消えてもいいとしたならば
伊富魚
第1話
その朝、牛乳は軽く発酵していた。
口に触れる前にわかった。湿り気を含んだ空気が、瓶の口に集まって鼻腔に届いた。酸味と、古いタオルのような匂い。けれど彼は何も言わず、瓶ごと流しに傾けた。
水音が鈍かった。蛇口の根元には、いつからか取れない錆の輪がこびりついている。薄明るい光の中、それもまた自分の身体の一部のように感じられた。
古い町家の二階。梁がゆっくり鳴った。天井から糸のように垂れた蜘蛛の巣が、風もないのにふるふると揺れていた。
哲学の道から逸れた、吉田山の裏。いくら歩いても、観光客には出会わない。小さな坂を登りきったあたり、湿った石垣に囲まれた細い路地の奥に、その家はある。瓦の裏からときどき、雀が走る音がする。雨の夜には、その音がまるで人の足音のように聞こえることもあった。
創はその部屋で、静かに息をしていた。
本と紙のにおい。湿った畳。開け放した窓の向こうに、うす青い空がのぞいていた。どこかの家の風鈴が鳴った。近いのか遠いのか、わからなかった。自分の中にある言葉が、皮膚の下で澱のように動いていた。言葉にしようとすると、喉の奥で霧になってほどけてしまう。そういう日だった。
創はまだ、動けずにいた。
昨日の夜のざわめきが、背後から低く這い寄ってくる。風ではない。電線の揺れでもない。何か名のない湿った気配が、部屋の四隅でふるえているようだった。
扉を閉めたとき、ほんの一瞬、玄関の隙間から外の光がひと筋差し込んだ。埃がその中で宙に浮いていた。創はそれを、まるで音のない咳のように感じた。声にもならない、気配だけの吐息だった。誰のものでもなく、けれど、自分の中にもかすかに宿っているような。
台所に置いたコップに、水が半分残っていた。それを飲もうとしながら、ふと手が止まる。水面に何かが揺れていた。自分の顔が映っているのだと気づいたのは、少し遅れてからだった。その男の顔は妙に薄かった。皮膚と皮膚のあいだにもう一枚、透明な膜が挟まっているような、不確かなものの輪郭だった。
彼はそのまま、壁際に腰を下ろし、脚を投げ出した。腕が冷えて夜が白むにつれて、身体の表面が乾き、逆に、内側にじっとりと汗が滲んでくる。人間の皮膚とは何と頼りなく、そして何とよく濡れるものだろう、と妙な感慨が胸をよぎった。
遠くからかすかにテレビの音が聞こえた。となりの部屋か、それとも向かいのアパートか。誰かがニュースを流しっぱなしにしているのだろう。無数の声が、人の死を報せたり、天気の変化を述べたりしている。そのどれもが、壁に打ちつけられて砕け残響していく。
何も知らない、と誰かが言った気がしたが、響きは創の耳の奥で反復して消えていった。まるで自分で発した言葉を、自分自身がまったく理解できないまま受け取っているようだった。思考というよりは音に近い。意味を持つ前の音だった。声になる前の、湿りを帯びた衝動のようなものだった。
何かがほんの少しずつ、崩れている。だがその崩れ方は、たとえば氷が融けるような、あるいは雨が壁に染み込むような、そんなようなかたちをしている。破裂も崩壊もない。ただ、じわじわと、しかるべき場所へ染み出していく。
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