第4話 バー「メビウス」

「その店はなんという名前なんですか?」

 とまどかが聞くと、

「バー「メビウス」という名前なんですよ」

 と教えてくれた。

 メビウスというのは、四次元の世界の存在を暗示させる、

「メビウスの輪」

 というものに似ているといってもいいかもしれない。

 そういう意味で、数学者である父親は興味を持ったのかも知れない。しかし、本来であれば、メビウスの輪というものは、数学者よりも、物理学者の方が似合っているような気がする。

「物理学者が好きそうな名前ですね?」

 というと、遠藤は今度はあからさまに楽しそうな顔をして、

「ええ、そうなんですよ。実は先生のお仲間というのは、その物理学者だったんですよ」

 という。

 その話が、遠藤のどこを刺激したのか分からないが、かなり興奮しているかのようで、みていて、滑稽にさえ感じられたまどかだった。

「そんなに相手が物理学者というのが面白いですか?」

 と、まどかの方は相変わらず、冷めた感情しかもっていなかったのだが、遠藤は相変わらずの興奮で、

「ええ、こんなに面白いことはありませんよ。二人が話していた話題は、数学者にも、物理学者にも、同じくらいの郷里のお話で、聞いていて興奮が盛り上がってくるのを感じたほどです」

 という。

「そんなに面白い?」

 と聞くと、

「ええ、だって、数学と物理学の間の微妙な距離ですよ。しかも、店の名前がメビウス。それこそ、異次元の世界を創造させるだけのものではないですか。それを考えると、私はこれ以上の面白さはないと思いますよ」

 というのだった。

「どんな話だったんですか?」

 というと、

「いろいろな話をしていましたが、私が興味を持ったものの一つに、限りなくゼロに近いものという発想がありましたね。その発想というのは、元々は、合わせ鏡や、マトリョシカ人形のようなものからだったんです」

 という。

 マトリョシカ人形というと、確か、

「ロシアの民芸品」

 というもので、

「人形の中からまた人形が出てきて、さらに、その中には人形があって」

 というものであった。

 また、

「合わせ鏡」

 というのは、

「ある人の前後、あるいは左右に鏡を置いた場合、その向こうに見えるものは、無限に自分だ」

 という発想である。

 つまりは、

「どんどん小さくなっていく」

 という発想であるが、理論的には、

「無限という発想」

 から考えると、

「最後には、絶対にゼロにならないというのが、無限という考え方」

 ということになれば、そこに見えてくる発想は、

「限りなくゼロに近いもの」

 ということである。

 これを数学的に考えると、

「整数をどんどん割り続けると、どんなに小さい数字になろうとも、決してゼロになるということも、ましてやマイナスになるということもない」

 というものである。

 それが、数学的な考えというものであり、その先にあるものは、

「無限」

 という発想である。

 この無限という発想は、

「数学者にも、物理学者にも共通の課題」

 といってもいいだろう。

 まどかは、それくらいの発想は頭の中に持っていて、それでも、

「まだまだ神秘な部分が多い」

 ということであった。

 その話を遠藤探偵が聞くと、

「ほう、なるほど数学者の娘だけのことはある。私も似たような発想を持っているが、まどかちゃんは、さらに、その先の感情を持っているような気がするな」

 ということであった。

 まどかは、そんな

「数学的な発想と、物理学的な発想」

 というものを、父親から聞いたというわけではない。

 だから、

「さすが、数学者の娘」

 というのは、話を聞いたというよりも、発想であったり、感性というものが、父親からの遺伝ということになるのであろう。

 そのことを、最初から分かっていたのか、途中から興奮気味になったのは、

「まどかが、この話を聞いてどう感じるか?」

 ということが、遠藤探偵には想像がついたのかも知れない。

 そんなことを思えば、

「まどかという女性は、本当に俺の手におえるのだろうか?」

 と考えた遠藤探偵は、

「覚悟を持って会いに来た」

 といってもいいだろう。

 そんなバー「メビウス」という店に、さすがに高校生の娘を連れていくわけにはいかないので、遠藤探偵が、店に行ってみるということになった。

 実際に遠藤探偵は、

「あの店が、失踪に何かかかわりがあるのかも?」

 と感じているようだった。

 遠藤探偵としては、

「あの店は、どこか幻想的で、行くたびに、この店は本当に存在するのかというような不思議な感覚に陥ることが多い」

 と考えていたのだ。

 実際に、まわりの客というのも、いるにはいるのだろうが、その存在がまるで架空ではないかと感じられるほどだった。それこそ、幻想的な世界の中の、景色であったり、オブジェのような存在といってもいいだろう。

「そのお店って、木造建築っぽいお店なんですか?」

 と、まどかが言った。

 それを聞いて、遠藤探偵は、少し驚いたようで、

「どうして、それを知っているんだい?」

 と聞いた。

 遠藤とすれば、

「父親から、そういう店に行っているという話を聞かされていたのかな?」

 と感じたようだが、

「どうしてなのか、お父さんをイメージすると、そういう店に行っているという感情が浮かんでくるんですよ。だから、あくまでも、想像でしかすぎないんですけどね」

 という。

 最初は、遠藤とすれば、まどかに対して、ある程度のマウントを取ろうとして、自分の感情を表に出さないようにしていたのに、今では、そんな思いは消えていて、逆に、まどかに対して前のめりだった。

 というのも、

「きっと、まどかに対して感情が大きくなっている。つまりは、興味津々ということになるのではないか?」

 と感じるようになっていた。

 ある意味、

「立場が逆転してしまったのではないか?」

 ということであるが、それは、

「遠藤探偵が、まどかのことを子供だと思って甘く見ていた」

 というのもあるだろう。

 ただ、それも、探偵としてのやり方ということで、むげには否定できないといってもいい。しかし、だからといって、それを自分で違うともいえない遠藤探偵も、それなりに、素直なところがあるから、相手とのコミュニケーションができなくなるわけではないということになるだろう。

 そんな遠藤探偵ではあるが、今回の、今だ事件といってもいいのか分からない

「筒井氏の失踪」

 というものが、どうしてわかったのかということに関しては、今だ明らかにしていなかった。

 それが、結局、まどかの質問に対しての決定的な返答をなくすることで、まどかに対して、自分がマウントを取っていると感じさせたのは、それこそ、

「幸か不幸か」

 ということである。

 実際には、

「少し不幸よりなのかも知れないな」

 という程度で、まどかには、悪い印象ではなかったようだ。

 ただ、

「これが大人というものか?」

 ということで、大人のいい部分と、悪い部分の両方を見ているかのように感じられるというのも、おかしなことだといってもいいだろう。

 遠藤探偵としても、

「筒井氏が、何かの事件に巻き込まれているのではないか?」

 ということを、確信をもっていうことができないということになり、それが結果的な、

「相手へのマウント」

 というものを感じさせることになったのではないだろうか?

 遠藤探偵が、

「筒井教授の危機」

 というものを感じたというのは、

「胸騒ぎレベル」

 のことであった。

 もちろん、確証など全くない。当然事件性のないものということで、今の段階で、警察に言っても、まともに捜査もされないだろう。

 しかも、もし、これが事件性のあることだということを、家族には分かったとしても、一度捜索願が出され、それに対して、

「事件性がない」

 ということになったとすれば、警察は決して動こうとはしないだろう。

 そういえば、昔読んだミステリー小説において、

「一番安全な隠し場所というのは、どこになるのか?」

 という、まるで、

「読者への挑戦なるもの」

 というのがあった。

 それに対しての答えとして、

「それは、一度警察が探した場所だ」

 ということだ。

 つまりは、

「警察は一度探してなかったのなら、そこは二度と探さない。探すことが無駄な努力だと思うからではないだろうか?」

 ということである。

 しかも、警察というのは、自分たちのプライドを大切にするという風潮があるだろう。それだけ、自信があるのか、警察組織の特別なものが、そのように感じさせることになるのかも知れないということであろう。

 遠藤探偵が、この、

「皆騒ぎ」

 というものを感じたというのが、

「夢に見たから」

 ということであった。

 その夢というのは、舞台がこの、バー「メビウス」というものであったのだ。

 この店で、最初に一緒に二人きりで飲んだ時のことを思いだしていた。

 その時の様子を、遠藤探偵は、

「二人の様子を、自分は目だけになって後ろから見ている」

 という感覚で見ていたのだ。

 それで、

「これは最初から夢の中にいるんだ」

 ということを分かっていたということであろう。

 最初は、

「夢だとはまったく思っていなかった」

 ということで比較して考えると、かなりの違いがある。

 想像している以上の違いというものを感じるということで、遠藤探偵は、少し気持ちが落ち着いて見られるのであった。

「そもそも、どうしてこんな夢を見せるというのだろう?」

 と考えていた。

 夢というものは、無意識に見るものであるが、そこには、潜在意識というものがあり、その中には、

「予知夢」

 であったり、

「正夢」

 と呼ばれるようなものが潜んでいと考えると、夢というものが、決して一面だけのものではないということが分かってくる。

 要するに、

「二面性がある」

 というもので、へたをすれば、

「多面性」

 といってもいいだろう。

 人間の中には、

「二重人格」

 という人もいれば、

「多重人格」

 というものを持っているという人もいる。

 さらには、

「両極端な性格を併せ持っている」

 という人もいるわけで、それが、

「両極端な性格」

 というものを作るものであり、それが、

「定期的に、しかも、順番に移り変わる」

 ということから、

「双極性障害」

 と呼ばれる精神疾患が、深刻な問題を引き起こしているといっても過言ではないだろう。

 今の時代は、

「4人に1人は、精神疾患を持っている」

 と言われている時代である。

 それこそ、昭和の頃には、あからさまな差別があり、学校では、

「差別はいけないこと」

 と道徳の授業で習うが、家に帰ってから、親などから、

「あの子は精神病だから、近づいちゃだめよ」

 などと言われるのだ。

 子供とすれば、

「どっちが正しいんだ」

 ということで、戸惑いを持つことになる。

 そんな状態が、教育というものをゆがめさせ、今の教育上であったり、家庭内における大きな問題というものを育むことになっているのではないだろうか?

 そんな人格を、誰もが

「裏返しで持っている」

 というのが今の時代。

 だから、夢というものも、多種多様になってきていて、自分で、

「どうしてこんな夢を見ることになるのだろjか?」

 ということを感じさせられるに違いない。

 そういえば、最近まどかが考えていることがあった。

 それが夢に対してであるが、まどかには、あまり自分のまわりに、いろいろな話ができる人はいなかった。ちょっとした話ができるくらいの友達はいるが、親友と言える人はあまりおらず。特に、自分から人に話しかけるのが苦手なまどかにとって、友達を作るということに対してのハードルは高いのであった。

 だから、自分の考えていることなどを人に話すということもあまりなく、学校には行っているが、どこか引きこもり的なところがあり、本人はそんな思いはないのだが、知らない人が見れば、まわりから無視されているかのように見られるに違いない。

 だから、心に思っていたり、感じたりしたことを人と話し合うということが欠けていた。

 そのおかげなのか、まどかには、他の人にない想像力というものが結構強かったりする。しかし、そのせいか、思い込みのようなものが激しいと言えばいいのか、人に受け入れてもらえないような思いもあったりするのだ。

 まどかは、最近、夢について考えるようになった。

 元々は、

「夢というものは、一度目が覚めてしまうと、みることができない」

 と思っていた。

 その他には、

「夢というものは、目が覚める寸前の数秒に見るものである」

 ということであったり、

「夢は潜在意識のなせるわざだ」

 と思っていたりした。

 これに関しては間違っているわけではないようだが、最近、疑問に思っているのが、

「夢というのは、同じものを二度と見ることができない」

 という思いであった。

 というのは、

「夢は、自分の意識ではどうにもならないものであり、さらに、自分に対して悪い方に、都合よくできている」

 と考えていた。

 だから、

「続きを見たい」

 と思うような夢に限らず、

「夢というのは、どんな夢であっても、ちょうどのところで目が覚める」

 という考え方であった。

 例えば怖い夢を見ていたとしても、最後のクライマックスで、自分が危険に晒されたりした時、必ずその瞬間に目が覚める」

 ということである。

 そんな時は、

「夢でよかった」

 ということで、ホッとした気分になる。

 しかし、いい夢も、肝心なところで覚めてしまう。そんな時には、

「ああ、もっと続きが見たかった」

 と思うのだ。

 そして、そう思うあまり、

「夢を見ていて、一度目が覚めてしまうと、その続きというものを見ることは決してできないのだ」

 という風に思うのである。

 それと同時に、

「一度見て、もう一度見たい」

 と思う夢も、見ることはできないと思うのであった。

 つまりは、

「いい夢であろうと、怖い夢であろうと、一度夢として見てしまうと、二度と同じ夢を見ることはできない」

 という考えなのであった。

 しかし、実際に考えてみると、

「この夢、どこかで見たような気がする」

 と感じる時があった。

 だが、そう感じるのは一瞬で、すぐに、その考えを辞めてしまう。なぜなら、

「前に見たのは夢ではなく、現実の世界だったからではないだろうか?」

 と考えるからであった。

 つまりは、

「この夢の原点となることが、現実にあった」

 ということで、逆に、

「夢に見たいほどの鮮烈な思いが、現実世界であったのではないか?」

 ということである。

 確かに、いいことであれば、

「夢でも見てみたい」

 と思うことがあるだろう。

 だったら、

「いい夢だけでいいのに」

 と感じるのだが、実際にはそんなにうまくいくわけではなく、怖い夢であっても、自分では望んではいなはずなのに、その怖い夢を見てしまうということになるのであった。

 それが、

「夢というものの怖いところであり、さらに、面白いと思うところではないか?」

 ということになるであろう、

 まどかは、そんなことを考えながら、最近は眠るようになった。

 相変わらず、

「夢というものは、自分の意識していることに惑わされるものではなく。意識しているのに、それを分かっていないことによって、考えさせられるいわゆる、潜在意識によるものでしか見ることができない」

 と考えていた。

 しかし、それが、またしても、

「二重人格性」

 というものを感じさせる要因ではないだろうか?

 夢のことを考えると、自分の中に、

「意識している」

 あるいは、

「意識していないが、実は意識をしている」

 という二つの意識があるということになる。

 これを、意識できているというものに関していえば、それを、

「感情というものだ」

 と言えるだろう。

 感情があることで、自分の意識というものが、

「意識しながら、それが現実になるという感情の両方を持つ」

 というものである。

 そして、意識していないのに奥に潜んでいる、いわゆる、

「潜在意識」

 というものは、

「感情という形ではない」

 ということになる。

 つまりは、

「意識というものが表に現れると、それを感情というのではないか?」

 ということなのだ。

 それが、どうして二重人格という発想になるかというと、それこそ、

「ジキル博士とハイド氏」

 という考え方ではないかと思っている。

 ジキル博士は、自分の中に、

「もう一人の人格」

 というものを感じ、それを引き出そうとして薬を開発したということであるが、それが結果悲劇を生んだという話ではなかったか。

 つまりは、

「もう一人の人格というのは、自分が表に出ている時は、決して表に出ずに、もう一人の人格が表に出ている時、自分は、引きこもってしまっている」

 という考えだ。

 それが、一種の二重人格性ということで、

「これは、皆にある」

 と言えるのではないかと思っているのだ。

 というのは、

「夢を見る」

 というのは、この二重人格性の、

「もう一人の自分が表に出ている」

 ということで、引きこもっている自分の感情を、夢の中で表しているということではないかと感じたからだ。

 もう一人の自分が表に出ている時、自分は、決して表に出ることは許されない。だから、逆に、自分が表に出ている時、つまり、もう一人の自分がひきこもっている時というのは、もう一人の自分が夢を見ている時ではないだろうか?

 そんな、

「もう一人の自分が見る夢」

 というのが、実際に見ている夢の中で、本当は起きて現実に見ていることと、カオスになることがあるとすれば、

「実際の自分が夢を見る」

 という時に、本来であれば、

「現実の世界で見た夢だ」

 と思っているのは、その実、

「もう一人の自分が、みていた夢なのではないか?」

 と言える。

 だから、

「どこかで見た夢」

 という、いわゆる、

「現実と夢の狭間」

 のような感覚になるのだろう。

 そういう意味で、

「夢というのが、悪い意味で都合よくできている」

 というのは、きっと、

「もう一人の自分の存在」

 というものが影響しているのではないだろうか?

 それを考えると、実に面白いのだが、考えれば考えるほど、怖いことではないかと感じるのであった。

 それが、ある意味、気持ち悪さというものを感じさせるというもので、最近では、

「夢は都合のいいものだが、今まで感じていたような、悪い方にということではないのではないか?」

 と感じるようになった。

 だから、

「一度見て、肝心なところで目が覚めた、もう一度見てみたい」

 と思う夢というのがあった時、二度寝をして、

「もう一度見てみたい」

 と、結構強めに感じると、みることができたのであった。

 それから、夢に対しての思いは変わってきた。

「感情というものと意識というものの感覚の違いというものが、夢を大きく左右する」

 という思いと、

「思い込みというものが、夢というものであり、それを現実の世界で強く感じてしまうと、自分が思っていることを達成させるということが難しくなる」

 というものであった。

 それを考えてみると、

「世の中において、何が正しいというのか?」

 ということが分からなくなるような気がしたのだ。

 父親が、

「数学博士を目指す」

 ということは分からなくもないが、

「自分は、違った道を歩もう」

 とまどかは考えるようになっていた。

 それが、

「心理学の方への転身」

 ということであった。

 夢を見ることで、意識や感情というものが、自分なりに理解できたということを思えば、

「私のような人間が、心理学を志す」

 という人間なのではないかと思ったからだ。

 そんな中で、

「父親の失踪」

 というアクシデントがあって、本来は、それどころではないということなのだろうが、

「あれこれ考えていても仕方がない」

 ということもあり、目の前に現れた遠藤探偵という人と、一緒に父親を捜すということで、これからの自分の心理学者としての道が開けるのではないかとまで考えていた。

 これは、確かに不謹慎なことではあるが、遠藤探偵に会ったことで、余計に心理学を志すという思いが深まったというのも事実である。

 それこそ、

「なるようにしかならない」

 という感情も見え隠れするようなまどかの性格なので、遠藤探偵にすがるという気持ちもまんざらでもない気がしていた。

 そんな中で、彼から聞いたバー「メビウス」というところの存在は結構気になるものであった。

 本来であれば、自分の年齢で行くべきところではないのだろうが、

「父親の失踪」

 という非常事態ということで、

「自分も行ってみたい」

 という気持ちになり、遠藤探偵に連れて行ってもらうという気持ちになったのであった。

 遠藤探偵も、最初は渋っていたが、

「そういうことなら、一緒に行こう」

 と言ってくれた。

 実際に、翌日の夜に行くことにした。母親には、

「予備校に行く」

 としか言わなかったのは、心配させたくないという思いと、自分の将来への道筋を自分で確かめることを、誰にも邪魔されたくないという思いとが交錯しているからであった。

 実際に、遠藤探偵と一緒に、バー「メビウス」に行くことにしたが、その時間が近づくにしたがって、まどかは何か胸騒ぎのようなものがした。

 それは、

「大人の世界に入り込む」

 という思いとは違った別のもので、

「そんなところに行ってもいいのだろうか?」

 という思いだけではない。本当の意味での胸騒ぎを感じているように思うのだった。

 それこそ、

「倫理学を志す自分の真骨頂ではないか?」

 と思ったが、意外と自分のことになると、皆目わからないというのも、無理もないということを感じていた。

「なるほど、確かに自分ほど見えないものはない」

 ということで、それこそ、鏡のような媒体を使わないと、自分というものを見ることができないという発想であった。

 そんなことを考えていると、

「そろそろ見えてくるよ」

 といって、指さしたあたりがあった。

 しかし、次の瞬間、それまで余裕で、

「大人の対応」

 というものをしていた遠藤探偵の顔が、あからさまに歪んだのだ。

 それは、恐怖に震える表情ということで、昨日初めて会ったばかりの遠藤探偵ではあるが、

「まさか、この人がこんな表情をするなんて」

 と思うと、急にまどかも恐怖がこみあげてくるのを感じたのだ。

 そして、遠藤探偵は、

「そんなバカな、ここにあったはずなのに」

 というのであった。


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