第2話
講義を終えて、階段を下りるときの靴音が、ひどく甲高く反響していた。小さな校舎で、廊下はどこも吹き抜けのように音が回る。階上で誰かが扉を閉める音がして、それが壁を這うようにして耳に届くと、創は無意識に眉をひそめていた。すべてが軽く、過剰だった。
講義は「倫理と表象」という題目だったが、最後の数回は話の筋道も自分で追いかけきれなくなっていた。学生たちはそれを見抜いていたかもしれないが、問いは出なかった。理解したからか、諦めたからか、どちらにしても似たような沈黙が教室を覆っていた。教壇の前に立っているあいだ、創はたびたび、誰かが咳払いをする毎に、その咳が問いになり得たはずだと、妙なことを思い、息を詰めた。
控室のドアを開けると、蛍光灯の白い光がまるで濡れているかのように、机と机のあいだに伸びていた。壁際の机に小川という名前の札がかかっていて、そこには古いサーモスと開きかけた書類が置かれたままになっていた。誰もいない。声も物音もしない。ただ、窓の外で風に吹かれている竹の葉が時折り、紙をめくるような乾いた音を立てていた。
創は自分の机に座ると、ノートパソコンを開きかけ、やめた。かわりに、鞄から文庫本を取り出したが、それも表紙を眺めただけで閉じた。なにかのふりをしているような、ただそれだけのことに過ぎない気がして、本を持った指先が鈍く感じられた。
「きみの話はさ、いつも哲学者が先にいて、現実があとからついてくるよね」
数日前、飲み会の席で言われた同僚の言葉を思い出した。くだけた場のひとつの冗談のような調子で言われたそれを、創はその場で笑い飛ばした。しかし今、あのときの声の調子や、わずかに湿った口の動き、周囲の笑い声までが、ひとつの浮腫のようなものが、襞となって皮膚の下に残っているのを感じた。
創は手元の紙に、無意識にペンを走らせていた。文字でも記号でもなく、ただ反復される曲線。いや、曲線にさえなっていない、治った傷痕のような線。視線をそこに落とすと、内か外かも判然としない遠くで、水が漏れているような音がした。
水琴窟というものがあった。二、三年前にまだ大学の講義の合間に自由な時間があったころ、創は数日に一度、鴨川沿いにある植物園に足を運んでいた。蝉の声が遠くでざわついていた。
日傘をさす老女のあいだを抜け、梅林をくぐると、こじんまりした日本庭園の一角に、それはあった。
丸くくり抜かれた竹筒に、耳を近づける。地中に埋められた甕に水が滴り落ちる仕掛けで、竹樋から流れる水が、断続的な音を鳴らした。とん、とん、とっ、とん……。その水音は、実際には人の手によって設計されたものだが、聞こえてくるのはまるで、自然そのものが内側からもれているような響きだった。
ぽっ。
それは空気ではなく、空間そのものを湿らせていた。足元に敷かれた石の中には、苔の記憶があり、彼らは檸檬の皮のようなにおいを閉じこめて沈んでいく。誰もいないその場に、創はただ立っていた。最も自然に聞こえるものほど、最も虚構に近づいているものだ。それは絶望ではなく、むしろ、そういう嘘のような自然のなかでしか、深く息を吸えない気がした。
時計を見ると、講義終了から二十分が経っていた。なにも始まらず、なにも終わっていない。そう思いながら、創は椅子をきしませる音に、自分でも息をのんだ。
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