第9話

 やはり、どこか間違っている。

 彼がそう思ったのは、黒板に向かってチョークを走らせていたときだった。わずかに掌が滑った。前日、洗濯機から取り出したままのシャツの袖が、まだ半ば湿っていたのかもしれない。いや、そうではなく、教室の空気がしんと乾いていたのだ。

 背後にいるらしい学生たちはやはり静かだった。だがその静かさが、聞き入っている沈黙というよりも、こちらの声がまるで彼らに届いていないような、断絶された音に近かった。声は口腔から抜け、マイクを通じて天井のスピーカーから拡声されているのに、それすらもどこか、自分ではない誰かの発話のように聞こえた。

 板書の手がわずかに止まると、チョークの軋む音がやけに大きく、またどこか遠いようになる。教室の一隅で、椅子が軋んで揺れた。誰かが膝を組み替えたのだろう。だが、その音もまた、手前ではなく、どこか別の世界で立てられた物音のような気がした。

「倫理とは、境界の認識であると同時に、そのずれを経験する場でもあります」

 創は言いながら、自らの声に少し遅れて谺するのを聞いた。それは、自分の身体から逸れて天井に低く滞留し、一度に地面へ降ってくる。まるで驟雨のようだった。

 誰かが咳払いをした。振り向かずに話を続けながらも、彼は背後の温度のようなものに耳を澄ませた。ノートをとる音、キーボードの打鍵音、紙の擦れる空間。そういった、いつものような気配がなかった。

 ふと目をやると、前列の女子学生がペン先で紙を埋めていた。だがその紙には、論点や要点とはかけ離れた、抽象的な図形の連なりが描かれていた。渦、点、切れ切れの線。そこには理解といわれるようなものはなく、ただ、手が退屈の反復として何かを記している。創はそれを見たあとで、つい自分の手元を見た。黒板の端、先ほどまで書いていた論理図が、いつのまにか歪んでいる。中心を逸れ、左上へと攀じ登るように曲がっていた。

 終鈴が鳴ると同時に学生たちは席を立った。無言で鞄を背負い、廊下へと流れていった。誰と目の合うこともなかった。それからドアの蝶番が鳴る音が聞こえ、差し込んだ廊下の窓からの光が教室の床を斜めに切った。

 創は数秒、何もせず立ち尽くしていた。腕時計を見たが、何のために見たのかわからなかった。時間を確認しても、すべきことは変わらない。教室の空気は、板書の残り香だけを留めて、すでに次の空間へと変容していた。

 職員室へ戻ると、空気は一層ぬるかった。冷房の音が絶えず響いていたが、それでも妙に熱がこもっているように感じられた。

 お疲れさまです、と声が聞こえたが、それが誰の声か、創はすぐにはわからなかった。声は壁に吸い込まれ、返ってこなかった。

 机に戻ると、デスクマットの下に挟んであった教務課からの伝達事項の紙が抜け落ちていた。見ると、隣の机の上に載っていた。

「ああ、それ、教務の人が来てたときに……」

 同僚の男が振り向きざまにそう言った。笑顔だったが、その笑みは少し角度が過剰だった。なにかを庇っているような、あるいは、こちらが崩れて見えないように、隙間を埋めるような表情だっただろうか。創はああ、と応えたが、その声の軽さが自分でもわかった。目の前に座る同僚たちは、自然な表情を崩さず、静かな手つきで書類に目を走らせていた。それが、創には一様に演技に見えた。自分が何かを演じているのではなかった。ただ彼らの中に、もう西嶋創fという人間が含まれていないということ、それが徐々に形をとりつつあることだけは、確かだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る