沈黙のネカフェ【沈黙の臨界 二次創作】

 青葉伊織あおばいおり(31)は、初めて訪れるネットカフェに胸を躍らせていた。

 漫画本がたくさんある。ソフトドリンクは飲み放題でソフトクリームも食べ放題。

 それでいて利用客は自分の時間を大切にするため、静かに読書やインターネットを楽しんでいる。

 未知の世界は、伊織に想像以上の刺激を与えていた。 


 エッセイストである彼女は、普段自宅で仕事をしているのだが、近所の道路工事がどうにもうるさく集中力が切れてしまうため、締切が迫るなか仕方なく仕事場を確保するため、少し離れた場所にあるネットカフェまで車を走らせた。

 受付で会員証を作成し、希望した25番のパソコンブースに入った。

 左右隣のブースは空いている。通路を挟んで、12あるブースのうち、5つが使用中だった。

 いつものように専用サイトにログインして、彼女は指をリズミカルに動かしてキーボードを叩き、言葉の冒険の旅に出た。

 

 30番のブースにいる金山晋平かなやましんぺい(28)は、斜め向かいのブースに人が出入りしている音で目を覚ました。

 現在日雇い労働で働いている晋平は、友人に騙されて背負った借金のせいで全ての財産を失い、家も追い出され、仕方なく身を置いているのがこのブースだった。

 時刻は午前9時20分。体調を崩していたせいか、寝過ごしてしまっていた。

 メールボックスを開くが、今日の求人の連絡はない。

 なんとかバイトを探すも、4時間後からだった。

 自分の人生が悲しくなりながらも、小説家の夢を諦めきれない晋平は、すっかり眠れるようになったリクライニングチェアを起こし、小説投稿サイトにアクセスした。

 

 栗山多恵くりやまたえ(43)は、大好きな漫画を読みながら、ささやかな日常生活からの逃亡を楽しんでいた。

 13歳になる息子の悠河ゆうがと夫の亘行のぶゆきを見送ると、急いで洗い物を済ませ、いつものネットカフェのいつもの32番ブースに腰をおろした。

 ホットココアをゆっくりと飲みながら、敬愛する作家の濃密なBL本を読み漁る。

 週に三度のパート勤務をしながら、家事全般をこなす多恵にとって、ここでの時間は何よりも代えがたい貴重な自分時間であり、最高の贅沢だと思えた。

 いつものようにリクライニングチェアをやや深めに倒すと、思い切り脚を伸ばして身を委ねた。

 くたびれてクッション性が落ちたリクライニングチェアではあったが、多恵にとっては安息を与えてくれるゆりかごのように思えた。


 

 最初に異変に気付いたのは伊織だった。

 猫吸いについて熱く語る文章を綴っていたとき、鼻腔にまとわりつくような臭気を感知した。

 『ニンニク……かしら?』

 食欲をそそるはずの匂いのはずが、不快感を高める臭いに感じる。

 間違いなく、人体から放出されたものだ。


 直後、静寂は破られた。


 ぶももっ


 リクライニングチェアと尻肉の隙間をくぐり抜けて解放された屁は、振動となり、音となり、その存在を周囲に知らしめた。


 

 道路工事の音よりも遥かに集中力を削ぐ音だ。

 静けさのなかで響くと不快感があるのに笑いを呼び起こす、魔法のような音色となる屁は、脳内で幾度も再生され、伊織の肩を震わせた。


 それは、晋平と多恵も同じだった。

 異なる形で生活に追われた者がたどり着いた小さな安息の場所が、一発の重低音と異臭により浸食されたのだ。


 しかし、声を上げることはできない。

 他のブースの人の素性などわからない。静かでいなければならない空間。

 笑ってはいけない。咎めてもいけない。

 沈黙は、ある種の地獄であった。



 別の音がした。

 それはブースの扉が開く音だ。

 伊織、晋平、そして多恵は悟った。

 『奴だ……』と。


 臭気と音は、ブースを隔てる通路の奥から漂ってきた。

 そして扉が開いたのは、まさに一番奥。

 静寂を打ち破った不届き者の顔を拝みたかったが、それは禁忌だ。

 わかっている。それでも禁忌に触れたいのが人の罪深さなのだ。


 誰に指示されたわけでもないのに、三人は、そっと扉を開けた。

 通路を通ったのは太った男であり、三人の心には、なぜか安息が広がった。


 犯人が、女性ではないこと、イケメンでもないこと。

 太った男には申し訳ないが、イメージどおりの臭いと音を伴う屁をしそうな風貌であったのが、なによりの救いとなった。



 28番ブースから出てきた光龍院琉翔こうりゅういんりゅうと(20)は、自分を品定めする視線に気付いていた。わかるのだ、彼には。

 見た目が悪く太っていることを自覚しているし、場所から考えても見た目からも、先ほどの屁を生み出した男であると疑われていることを。

 子どもの頃、全校集会の体育館に響き渡る屁をかましたことで『ドルビーサウンド』とあだ名された過去を持つ琉翔は、犯人と認識されていることを知り、それを受け入れていた。

 誰かが傷つくなら、傷を持つ自分でいい。

 その思いを胸に、改めて犯人である証拠となる屁を放つため、下腹部に力を込めた。

 

 ミリッ


 誰の耳にも届かない音が、琉翔には知覚できた。

 それと同時に、尻が熱を帯びた。

 もう、下着は無事ではないことを知り、琉翔は涙した。



 臭気が消え、それぞれが平和な時間を取り戻したとき、23番ブースにいる武市伸雄たけいちのぶお(48)は、一人冷や汗をかいていた。


 急激な解放感を伴う音と濃密な悪臭が下半身から伝わってきたことで目が覚めた伸雄は、たった今、自分のブースの前を横切った男が犯人となった瞬間、罪悪感に苛まれていた。

 何も罪がない者に、自らが無意識のうちに生み出した、屁という悪魔の飼い主との汚名をすげ変えてしまったことに涙すら出た。

 仕事が上手くいかず、家庭でも邪魔者扱いされ、どこにも逃げ場がなかった伸雄が見つけたオアシスを汚した気持ちになった。

 原因は、夜勤明けに食べたニンニクたっぷりの餃子だ。

 ストレスから暴食に走ったものの、伸雄の内臓は既に脂を受け付けてくれる身体ではなかった。


 「すまん、誰かわからないが、本当にすまん……」

 伸雄は必死で声を押し殺しながら慟哭の涙を流した。

 不幸を肩代わりした者が、まるで神のように感じられた。




 静寂を取り戻したころ、ネットカフェ店員の三榊美兎和みさかきみとわ(19)は、消毒を済ませたスリッパを置きに行こうとして、残り香を察知した。

 若々しい感性は素直に「なんか凄い臭い」と発声した。


 再び、沈黙という名の地獄の釜が開くのを、伊織は感じ、肩を震わせた。

 

 

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