第6話
その日もまた、講義の終わりまで誰とも目が合わなかった。
教室の片付けを終え、鞄にノートと資料を滑り込ませながら、創は、自分が透明な存在になっているような感触をぬるく抱いていた。
しかしそれは決して劇的な孤独ではなく、誰もが互いを注意深く避け合い、表面だけは平穏に整える場所に特有の、均衡のようなものだった。咳払いひとつさえも、そこでは小さく抑制され、笑い声も響かない。
講師控室に戻ると、すでに誰かが淹れたらしいコーヒーの匂いが漂っていた。テーブルの上には紙コップが三つ、乱雑とも几帳面ともつかぬ配置で並べられており、そのうちの一つにはわずかに口紅の跡が残っていた。
創は誰にも声をかけず、自分の机に腰を下ろした。椅子がきしみ、天井の蛍光灯がほのかに瞬いた。
声をかけるべきだったのだろうか。そう思いながらも、彼の身体は動かなかった。紙の束をめくる音、コピー機の駆動音の雑音の中、彼の背中の方で、お先に失礼します、と声が聞こえた。それらはどれも、彼の輪郭を避けていくようだった。手描きの線のような輪郭を、彼は思い浮かべた。
最近、どうですか、そんなただの形式的な問いかけすら、ここではもう長らく聞かれていない。
紙コップを一つ手に取りかけて、やめた。中身の冷めきった気配に触れて、誰かが先にいたという事実だけが、しずかにそこに残っているようだった。鞄の中のペンが転がる音が、やけに大きく響いた。だれもこちらを振り返らないのに、まるで何かを壊してしまったような後ろめたさだけが、まるで自然なことように胸に染みこんできた。
創は窓の外に目をやった。構内のイチョウが、まだわずかに青みを帯びた葉を風にそよがせている。その向こうを、学生たちが静かに横切っていった。ひとりが笑った。その笑い声の中に彼は微かに、自分のいない空気の匂いを嗅ぎとった気がした。
今出川駅を出ると、空はすでに薄く暮れていて、東の空に残った陽の尾だけが、灰色の建物の輪郭を強く浮かび上がらせていた。鴨川の合流点から吹いてくる風は、思ったよりも湿り気を帯びていて、ポケットの中の指先がじっとりと汗ばんでいた。
創は、いつものように、千本今出川までの道を頭の中でなぞっていた。ひかりは今日もバイトの帰りで、疲れているだろう。だからこそ、彼には行く意味があった。
彼女のアパートは、古い木造の二階建てで、外階段の途中に針金で吊るされた風鈴が、軽やかに鳴っていた。足音を立てぬように、そっと階段を上がる。部屋の中からはテレビの音も、音楽も、何も聞こえなかった。
ノックをする前に一瞬、手が止まった。時間は合っているはずなのに、ふいに、部屋の中に誰もいないような気がした。もしくは、自分だけが来てはいけないような——そんな気配が、雨上がりの土のように匂い立った。
創はノックをした。二度、間を置いて、もう一度。返事はなかった。
数秒の沈黙の後、ドアが少しだけ開いて、ひかりが顔を覗かせた。髪は濡れていた。洗ったばかりなのか、外に出たばかりなのか、それは分からなかったが、彼女は、ああ、来てたんだ、と言って、わずかに目を細めた。
その言い方が、創の胸に小さな靄を残した。うん、とだけ答えて、彼は靴を脱いだ。部屋には洗濯物の匂いと、石鹸のにおいが入り混じっていた。彼女の生活の匂いはきれいに整頓されていた。そのせいか、彼の眼はしばらく自分の居所を探してふらついた。
ひかりの住む部屋は、南側に小さな窓があり、風の抜けにくい長方形だった。障子の桟がところどころ剥げ、畳はかすかに波打っていた。奥の壁際に低い机があり、その上に原稿用紙の束が積まれている。舞台脚本の稽古に使う、とひかりは前に言っていた。
「暑かったでしょ、冷たいの飲む」
聞く声は、いつもより少し高かった。創は頷いた。彼女が台所へ向かい、冷蔵庫を開ける音がして、次に氷のぶつかる音が響いた。音だけが先行して室内を満たしていった。ふいに自分がただの風景の一部になったような気がした。
「最近はどう」と、創はいつもより浮ついた声で訊いた。
「うん……まあ、バイトと稽古。明日も通し稽古あるから、朝ちょっと早いかも」
水の入ったグラスを両手で差し出しながら、ひかりは床に腰を下ろした。すぐには飲まずに、指でコースターの縁をなぞりはじめる。その指先は細く、何も考えていないようにも、何かを見透かしているようにも見えた。
「体、壊さないようにね」
「壊しても、どうせ代わりはいるし。そっちこそ、大学は、最近どうなの」
創は、言いかけて口を閉じた。まあ、ぼちぼちかな、と答えた。グラスに指を添えたまま、彼はしばらく動かなかった。グラスに染み出した水滴が、掌を這うように垂れた。たったそれだけの感触が、どこか遠くで起きているような気がした。
創の口は開きかけて、咳払いのような息が漏れた。けれどそれが言葉になることはなかった。頬の筋肉がわずかに引きつり、すぐ戻る。喉仏が一度、小さく上下する。
ひかりが水をすする音が、壁の向こうの気配のように聞こえた。彼は視線を落とし、グラスの縁を指で撫でていた。何かを掴もうとしているが、それが何か自分にもわからない、そんな指の動きだった。呼吸は深く、静かに長くなっていた。だがその息の吐き先には、言葉がない。すべてが、自分の内側で滞っていた。常にうごめきながら、しかし決して流れ出ることのない岩窪の波のような、うつろなざわめきだった。
ひかりは首をかしげたようにしていたが、それもすぐに戻った。
「最近、舞台の演出がちょっと変わってさ。全員、無言のシーンが多くなってるの。無音の空白をどう使うかが大事、って演出家が言うの。……でも、無言って、慣れてないと、すごく恥ずかしくなるね」
創は、確かにね、と答えて、それからグラスの氷を舐めた。
「創くんは、喋らないとき、何考えてるの」
創は不意に問われて、返事に詰まった。ひかりは笑っていた。からかっているわけではない、けれど何かしら、そこに〈通じないもの〉が立っていた。しばらく考えていると、彼女はもう次の話題に移っていた。
「ねえ、最近、誰かに会った」
また唐突だった。問いかけた彼女の調子は、湿気の抜けた布きれのように軽く、相手を選んで放たれたというより、独り言に近い響きだった。
創は返事をせず、少しだけ首を傾けるようにして、空になったグラスを持ち上げた。その重みのなさに、手首が拍子抜けしたようにゆるんだ。
「そういうの、なくなるときってあるよね。人に会わなくなると、声が出にくくなるっていうか。うちのバイト先の子も、全然喋らない日があるって言ってた」
ひかりは窓の方を向いたまま、カーテン越しの街灯を眺めていた。彼女の顔はほとんど影に沈んでいて、感情を読み取るのは難しかった。声も、一定の湿度を保っていた。
創は、自分の喉が乾いていることに気づいて冷蔵庫のほうを一瞥したが、水を求める気にもならなかった。言葉を持たない日が、自分のうちにいつからあったのか、思い返そうとしても何も浮かばなかった。
「わたし、言葉って嫌いじゃないけど、うまく使えないなって思う。言いたいことと、出てくる言葉が全然合わないことばっかりでさ。だからもう、話すの、めんどくさくなるときがある」
彼女のそれが誰に向けた言葉なのか、創は測りかねた。だが自分のことを言っているようにも思えるのは、彼の心がいびつに開いているからだった。
そうだね、と創はようやく言った。その声も、言葉より先に浮かんだ呼吸のように、ただ音として彼の耳に聞こえた。
ひかりの部屋の明かりは落とされたままだった。カーテンの隙間から街灯が斜めに差し込んで、床に淡い縞模様を作っていた。
しばらく会話が途切れた。音といえば、隣室の洗濯機の遠い振動と、古びた床板が軋む乾いた音だけだった。
彼女の手が、ゆっくりと創のシャツの裾に触れた。それは合図というよりも、何かを確かめるような、習慣めいた手つきだった。創は抵抗せず、むしろその一連の動きに、何かを委ねるようにした。誰のものでもない指先が、彼女の皮膚に触れた。意味を持たない皮膚同士の接触があった。それをどこか別の場所で見ているような心地がした。
下着の布がずれていくたびに、身体の奥の温度が冷めていった。創の肌にひかりの髪が触れて、背に生温い湿度が貼りついてくる。創は夜の白い深さの中でふと、もしかするとひかりの体温は、彼女の身体の奥から出ているのではなくて、部屋そのものの湿り気と混じり合って、こちらに移ってくるのではないか、と妙なことを思った。
彼女の瞼は丸く閉じられ、顔の輪郭は闇に紛れていた。頬の奥でかすかに動く筋肉の収縮だけが、彼女の存在を証していた。創は何度か目を合わせようとしたが、そのたびに視線の間に硬い膜のようなものが降りてくるのを感じて、視線を逸らした。
外では雨が降り出していた。先ほどまで聞こえていた雑音はいつの間にか消えてしまった。しばらくして、どこかの部屋で蛇口を閉める音がした。
創は窓を細く開けた。網戸の向こうで雨が線のように見える。地面に叩きつけるというよりは、闇に滲み出るような雨だった。電信柱の上の細い線に、水滴が等間隔に連なって、時折、一つが重さに耐えかねて落ちた。落ちた音はしなかったが、眼がそのあとを追った。
向かいの屋根に、しずくが一粒ずつ、整然と流れていった。光の届かない場所で、世界の輪郭の全てが湿り、鈍く形を保ったまま崩れていくようだった。
創はしばらく、窓辺に立っていた。冷気が皮膚にまとわりついてくる。だが寒さではなかった。まるで自分の内部にまで雨が染み込んできて、骨の芯からじんわりと滲んでいるような、不思議な濡れ方だった。
遠く、山裾の稜線がにじんでいた。町家の瓦が水を吸い、静かな反射を返している。どこまでも鈍い、しかし一様な湿気の気配が、街全体を薄い膜のように覆っていた。創の目には、そのすべてが彼自身の延長のように思えた。雨に濡れて歪んだ屋根の傾斜、壁をつたう細流、割れたアスファルトの間に沈みかけた落ち葉――それらが彼の内面にゆっくりと、静かに滑り込んでくる。まるで彼の内部を模して、外界をつくりかえてしまったかのようだった。彼はただ、その風景の中に立ち、呼吸を細く繋ぎながら、夜の雨と自分とを区別しようとした。
背後で、寝返りの気配がした。創は振り返らなかった。ただ彼の耳だけが、空間のわずかな変化を捉えようとしていた。ひかりの寝息は、機械のように整っていた。まるで、予め決められたリズムが体内に組み込まれていて、彼女の意志とは関係なく繰り返されているような、乾いた、きれいな音だった。ひどく静かで、正確なその音が、しかし創には、遠いように聞こえた。ひとつひとつの呼吸が、彼にではなく、部屋の隅にある目に見えない何かに向かって放たれているように感じた。彼女の身体が彼の背に本当にあるのかすら、彼には怪しまれた。先ほどまで確かに触れていたはずの彼女の肌も、夢になぞった手触りが、現実のなかであっさりと溶けてしまうように、彼には感じられた。
創は窓から目を離してベッドへ戻った。ひかりの寝息が、静かに部屋を満たしている。その呼吸音が一定の間隔で響き続けるたび、創は奇妙な焦燥を喉元に感じた。たまらず吐かれた重たるい息は、馴染まず、部屋の隅の暗がりへ転がっていった。
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