第10話

 昼も過ぎ、講義のあとの一時間がぽっかり空いていた。職員室の椅子はいやに柔らかく沈み込み、そこでじっとしていると、腰に暗い疲れが溜まっていく。創は軽く背伸びをしてから、ためらうようにして立ち上がり、鞄の中から財布だけを抜き取って部屋を出た。

 構内の石畳の道を歩きながら空を仰いだ。空はよく晴れていた。木々の葉が光を受けて、じりじりと裏返っている。蝉の声はすでにまばらだったが、創の耳の奥には、こびりつく驟雨のような鳴き声が残っていた。

 ほんの少し風があった。その風が、顔の皮膚をなぞる感触が、妙にざらついて感じられた。

 学食の建物は南側の斜面に沿って建っており、昼を過ぎた時間でも人の出入りは絶えなかった。ガラス戸をくぐると、すぐに食券の券売機の前で列ができていた。彼は、鞄を持っていないせいか、学生の列の中で浮いていた。誰も創に視線を向けることはなかったが、それが余計に異物のような所在なさを引き立てていた。

 創はいつものカレーを選んだ。味に対して特段の好みはなかった。ただ、以前の記憶のなかではこの皿の前に座ると、ほんのわずかだが何か懐かしいものに還元されるような気がしたのだった。盆を持って空いている席を探す。隅の席に腰を下ろすと、木製の椅子がわずかにきしんだ。

 周囲の席では、学生たちがそれぞれの声の高さで喋っていた。抑揚のない笑い声、講義についての感想、就活やサークルの話題——どの会話も、少し距離を置いて聞けば、一種の合唱のように響いていた。創はその響きの外側にいた。彼の耳には、音が届く前にその輪郭がぼやけてしまうらしかった。

 創はスプーンを持ち上げ、カレーを口に運んだ。舌の上で味が滑った。その滑りはどこか鈍く、米の粒は熱を持ちすぎていて、味ではなく温度だけが彼の口内を占めた。食べるという行為の中に、何かを摂取しているという実感がない。それなのに、喉の奥に意識を向けると、胃が反射的に蠢いているのがわかった。

 ふと隣のテーブルに視線を向けた。二人の男子学生が、並んでスマホを覗き込みながら笑っていた。

その笑い声が一瞬、鼓膜に強くぶつかってきた。創は思わず目を逸らし、再びスプーンに目を戻した。だが、その動作もまた、うまく演じられたもののように思えた。スプーンをつまんだ左手から伸びた腕には、さぶいぼが律儀そうに並んでいた。

 創は、今ここで、かつて彼がいたはずの時間と空間に、ほんのわずかでも戻そうとしていた。だが、それは紙の上に描かれた地図の道筋を、指先でなぞっているようなものにすぎなかった。どこへも届かないまま、彼の昼食は静かに終わりつつあった。

 食堂の椅子を引くときの脚の擦れる音が、ほとんど痛々しいように響いた。空席ばかりの午後二時過ぎ、窓の外はまだ明るく、風がいくらか埃を含んで吹いていた。創は湯飲みに口をつけるふりをして、斜め向こうに座る若い講師の背をちらと見た。彼の机の上には、開いたままのノートパソコンと紙パックのカフェオレが置いてあった。画面の上ではスライド資料が何度も行ったり来たりしている。

 創はそれを見ながら、なにか言葉をかけようとしたわけではなかった。ただ、かつてなら自然に起きていたはずの出来事が起こらずにいる、その空白の感触を、いま一度たしかめてみただけだった。

 そんなことを考えている最中でも気づけば、彼の手は、無意識のうちにポケットの中で折り畳まれた紙ナプキンを指先で潰していた。軽く汗ばんだその感触が、彼の皮膚のなかの細かい不安をぬるりと擦った。少し前まで自分もあの場で、ああして忙しげに画面を貪っていたはずなのに、その動作を再現しようとしてもどこか噛み合わない、まるで故郷の田畑が住宅地に変わった後のような、清潔さと腐臭の混ざったような、そんな不安が彼の口に残った。

 食器を返却口に戻し、彼はふと横のテーブルに目をやった。白髪混じりの教員がふたり、言葉少なに箸を動かしていた。その視線はときどき創のほうを過るように流れたが、そこには明確な視線の意志はなかった。あれは風がページを捲るときのような無意味さだった。

 彼の足は、もう自然な向きで自動ドアのほうへと向かっていた。だが、歩きながらふと振り返るように、彼は近くの職員に声をかけた。ほんの、確認のような言い方で。

「あの、来週の倫理学研究会の日程って……」

 声をかけられた男は一瞬間を置き、手元のスマートフォンを操作したあとで、眉を動かさぬままこう答えた。

「西嶋先生、そういえば確認した時おられませんでしたよね……もう一度、共有しておきますね」

 その声は、柔らかく調律されていた。だがその裏側には、濡れた石のような拒絶の手触りがあった。何も否定されていない。ただ、そこに創はいないものとして処理されている。その手際の良さが、彼にはかえって怖ろしかった。

 扉を抜けると、空の明るさが目に刺さった。光は変わらずありながら、そのなかに彼の姿だけが異物のように混じっている気がした。創はそのまま、踵を鳴らさないように歩いた。影は長く、靴音は規則正しかった。

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