雲の正体はわたあめ

ユウグレムシ

 リカちゃんは理科の授業が大嫌いでした。小学校へ通うようになる前に大好きだった絵本の世界を、授業が進むたび台無しにされてしまう気がしたからです。リカちゃんの好きな絵本では、月にはうさぎが住んでいましたし、雲の正体はわたあめでした。いっぽう理科の授業では、宇宙の話となると、月のうさぎが古いマグマ溜まりの模様にすぎないという事実を突きつけられますし、地球の話となると、雲の正体が塵を核とした氷や水の粒にすぎないという事実を突きつけられます。黒板から理科のノートへ、マグマ溜まりや氷の粒の説明をせっせと書き写しながら、そのかわり絵本の世界に消しゴムをかけさせられているみたいで、リカちゃんは正しいだけのつまらない人間に改造されてゆくような気がしていました。

 インターネットの世界でも、月にうさぎが住んでいる、とか、雲の正体はわたあめ、なんて書き込むと、すぐさまAIがリカちゃんの発言にデマの疑いをかけてきます。インターネットにデマを拡散させないためには、月にはうさぎが住んでいてはいけないし、雲の正体がわたあめであってはならないのです。どうして、こんな正しいだけのつまらない世の中になってしまったのでしょうか?


 リカちゃんひとりがボヤいたところで、理科の授業も現実のつまらなさも変えられません。そこでリカちゃんは、リカちゃん自身の頭の中だけで、空想の世界にパステルカラーの箱庭を作り、箱庭のあちこちにピンクや水色やレモン色の屋根のおうちを建てて、ぬいぐるみ達を住まわせました。空想の世界の箱庭でも、月にうさぎは住んでいませんし、雲の正体はわたあめではありません。しかし箱庭のぬいぐるみ達は、月にうさぎが住んでいないのかもしれないとか、雲の正体がわたあめではないのかもしれないなんて、いっさい疑わないのです!月にはきっとうさぎが住んでいるんだよ。雲の正体はきっとわたあめなんだよ。……そう思って済ます住人達であることこそが肝心でした。

 現実の大人達ときたら、科学技術の発展を競い、意地を張り合ってばかりいましたが、リカちゃんの箱庭では争いなど起こりません。月や雲のように手の届かないものは正体が分からなければ分からないまま、楽しい空想だけで済ませて、余計なことを考えず、みんな仲良く幸せに、こぢんまりと暮らしています。箱庭の住人にとって、雨が降れば雨の精霊のしわざでしたし、風が吹けば風の精霊のしわざでした。



 リカちゃんが中学生になっても、箱庭の空想は続いていました。もう絵本を読むのは恥ずかしい年頃でしたし、部活動や受験勉強が始まると否応なく現実が押し寄せてきて、空想の時間は頭の隅へ追いやられがちでしたが、それでも箱庭は大切な心の安全地帯でした。つらいとき、さみしいとき、死にたくなったとき、箱庭のぬいぐるみ達はいつにも増して穏やかに楽しく暮らしてみせ、現実のつまらなさに疲れたリカちゃんの気持ちをなぐさめてくれました。子供っぽくたって、空想の世界に夢さえあれば……!

 ところがある晩、リカちゃんはイヤな夢を見ました。よりによって、悪夢の舞台はリカちゃんが大切に守ってきたはずの、パステルカラーの箱庭の世界でした。箱庭の空に黒雲が沸き立ち、ピンクや水色やレモン色の屋根のおうちが横殴りの大雨に見舞われ、ぜんぶ濁流に呑み込まれてしまったのです。毛皮が泥水でぐしょぐしょになったぬいぐるみ達は命からがら高台へ這い上がり、はぐれた家族を探して泣き叫びます。一匹のぬいぐるみが進み出て、雨の精霊と風の精霊に祈りを捧げました。……でも、ただ祈るだけ。

 たぶん、夕方のニュース番組で、戦争や災害の映像を見たせいでしょう。けれどもリカちゃんがうなされた悪夢の原因は、リカちゃん自身の心のほうにも思い当たる節がありました。なぜなら箱庭の住人に知的探究心を与えなかったのは、ほかならぬリカちゃんだったからです。


 余計なことを考えなければ、みんな幸せに暮らせるはず。そういう理想郷の身勝手さに、中学生のリカちゃんは薄々気づいていました。箱庭の世界はしょせん空想なので、リカちゃんのご都合如何によっておうちもぬいぐるみ達もぜんぶ元通りにできるでしょう。しかし、純朴に創られたためダムも堤防も知らず精霊に祈るばかりのぬいぐるみを箱庭ごしに眺めおろすリカちゃんは、いったい何様のつもりでしょうか?

 絵本の世界は、人間に夢を与えてくれます。そして、月にうさぎが住んでいるかもしれない、雲の正体がわたあめかもしれない、と夢見るからこそ、ロケットや気球を発明して確かめに行く動機が生まれるのです。古代神話にあこがれて考古学者になる人や、スポーツ漫画にあこがれてプロスポーツ選手になる人は、勉強や練習を重ねて大人になっても、子供っぽい夢の世界を忘れてしまうわけではありません。学校の授業の内容は、単なる知識です。知識を得て、正しいだけのつまらない人間になるかどうかはリカちゃん次第。夢も勉強も大切にしよう、とリカちゃんは思うのでした。


おわり

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