第11話
創はそのままキャンパスの外へ出た。誰に声をかけられることもなく、すれ違う者たちの視線にひっかかることもなく。ひんやりとした午後の光が、木々の葉を透かして路面に川面のようなゆらぎをつくっていた。吉田山の東斜面に沿った小道に、創は自然と足を向けた。
哲学の道に沿って歩く観光客の声が、遠くに響いていた。が、創の足はそこには向かわなかった。旧家の背に隠れるようにして斜面を登っていく道を、湿った苔の匂いを吸いながら、ぽつんぽつんと現れる古びた祠や朽ちかけた木の札を横目に歩いた。
歩くことが、なにかを紛らわすように思えた。ただ、どこへ向かっているのか、何から逃れようとしているのか、彼自身にも分かっていなかった。気づけば息が浅くなっていて、歩幅はだんだん狭く、ぎこちなくなっていた。水を吸った落ち葉が足の裏で滑り、体がわずかに傾いた。が、その不安定な重心のまま、彼は歩きつづけた。
街の喧噪はすでに背後に遠のいたようで、前には人家の影もまばらな山腹が広がっていた。彼には自身の足音だけが脳裏にはりつくように聞こえた。誰かの生活の余韻だけが、壁越しに、窓の奥に、音もなく、死んだ後のように鮮明に、漂っている風に感じられた。
——すでに死んだものこそ、この世で生きていられるのかもしれない。
そんな感覚が、唐突に身体の奥へ転がった。だがそれは恐怖ではなかった。むしろ、ようやく何かが剥がれ落ちたような、かすかな安堵のようでもあった。それでも、胸の辺りにはじっとりと恐れのようなものが広がっていた。風がなければ、空気は肌にはりついてくるばかりで、額はむず痒く、瞼は次第に重くなっていった。
石段を登りきった先の長椅子に腰を下ろすと、枯木を挟んだ眼下に鴨川の流れが見えた。川面は鈍色に瞬いて、ただ無音で流れつづけていた。蠢くような街も、西日を負う前の青空もみな、夜空のなか輪郭をなくした星々のように、酷く滲んでいた。
しばらくの間、創はただ街を俯瞰していた。長椅子の木肌は冷え始めていて、そこに腰かけた彼の熱が、少しずつ溶けてゆくようだった。湿った風が額の前髪をなぶる。鳩が数羽、近くの欄干にとまって、互いに肩を寄せていた。
日が落ちかけていた。
夕暮れというにはまだ早いが、山の陰が斜面を静かに下りはじめ、空気に重みが出てきていた。
創は立ち上がると、手すりに触れて身をのばした。鉄の冷たさが、指先にざらついた痛みを残した。それから、来た階段を再び下りて、街へ向かった。
山道を抜ける頃には、音がまた肌に戻ってきていた。自転車のブレーキ音、長屋のような家から漏れる水道の音、小さな子どもの笑い声、それらは無遠慮に、創の黒色の上着を通り抜け、皮膚のうちにまとわりついた。
東大路通を渡り、出町柳の交差点に差しかかる頃には、もうすっかり日が傾いていた。鴨川の水は、朝とはまるで違う顔をしていた。光を跳ね返すこともなく、ただその身をすべらせていた。近くには人の姿があった。大学生らしきカップルや、毛糸の帽子をかぶった老人、外国人観光客。誰もが一定の速度で歩き、一定の表情を保っていた。創はその群れに紛れて歩いた。
腕を組むでもなく、手を振るでもなく、足の裏でアスファルトの音を聞きながら、ただ歩いた。それはどこにでもいる、一人の人間にすぎなかった。
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