第5話

 教室の窓から、秋の光が柔らかく射し込んでいた。白いカーテンが風に揺れて、机の縁に落ちた影が、その上を泳ぐようにしている。講義室の天井灯はついていたが、その明るさはすでに日中の陽射しに覆われ、消えているようにも見える。

 創は白いチョークを手に、黒板の左端に「責任」という字を大きく書きつけた。教壇の前の席には数人の学生が座っている。私語はない。無関心でもなく、真剣でもないように見える。ただそこにいるという静かさがあった。ノートに字を書く音だけが、ときどき紙に擦れて微かに聞こえる。

「──ハンナ・アーレントの言う「責任」とは、自分の行為に関してだけでなく、思考の欠如に対しても問われるものです。思考しなかったこと自体が、悪を可能にした……」

 言いながら、彼はふと、自分の声が誰に届いているのかを考えていた。いや、声は間違いなく届いている。届いてはいるが、それが直接理解に結びついているのかはわからない。むしろ、学生たちの眼に浮かぶわずかな水膜のような鈍い光は、それぞれが自分の内側に鍵をかけている証にすら見えた。

 誰も反論しない。誰も問い返さない。

 それはかつての彼にとって、講義の「成功」を示す静けさだった。だが今日のこの空気には、何かが欠けていた。いや、何かが余計だったのか。過剰な順応がその場にはあった。

 学生たちはすでに彼の言葉を、理解すべき問題ではなく、受け取るべき情報として処理している。創は、自分がただの音声装置のように、あらかじめ定められた論理を、滞りなく出力しているだけのように感じはじめた。

「……とすれば、私たちが「思考する」という営みを保ち続けることそのものが、倫理的な行為となるわけです」

 言い終えても、誰も顔を上げない。筆記を続ける学生の手が、かすかに震えていた。それは緊張か、疲れか、あるいは創の話とは何の関係もない生活の重みによるものか。だが、彼の目にはその震えが妙に焼き付いた。

 講義が終わると、数人が礼を言い、他は無言で立ち上がった。誰も質問には来なかった。黒板に残った「責任」の文字が、日が傾くにつれ、斜めに伸びる窓の影にかすんでいく。

 創は消しもせず、それをじっと見ていた。消せば消える、それだけの話だった。けれど、今ここにあるものを消してしまえば、自分がここにいた痕跡がまたひとつ薄れる気がした。

 誰の記憶にも残らないような、正確な講義と、間違いのない論理。反論されない倫理──これのどこに「責任」があるというのか。

 講義を終えて研究室に戻った創は、ドアを開けるのに一瞬ためらいを覚えた。廊下に人の気配はなく、ドアの向こうにも誰の声もしない。

 ゆっくりと取っ手を回し、軋む音を立てて中に入る。書棚の本はきちんと並んでいて、机の上の資料も昨日のままだった。換気扇の回る音だけが、規則的に空気を切っていた。

 椅子に腰を下ろすと、背中からじわりと汗がにじんできた。冷房の効いた部屋なのに、背筋のどこかが緊張しているように感じた。ふと、窓際に置いてある観葉植物の鉢が目に入った。緑は少しだけ葉先を萎ませていた。水は足りていたはずなのにと創は訝ったが、その後は気にも留めなかった。

 パソコンを開いても、書きかけの講義資料には手が伸びなかった。何を打っても、それが誰の中にも残らないような気がした。

 それでも創は、ひとつ息を吐いて立ち上がり、スーツの上着を脱いだ。夕方、ひかりと会う約束がある。河原町御池に新しくできたバルで、ビールでも飲もうという話だった。

 バスを待つあいだ、創はぼんやりと河原町通の向こうを見つめていた。人の流れがまるで液体のように揺れながら動いていて、遠くで鳴る踏切の音が、それをかき混ぜるように聞こえてきた。

 どうしてだろう、と創は思った。自分の周囲に薄い膜のようなものが張りついているような感じは、風のない日に濡れたシャツが肌に貼りつくような不快さで、しかしそれについて誰も、何も言わない。ただ彼一人が、それをこっそりと剥がそうとして、うまくいかずにいるのだった。

 ひかりと会ったのは、川端通を少し南に下った路地の角だった。すでに彼女は来ていて、手に持ったスマートフォンの画面を眺めていた。髪は後ろでざっくりとまとめられ、白いシャツの襟元が少し濡れていた。顔を上げたとき、彼女はにっこりと微笑んだ。

「暑かったね、今日」

「うん、外に出るだけで汗だくになる」

 何でもない会話だった。ひかりの声は、いつもと変わらず軽やかで、どこか弾んでいた。だが創は、自分の返答が、どこか機械的なものに感じられた。まるでどこかで覚えてきた役割を演じて、ひかりに対して適切に応えているような錯覚。それは彼女が望む言葉を選んでいるというより、彼女が望んでいるであろう人物像に合わせて言葉を置いているという感覚だった。

 バルに入ると、店内はまだ客がまばらで、窓際の席に通された。木製のテーブルに置かれたグラスが、窓から差す夕日をゆっくりと反射していた。

 ひかりは何か仕事の愚痴を話していた。隣の席の同僚が、会議中にうまく自分の案を横取りしていったこと、部長が明らかに他の子ばかり可愛がること、創は頷きながら聞いていた。けれど、そのうち彼女の話す言葉が遠いようになって、グラスの中の泡が消えていくのをぼんやりと見ていた。

「ねえ、聞いてる?」とひかりが言ったとき、創は一瞬間を置いてから、うん、ごめん、と笑って返した。

 それ以上、彼女は何も言わなかった。飲みかけのグラスに口をつけたが、その動作にはわずかな間があった。

 創はその間が気になった。けれど、何が変わったのか、あるいは誰が変わったのか、うまく言葉にならなかった。ただ、彼女の中にわずかなズレのようなものを感じた。自分はいつもどおりだったはずなのに、という思いが、背筋のあたりで硬く凝り固まっていった。

 ひかりはときどき、急に寡黙になる癖があった。けれどこの夜の沈黙は、それとは違っていた。ただ黙っているのではなく、言葉が落ちることを避けているようだった。

 創は、その空白に気づいた。ひかりの顔は静かだったが、どこか目の焦点が散っていた。彼女が視線の向こうに何を見ていたのか、創にはわからなかった。

 わからないのだ。何が、どこで、どうしてこうなってしまったのか──けれどもそれは、自分の中に答えがあるとは、彼にはまるで思えなかった。自分はなにも変わっていない、むしろ、丁寧に関係を保とうとしていた。その努力が、もし仮に間違っていたのだとしても、それを責められる筋合いがあるのだろうか、と心のどこかで、冷ややかな論理がつぶやいていた。

 変化は彼女の中にあったのではないか。ふとした拍子に、彼女の目がどこか遠いものを見るような気配を帯びるようになったのは、いつからだっただろうか。

 創は、自分の胸の内に言葉を用意しているもうひとりの自分を思い浮かべた。相手の沈黙に対して、いかにも悩んでいる風な独白を並べて、それで誠実な人間の役を演じようとしている男の背姿が見える。

 その声はひかりには届かない。彼女のまぶたの動きひとつにすら、追いついていない気がした。

 この夜の沈黙は、互いに何かを問うているようで、じつはもうすでに答えを持っているようだった。ただそれを、言葉にするにはあまりにも、真昼間のような冷気が満ちていた。創は黙って、残ったサラミの切れ端を口に放り込んだ。

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