第5話 鏡の魔力
その日、遠藤探偵とまどかは、バー「メビウス」のある街に行くために、まどかの最寄り駅の喫茶店で待ち合わせた。
昔は、普通に、
「待ち合わせの喫茶店」
というのが結構あったのに、今では、
「チェーン店のカフェ」
というものしかなくなってしまい、
「実に残念なことだ」」
と父親が言っていたのを思いだした。
すでに、昔の喫茶店というものを、あまり知らない世代だったまどかとすれば、そんな父親の憂いた気持ちなど分かるはずもなかったので、その時は何も感じなかったが、いざ自分が、誰かと待ち合わせをするということになると、その時の父親の気持ちが分かる気がしたのであった。
その思いは、
「付き合っている人と待ち合わせるという感情に似ているのではないか?」
とおもったりしたが、今まで男性とお付き合いなどしたことのないまどかとすれば、そんな感情が分かるわけもなかった。
だが、今回は、その思いも分かってきた気がしたのは、どんな思いからだったのだろうか?
それを思えば、まどかは、
「これって、恋愛感情というものなのかしら」
と思うようになった。
心理学者を志すといっても、まだまだ高校生ということで、大人の世界というものを知らない。
興味がないというわけではないが、その扉をこじ開けることに、怖くないわけはない。
特に、
「一人でこじ開けるというのは、ハードルが高すぎる」
と考えていた。
もし、一緒にこじ開けてくれる人がいるとすれば、彼氏ということになると思っているのであった。
同性の女の子であれば、きっと、
「親友」
ということになるだろう。
しかし、まどかとすれば、同性の親友というのは、本来であれば、もっと前に、それこそ、小学生の頃からの幼馴染というくらいでないと務まらないと思っていた。
それは、
「相手の技量にもよるが、ツーカーの仲でないとうまくいかない」
ということが根底にあるといってもいい。
だから、
「今の時点で、親友と呼べる友達が一人もいない」
ということは、
「これからできる親友と呼べる人がいるとしても、その人は、自分が求めている本当の親友ではない」
と思っている。
また、親友というのは、同性でなければいけないとも思っている。これが男性であれば、どちらかに、少なからずの恋愛感情というものが浮かんできて、親友に対しては、恋愛感情が浮かんだ時点で、その関係は壊れてしまうと思っている。
そんな考えを、
「古臭い考えではないか?」
と思っていた。
今の時代は、
「男女平等」
という観点から、
「男も女もないというのは、親友という関係にも言える」
と考える人が多いかも知れない。
しかし、それはあくまでも、理屈の問題ということであり、そこに、感情であったり、意識というものが介在することになれば、理屈に優先するということになるだろう。
だから、まどかには、
「親友はいない」
とハッキリと言えるのだった。
となると、
「この遠藤探偵に対しては、恋愛感情が浮かんでくるのだろうか?」
ということになる。
確かに、今は、
「父親の捜索」
ということで、共通の認識と意識、さらに感情とが一致していることから、少なくとも、
「父親の発見」
ということになるまでは、分かるということはないだろう。
まどかは、喫茶店に到着し、遠藤探偵を待った。約束の時間より、30分も前についていた。それは、
「約束の時間に遅れる」
ということは、自分の中ではありえないというほどに、時間には厳格な性格だったということと、
「やはり、彼と会うことに対して、わくわくした気持ちがある」
ということになるのだろう。
実際に、
「ドキドキという気持ちと、わくわくのどちらが強いかといえば、比較にならないと答えることだろう」
と思うのだが、言葉で表現するとすれば、
「わくわくの方だ」
ということになる。
その感情が、
「心理学なのだろう」
と思った。
そもそも、意識の方が、感情よりも強くなければいけないとまどかは感じていた。
それは、あくまでも、
「冷静沈着というのが、自分の性格だ」
と思っていたからで、そのためには、
「感情を押し殺すということが必要なことだ」
と考えていたからであった。
まどかにとって、冷静沈着という思いが変わっていくのは、
「自分を否定することになる」
と考えることから、
「冷静沈着が最優先」
と思って今まで生きてきた。
しかも、今は、
「父親捜索」
という絶対的な優先順位があるので、それ以外の感情というのは、
「不謹慎な感情だ」
と自分で自分を戒めていたのだ。
もし、これは他の人であれば、
「それとこれとは別問題」
と考える人もいるだろう。
まどかとすれば、それすら否定するというか、
「人は人、自分は自分」
と考えることで、それを理由として、自分の考えを保っているのであった。
まどかの中には、
「私が遠藤探偵を慕っているかどうか」
ということが次第に大きくなっているのが分かった。
それは、
「意識というものが感情に変われば、間違いなくそう言えるだろう」
と思ったからだ。
しかし、待ち合わせを楽しみにしている時点では、まだ自分の思いがどちらななおかが分からない。
つまり、
「恋愛感情なのかどうかも分からない」
ということだ。
少なくとも、
「恋愛意識というものだけはある」
というくらいに感じているのであった。
自分にとって、
「今は父親が大切」
ということである。
とはいえ、
「父親に対しての感情って、あまり感じたことはなかった」
と、こうなって見ると改めてそう感じるのであった。
「お父さんのことは尊敬しているけど、どうしても、堅物というイメージがぬぐえなかった」
ということであった。
それは、テレビドラマなどで、
「科学者や、数学者などというと、研究だけに没頭していて、人間としての感情が欠如している」
というような雰囲気で描かれているというのが多かったような気がした。
実際に、ドラマのストーリー展開では、彼らはそのようなキャラクターで描かれることで、主役を盛り立てるという、
「脇役に徹する」
という意味では、どこか、本来の性格に誇張した表現というものが必要なのだということになるだろう。
しかも、
「父親とは、絶対に交わることのない平行線というものになるのだ」
ということである。
それは、
「時系列」
というもので、
「時間というものが、誰にでも平等に流れている」
という当たり前のことであった。
というのは。
「父親が父親たるゆえん」
ということで、
「年齢の差は絶対に埋められない」
というこになり、その自分の知らない間に父親の経験した時代を自分が知らないということで、父親に限らず、年長者に対して、大いなる尊敬の念というものがあるのは当たり前のことだと思っている。
それが、どんな人であれ、あまつさえ、犯罪者であったとしても、自分の知らない時代を生きてきたということで、その尊敬の念というものと、実際のその人の表に現れていることとでは別だと言えるのではないだろうか?
そんなことを考えながら、遠藤探偵が現れるのを、漠然と待っていた。
そんな時、まどかが考えたのが、
「鏡の魔力」
というものである。
言い方は大げさであるが、以前から、鏡というものに対して、造詣が深いと自分でも思っていた。
前述の、
「合わせ鏡」
というものもそうである。
その中で考えたのが、
「無限」
という発想と、
「限りなくゼロに近い」
という発想である。
最終的には、父親の研究している数学に関わってくるということであるので、
「最終的な結論としては、父親が思っていることの方が正解に近いのかも知れない」
と思うが、その過程における発想というものは、
「私だって負けていない」
と感じるのであった。
しかも、その過程というものは、
「お父さんとは絶対に別のものだ」
と考えていた。
もちろん、考える人間が違うのだから、根本から違っているはずということで、違うことこそ、
「交わることのない平行線ではないか?」
と考えるのであった。
だから、まどかとしては、
「心理学と数学というのは、まるで、もう一人の自分のようではないか?」
と考えている。
そして、その、
「もう一人の自分というものを見ることができるとすれば、それは、鏡でしかないということで、それを鏡の魔力という言葉で言い表せることができるのではないだろうか?」
と考えるのであった。
前述の、
「合わせ鏡の発想」
というものだけではなく、最近では、まどかが考えていることとして、
「鏡の反転」
というものであった。
これは、ある意味、誰もが気が付きさえすれば、
「おかしなことだ」
と言えるのかも知れない。
しかし、たいていの人は、このことを提示したとしても、
「何がおかしいの?」
と、その現象がおかしいということに気づかないといってもいいだろう。
というのは、それこそ、
「目の前に存在しているにも関わらず、意識することがない」
という、
「河原や路傍にある石ころ」
という発想に似ているのではないだろうか?
目の前にあっても、
「そこにあって当たり前」
というものは、見えているのに、その存在が意識されることはない。
だから、人間も、気配を消すことで、相手に悟られないということを利点として、それこそ昔の忍者などというものが、活躍することになったと言えるのではないだろうか?
それを考えると、
「この発想は、人間の意識の中でも、意識はしているかも知れないが、感情としては表に出ることがないということでの、夢というものと似ているのかも知れない」
と言えるのではないだろうか?
夢というものが、潜在意識のなせるわざということであれば、
「鏡の反転」
であったり、
「路傍の石」
というものは、
「潜在意識のなせるわざだ」
ということになるだろう。
実際に、
「鏡の魔力」
というものがどういうものなのかというのは、さすがに、まだまだ心理学の勉強というものをしたいと考えるようになったはいいが、その前に、大学受験というリアルな問題が控え散るまどかには、なかなか難しいものであった。
しかし、勉強熱心になったということにおいては、まどかとすれば、決して悪いことではなく、むしろ、
「これからの自分にとってはいいことに違いない」
ということが言えるというものだ。
その鏡というものを考える時、
「左右反転はするのに、なぜ、上下が反転しないのだろうか?」
ということであった。
これは、普通に考えれば、
「当たり前のことではないか?」
という話になるだろう。
「そんな当たり前のことを、いちいち問題にするなんて、お前はおかしい」
と言われるに違いない。
しかし、少しでも、鏡というものに興味を盛ったりしていれば、
「それもそうだな」
と感じることだろう。
いや、逆にその人は、
「無意識かも知れないが、鏡というものに恐怖心を抱いているのかも知れない」
ということが言えるのではないだろうか?
「恐怖心を抱くからこそ、人間は、考えるようになった」
というもので、特に、古代人が、何も分からないことに関しては、祈祷などによって、解決するということに似ている。
今であれば、
「病気というのは、医者が治す」
というのが当たり前であるが、昔は、薬というものはあったかも知れないが、それも、
「自然の樹木などから取っただけのもの」
ということで、後は、祈祷師が祈願をするということでの治療しかないと言えるのだ。
だから、
「運命」
というものが生まれ、特に、
「人間というのは、寿命というものがあり、必ず死ぬ運命だ」
ということが分かっている。
しかし、これは理屈からいえば、
「生まれるだけであれば、人間が増え続け、自然の摂理に反してしまったり、限りある地球で増え続けることはありえない」
ということになる。
だから、人間以外の動物というのも、最後は死んでしまうというのが当たり前のことであり、それらをひっくるめたところで、
「自然の摂理」
というのだ。
実際に、
「弱肉強食」
という言葉があるが、それを、
「気の毒だ」
と考えるのが、人間の感情というもので、実際には、
「食物連鎖というものから、これは仕方がないことだ」
と考えるのが、人間の意識というものであろう。
それを思えば、人間の意識の中の大半というのは、
「仕方のないこと」
ということでの、諦めというものが多分に含まれていると言えるのではないだろうか?
実際に、病気になったりすると、人間は自分の肉親や仲間が死ぬことに対して、悲しくなるというものである。
それは、
「情が移った」
ということであろう。
しかし、実際に、それほど中のいいという訳ではない人は、
「気の毒だとは思うが、仕方のないこと」
として、死というものを意識として受け止めるだけということになるのだ。
同じ、
「死」
というものに対して。相手に対しての立場が違えば、それが、感情にもなれば、意識にもなるということである。
そんな人間が、一つの現象に対して、
「意識であるか、感情であるか」
ということを共存しているというのも、あり得ることではないだろうか?
もちろん、そこに、
「恐怖心」
などというものが存在すれば、それこそ、昔の祈祷のように、未知なものは、
「神がかかわっている」
ということを感じることで、感情として受け入れることになると言えるのではないだろうか?
そんな思いを持って、感情として鏡というものを感じると、それを興味として感じる人と、
「研究材料」
と考える人の二つに分かれる。
研究材料として感じるということも、そこに感情というものがあり、
「問題なのだ」
という意識を持つということが必要になる。
つまり、研究材料として考える人は、一つのことに対して、
「感情だけでなく、意識としても持つことができなければ、探求心が湧いてくるわけはないだろう」
ということである。
だから、今では、心理学者と呼ばれる人が、この、
「反転する鏡」
ということに対して、いろいろな説を呈している」
たとえば、
「鏡はこちらを映し出すものだから、本来であれば、背中から見ているものが、錯覚を感じる」
ということで、あくまでも、
「背中から見ていることの錯覚」
と考えるというものだ。
実際には、
「それが最有力」
ということのようだが、もっと他に生まれれば、また違ってくるのだろう。
有力ではあるが、決定的な証拠のようなものが出てきているわけではないことから、
「定説ではない」
ということになる。
そもそも、心理学というのは、その実際の考え方というものが、提唱されないわけなので、決まった考え方を証明するというのは難しい。
たくさんの説がある中から、一番適切と考えられるものを選ぶという作業が、定説につながるということになるのではないだろうか?
それを考えると、
「鏡の魔力」
というのは、
「合わせ鏡」
などと同じく、
「結論として証拠になる一つの考え方」
というものがあり、それが、
「数学的なものに近い」
と考えられるのではないだろうか。
それが、
「限りなくゼロに近いもの」
ということであり、
「無限という発想」
というものなのではないだろうか?
この、
「鏡の反転」
というものに、数学的な発想は出てきていないということで、あくまでも
「仮説」
としていろいろ言われるだけで、定説というものが出てくるわけではない。
そうなると、
「定説というものを作るためには、数学的な発想というものが、必要になってくる」
ということになるだろう。
まどかは、
「父親が数学博士だから、娘も数学の才能があるだろう」
という、
「浅はかともいえる考え方」
というのが大嫌いだった。
それこそ、
「愚の骨頂」
と言えるのではないかと思えることで、
「底辺の考え方」
ということと、
「そんなことを考えるやつがいるのが人間ということで、そんな人間の仲間である自分が、果たして心理学を志してもいいのだろうか?」
という思いに至っているといってもいいだろう。
それが、まどかの、
「性格」
というものであり、それが、感情として現れたということを思えば。
「性格というものは、感情から生まれるものではなく、自分の意識から生まれるものではないだろうか?」
と感じるのだ。
それこそが、
「潜在意識に近いものだ」
ということになると、考えるようになっていたのだ。
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