第4話

 午前九時、桂キャンパスに響くはずのチャイムは鳴らなかった。いつからか、設備の不具合を理由に、それは放棄されていたらしい。代わりに、非常勤の講師たちはそれぞれの腕時計を睨み、数十秒のずれを誤差と許容して教室に足を踏み入れる。西嶋創もその一人であった。

 カーテンの引き忘れた教室の窓から、光が斜めに射し込んでいた。白い蛍光灯の光よりもわずかに黄味がかって、それが机の並んだ板面の上をすべり、初雪のような埃を浮かび上がらせていた。

 講義は「倫理思想史」を受け持っていた。実質的には、出席点と期末レポートの要約に帰着する、形骸化された時間だった。創は黒板に「ヒューム/懐疑と習慣」とだけ書いたあと、少し間を置いて、静かに語り出した。

「われわれは、自分自身がなにかを『確信している』と感じるとき、無意識のうちに、それが理性的な判断の結果だと考えてしまいます。けれど、デイヴィッド・ヒュームはそれを否定した人だとされています」

 教室内に動きはほとんどなかった。学生たちはそれぞれ、スマートフォンを隠す角度と、頬杖の深さだけに注意を払っていた。だが創は気にしていなかった。彼が話しているのは、目の前の学生にではなく、彼の頭の中で何度も組み替えられた聴衆に向けたものだった。

「彼にとって、「確信」とは習慣によるものでした。つまり、繰り返される事象に対する、身体的な、半ば条件反射のような応答にすぎないという……」

 その「身体的な」という言葉を口にしたとき、彼は一瞬、言葉の端に自分の舌がふれるのを感じた。一瞬、声の調子が濁ったように思われた。誰も気にする様子はなかった。創はすぐに次の言葉を継いだ。

 外は風が強まっていた。窓のサッシが細かく鳴り、資料の端がめくれたまま、机の上にしがみついていた。創は話し続けながら、いつも、この時間になると風が強くなる。何日も前から決まっていたように、同じ速度と、同じ角度で吹いてくる、と頭の隅の思考を追っていた。

 彼の講義は、そうした繰り返しへの観察と、そこから抜け出せないという諦念の上に成り立っていた。学生たちはそれを「静かな講義」「淡々とした語り口」と呼んでいた。

 講義のあと、創はいつものように何も言わずに教室をあとにした。時計の針は午後四時をさしていたが、陽の傾き方はそれよりも幾分遅く、夏の余韻を引きずっているようだった。

 桂から出町柳までは、バスと電車を乗り継いで四十分ほどある。座席に腰を沈めたとき、窓の外をしきりに流れていく風景のなかには、何も映らないように見えた。眼は何かを探すように動いているが、視線はどこにも落ちてはいない。

 三条に着く頃には、陽はようやく翳り、街には水気を含んだ熱がまだわずかに滲んでいた。ビルの壁に反射する西陽が、川面に鈍く映っていた。

 待ち合わせたのは、木屋町の裏手にあるバルだった。白いタイル張りの壁に、手書きのメニューを貼り付けただけの簡素な店で、知らずに通り過ぎてしまいそうなほど控えめな店構えをしていた。

 創が扉を開けると、奥の席にひかりがすでに座っていた。グラスの中の氷がカラカラと音を立てていたが、それはもう半分ほど融けていた。

「ごめん、待った?」

 そう言うと彼女は、少し首をすくめるようにして笑った。そのしぐさに、創はどこか、彼女の顔が薄く広がるような印象を受けた。

「ううん、来たばっか。ほんとに」

 創は彼女の向かいに腰を下ろし、何も言わずにメニューをめくった。ページの隙間から、微かに油の匂いが立ちのぼった。

「講義どうだった?」

「……いつも通り」

「そう、ならよかった」

 話はそれで途切れた。ひかりはグラスを口元に運び、また置いた。創はそれを目で追っていたが、自分が何を見ていたのかは分からなかった。

 店内は静かだった。隣のテーブルでは、初老の男が独りで赤ワインを傾けていた。その顔に浮かんだ陰りのようなものが、時折、グラスの中で揺れていた。

「このあいだの脚本、読み返してみたの」

 創の眉が、ほんのわずかに動いた。顔を彼女の方へ向けると、彼女は言葉を続けた。

「やっぱり、あれ、どこか他人事みたいだと思った」

「……他人事って」

「あなた自身のこと書いてるようでいて、どこかに一枚、皮があるような感じ。冷たいっていうのとも違って、もう一人のあなたが、あなたを演じてるみたいな」

 創は何も言わなかった。ただ、メニューの角が、湿気で少し膨らんでいることに気づき、その端を無意識に指先でなぞっていた。

「……そうかもしれない」

「でも、それが悪いとは思わないの。私もそういうとき、あるから」

 ひかりはそう言って、微かに笑った。その表情は、灯りに照らされた水面のように、わずかに揺れて、すぐに沈んだ。

 創は窓の外に目を向けた。川端通の明かりが灯りはじめていた。湿った空気は街の輪郭を秘かにひずませて、夜の入り口をそっと開いていた。

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