは」
「僕も普通……だったよ」
ワイングラスが置かれ、注文を終えた後、二人の間には沈黙がつづいた。それはありふれた沈黙だった。店内はほどよく賑わっていて、隣のテーブルでは三人組の若者が、誰かの失敗談に笑い声を上げている。
創は密かにひかりの指先に目をやった。グラスの脚をつまむその指は静かに、きれいだった。その動作の一つひとつには、余分な注意が込められているように見えた。
彼女の横顔は、正面を向いていても、どこか遠くを見ているようだった。ふとした瞬間、わずかに目元が揺れ、そのまま笑みのようなものが漏れた。その表情は、哀しみを裏で濃やかになぞるようだった。
創は喉の奥が微かに詰まるのを感じた。だが彼にはそのことについて、言葉によって自慰する術も、叫びのようなものに委ねる気力もなかった。彼は赤ワインの水面に映る爛れた瘡のような照明の揺れを、黙って見つめていた。
料理が運ばれてきた。皿の中央には丸く盛られたリゾットが置かれた。その表面には刻んだパセリが散らされていた。ひかりは、ナプキンを膝に置き直しながら、嬉しそうに皿を覗き込んだ。
「こういうの、家じゃなかなか出せないよね。お米の硬さとか」
そうだね、と創はスプーンを手にしながら、少しだけ遅れて答えた。その間にひかりは一口を口に運んだ。
「熱っ……うん、美味しい」
その声に、創は烈しい苛立ちを感じた。
「ねえ、覚えてる。去年の秋、嵐山に行ったときも、こういうリゾット食べたよね」
「……うん、あのときは、まだ暑くて」
「そうそう。渡月橋で日焼けしそうになったんだ」
ひかりは小さく笑い、グラスに口をつけた。創もつられて笑おうとしたが、その記憶の一枚が薄紙のようにめくれて、遠いようになってしまった。確かにあの日も彼女は笑っていた。だがその笑い顔と今のそれとが、うまくつながらない。
「……最近ちょっと、時間感覚が変になってるかも」
創がそう言うと、ひかりは一瞬だけ眉をひそめた。だがすぐに〈まあ、季節の変わり目だから〉と柔らかく笑った。
「そういうときってあるよ。私もこの前、洗濯機にスマホ入れかけたし」
「何の話だよそれ」
その言葉に創は笑った。その声につられてか、周りの音も大きくなって聞こえた。
「それで、吉田山はどうだったの。……って、あそこ、何もないけど」
「……何もないから、よかったのかも」
「ふうん。でも、創がなんとなくって言うとき、ほんとはちょっと行き場がないときなんだよね」
彼女の言葉に、創の視線がうわずった。スプーンの先から、リゾットが重みに耐えかねて崩れ落ちた。
「……昔から、そうだったっけ」
「うん、気づいてなかった?」
「いや、忘れてた……かも」
店内ではグラスがぶつかる音、遠くからクラシックが流れていた。ひかりの指先は、無意識のうちにテーブルの縁をなぞっていた。自然に整えられた凪のような爪の上を、照明の光が跳ね泳いでいた。その動作は、誰かを慰めるようにも、自分自身をなだめるようにも見えた。
「変わったのかな」
創の口から漏れた。ひかりは、それを問いと受けとったかのように髪を左右に揺らした。
「ううん。変わってないよ。少なくともわたしは。けど、人はそれぞれだから」
その声は優しく、目元にうっすらと皺が浮かんでいた。彼女の表情は、まるで古い写真の中にある人のように、薄い茶色で粗く解像された、死者そのもののような美しさだった。
彼女は今、誰の前で笑っているのだろうか。創はふと、そんな考えに囚われたが、彼女の顔はその時にはすでに元の通りだった。
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