第8話
扉の閉まる音が背後でくぐもって響いた。
廊下に出ると、窓から秋の光が射していて、うすく曇ったガラス越しに、蝉の抜け殻のような静けさが校舎の内側に貼りついていた。風はなかった。空気が乾ききっているわけでもないが、湿っているとも言えず、たえず肌にまとわりつく、しかし肌のどこにも届いていない、そんな危ういような質感だった。
教室のなかで置いてきた言葉が、自分の背中にいつまでも這いついてくる。正確には何を言ったのかはもう思い出せない。ただ、彼らの表情が、何かを拒んでいたのだということ、その記憶の前の気配だけが不快な濃やかさで残っていた。
——悪かったのは、どこだったのか。論理の展開か、例示の拙さか、あるいは声の調子がどこか高圧的に聞こえたのか。そうかもしれない。だが、それをそう捉える彼らの側にも、ある程度の鈍さがあったのではないか。講義という場は、常に不均衡である。教える者と教わる者のあいだに、何かが完全に伝わるという幻想は最初から抱いていない。むしろ、こちらの言葉が一方通行に近い形式で届くことでしか、思考の芽は生まれないのだ――そう、自分は信じてきたではないか。
いや、信じるなどという語は、そもそも危うい。思考とは、信念に基づくものではなく、構造のうえに成り立っている。自分は構造を考えて話した。誤解の余地を最小限に抑えたはずだった。けれど、あの無言の空気は、言葉そのものが拒絶されているようでもあった。滑稽な話だ。何かを教えようとする自分の姿勢が、どこか演技がかっていたのかもしれない、などと今さら思っている。そう思ってしまう自分の側こそが、何より演技的なのかもしれない。
創の口に苦笑が浮かびかけたが、それも途中で喉の奥に沈んだ。
階段を下りる足音が、どこか遠くで響いた。誰かが降りてくる音だったのか、自分が聞いた残響のようなものだったのか判然としない。このところ、音の方向感覚すら曖昧になってきている気がする。
——それでも、自分はまだまともなはずだ。
その言葉が、なぜか急に脳裏に浮かび、それを否定するようにもう一度呟き直した。いや、別にまともである必要など、どこにもない。他人の尺度に、自分を委ねること自体、最初から無理だったのだ。無理をしていたのだ。けれど、無理をしていたとしても、それを口にするほど自分は甘えてはいない——その自己断罪すら、もはや独りよがりの救いに過ぎないのかもしれない。誰にも否定されていない。誰も何も言わず、ただ距離だけが静かにひらいていく。それは非難よりもずっと深い拒絶だ。穏やかな笑顔、適度な距離感、敬語と共感――それらがむしろ、罠だったのではないか。
罠というよりも、誰も自分に関心を持っていないということが、あの笑顔たちの正体だったのだとしたら。すべてのやりとりが、最初から演技だったのだとしたら。
すると、自分はただ、場違いな言葉を投げて、ひとりで浮いていた道化に過ぎない。観客のいない舞台で、意味のない台詞をぶつぶつと呟きつづけていた役者の、うつくしい残骸——いや、役者という言い方には、まだ自負がある。
ただの迷子だ。地図のない世界で、誰かの軌跡の残り香だけを追って、空回りしているだけの。それでも、言葉をやめたくはない。どこかに、自分の言葉が届く場所があると、そう信じているふりだけでも、していたかった、ということだろうか。
白飛びした枠のような棟の扉を開けて外へ出ると、学生たちの話し声と、風に吹かれる金木犀の葉擦れの音が聞こえたようだったが、それもすぐに薄い天幕のように広がり、淡い空へ溶けていった。
街に降りたのは午後三時を過ぎていた。
出町柳駅の改札を抜けたあたり、賀茂川と高野川の合流点へ向かう細い歩道に、学生たちがたむろしていた。鞄を肩からずり下ろし、百万遍からのバスを待つ男、コンビニの袋を提げたまま、叡電の高架を背に笑い合う女たち、川端通を見下ろしながらスマートフォンの画面に熱中している男。そのうちの一人、紺のトートを抱えた短髪の女は、誰とも目を合わせず、声にも反応せず、ただ表情だけを保っていた。目がうつろのようだった。創は立ち止まり、遠巻きにその集団を見ていた。
彼らのそれは、まさに演技だった。笑う前に、笑う顔が先にできている。誰かの言葉に反応しているというよりはむしろ、誰かが見ているであろう視線に向けて、先回りして身振りをつくっている。何でもない風に立ち振る舞うことが、彼らにとっての自然なのだ。そう考えながら、創は自分の口元が、いつのまにか緩やかに持ち上がっているのに気づいた。
葵橋を渡る。右手がズボンのポケットを探っている。湿った布地に、汗ばむ指が引っかかる。金属の鍵の角が指先に当たる。小銭の鈍い丸みを繰り返しなぞる。そうした感触ひとつひとつが、自分をかろうじて、ここに繋ぎ止めているようだった。もしくは、それに触れていなければ、自分の居所すらわからないのかもしれなかった。出町商店街のアーケードから流れてくる香辛料の匂いが、ふと鼻をかすめた。
足元では、鴨川デルタの石畳に染みが広がっていた。それは水の跡か、誰かが吐き捨てた後のようにも見えた。何気ない仕草のすべてが、どこかの誰かの模倣にしか思えなくなるとき、自分だけの動きというものが、果たして存在するのかどうか、それすらも曖昧になる。
創がそんなことを考え始めたときには、もう遅かった。言葉は、滑り出した瞬間から舞台の上にいる。そうして、舞台にいることすら、誰の演出かわからなくなる。
川端通を横切り、下鴨本通を抜けて、創はふたたび賀茂川の河川敷へと降りた。小さな階段を下りたところで、目の前が一気に開けた。左手に見える加茂大橋の下には、数人の若者が輪になって座っていた。ギターケースが半分開いたまま傍らに置かれ、大瓶の酒を回し飲みしている。爆笑しているのは一人だけで、他の数人はうなずきながらうまく合わせていた。合間に誰かが空を指差し、それを契機に全員が一斉に見上げた。
創はその視線の運びの揃い方に、妙な既視感を覚えた。誰かが動くと、それに気づかぬまま周囲がつられて動く。まるで水面に落とした一滴のインクが、ゆっくりと広がって全体を濁らせていくようだった。
歩き出すと、履いていたスニーカーの底が砂利を踏んで音を立てた。その音がまた、自分の存在の確認のように思えた。そうでなければ、いまここに自分が立っているという感覚すら確信できない。誰かの目に映っていなければ、自分は存在していないのではないか。
デルタの三角州の先端には、ひとりの中年男が腰を下ろしていた。買ったばかりのパンを手に、ゆっくりとちぎりながら真鴨に投げている。創が横を通りすぎる瞬間、男はちらと顔を上げた。目が合ったかどうかも曖昧なまま、すぐに目を逸らされた。何も起こらなかった。見合ったこともなかったことにされたかのように、烏の鳴き声がその静かさを覆った。
創はそのまま、川べりの石段に腰を下ろした。川の音が近い。石と水と風が擦れる音だけが、頭の内で反響している。周囲には、ひとりで座っている者も、連れ立っている者もいた。スマートフォンをいじる手元の画面の青白さが、顔の輪郭を脳面のように照らしていた。
自分だけが取り残されている、という感覚はなかった。ただ、自分もまた、誰かを模して動いているのだという、焦りのような確信だけが、足先からじわじわと這い上がってくるのだった。
日はもうすでに傾いていた。川沿いを離れ、出町桝形商店街を抜けて寺町通に出ると、店先に灯りがともり始めていた。パン屋の軒先に吊された裸電球が風に揺れ、並んだクリームパンやメロンパンの焼き色を、やけに立体的に浮き上がらせている。
創は何も買わずに、ゆっくりと通り過ぎた。通りに漂うバターと古紙の匂いが、胸の奥をくすぐるように過ぎていく。
寺町御池の交差点に差しかかると、向かいにひかりの姿が見えた。小さなバッグを肩にかけ、焦げ茶色のワンピースの裾を風に攫われながら、信号が青に変わるのを待っていた。
創の眼に映る彼女の顔には、表情らしきものが浮かんでいなかった。待っていたというよりも、そこにただ立っていた、というような印象だった。
「遅くなって、ごめんね」
そう言って笑ったひかりの口元は、なにか乾いたものを含んでいた。声は滑らかだったが、喉の奥に引っかかるような震えが、一瞬だけ混じっていたように、創には思えた。
ううん、大丈夫、と創は答えながら、彼女の声の温度のようなものを測ろうとした。しかしそれは、夢の中で泳ぐ暗い海のように、まるで手応えがなかった。
二人はそのまま、三条通を東へと歩いた。観光客の姿が次第に増え、アーケードの下では、グラスを傾ける若いカップルや、皿を運ぶ店員の声が混ざり合っていた。誰もが誰かと話していた。創にはその誰もが、楽しそうにも、疲れ果てた後の狂いのようにも見えた。
創たちは、鴨川の手前にある小さなビストロに入った。木の扉を押すと、すぐそこにカウンターがあり、奥に二人がけのテーブルが三つだけ並んでいた。空いていた席に案内されると、ひかりは黙ってメニューを手に取り、創は水の入ったグラスの縁に指をかけていた。辺りを見回すと、観光客であろう大きなキャリーケースを傍に置いた家族連れの外国人が、メニュー表を穴を覗くように全員で見ている。最近は英語で書かれているメニューも多くなったから、注文するのに苦労はしないだろう。
パスタでいいかな、とひかりの声が流れた。それは決定の確認というより、創にとってはただ音として投げられた言葉だった。彼はうなずき、メニューを開きもしなかった。
注文を終えると、ふたりの間には、いくばくかの沈黙が落ちた。それは気まずさというよりも、何かがうまく始まらない、という種類の静かさだった。届いたパスタは創には物足りない量だったが、何も言わず口へ運んだ。
食事を終えて外へ出ると、夜のにおいが鼻をついた。いつのまにか雨になっていた。創とひかりは四条通の人波のなかを歩いた。蛍光灯と車のヘッドライトが交錯し、水たまりにさざめくような光の模様をつくっていた。眼前を通り過ぎてゆく傘の群れ。濃紺、透明、骨の折れたもの、手首に提げられたまま雨に濡れ続けるもの。どれもが、誰にも気づかれぬまま、舞台の背景として動いていた。
二人はそのなかで、ただ歩いていた。左肩を人とすれ違いざまに何度もぶつけながらも、反射的に謝ることはなく、かといって怒ることもなかった。
人々はときおり声を発した。笑い声も、携帯電話の会話も、買い物袋のこすれる音も、ひとしきり過ぎては雨音に溶けていった。彼らの声は、街の一部として最初から仕込まれていたように整然と響いた。車の列が赤い尾を引いて進んでいく。バスの排気が湿った空気にまぎれて、乾いた焦げたような匂いを残した。
風が吹いていた。それは強くはなかったが、街の熱を幾分かはらんでいて、まるで焼けた鉄板の上を舐めてくるような重さがあった。
ひかりは、創のとなりにいた。けれど、どこか皮膚の上にぴたりと張りついた薄い膜のようなものが、二人のあいだにはあった。それは時間のように透明で、けれど確かに湿っていて、会話の音も熱も、肌の匂いも、すべてその膜に阻まれて届かないようだった。
ひかりは言葉を発していたが、その言葉のひとつひとつが、創にはうまく届かず、まるで映画の台詞を普段の会話で使ってしまったような異和があった。彼女の口の動きは確かに美しかったが、それは生きた人間のそれのようにも、何かの記録の再生のようにも、創には感じられた。
すれ違う人々の背中、差し出される手、夜の街を満たす無数の眼差し。それらが、まるで舞台袖から出てきた演者のように、役割を演じながらその場を通り過ぎていった。そして創もまた、濡れた舞台にただ立ち尽くすだけの、台詞を忘れた役者のような気分に襲われた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます