第2話 行方不明
ちなみに、ここでいう
「博士号」
というのは、世間で言われている、
「大学院を卒業し、修了過程を終えて、修士というものになり、企業での専門的な分野を担う、最高の実績」
ということではなく、
「博士課程を終了し、博士としての自立した研究員のことをいう」
ということである。
そして、その中でも、
「学会が認めた博士」
というのが、筒井が目指す、
「博士」
という考え方であった。
だから、
「大学院に入った時から、2つの進み方がある」
ということになる。
もちろん、
「修士課程」
を終えることで、民間企業の研究所の所長を目指すという人も結構いたりするのだ。
筒井は、あくまでも、
「研究者の第一人者になりたい」
という思いを持って、大学院で、博士課程というものに進んだ。
実際に、それは間違ってはおらず、大学側が期待するだけの成果を、どんどん挙げていったのだった。
数学者というものが、他の理系から見ても、そこまで注目されていないということを考えても、筒井の評価が下がるわけではない。
「10年に一人の天才」
という言われ方もした。
そんな筒井を、すでに博士と呼んでもいいレベルまで来ているのだが、彼は自分の中でプライドのようなものがあるようで、
「筒井博士」
と呼ばれることを嫌った。
「学会から認められないと、そんな風に呼ばれたくはない」
ということで、自分への言い方に関しては、あまりものにこだわらない筒井にしては、固執していたということである。
ただ、大学院に入って、そろそろ20年が経とうとしていた時期、年齢的にも、40代前半ということで、
「民間企業であれば、課長クラス」
といってもいい年齢になったその時、やっと学会から認められそうな研究がまとめられることになった。
それは、発表前から学会でも評判となっていた。
筒井は、その態度は結構まわりに悟られることが多いということで、学会の博士連中であったり、世間で注目している人から見れば、
「今回の発表には、相当力が入っているようだ」
ということが、丸わかりということであった。
つまり筒井という人物は、
「隠し事のできない人間だ」
ともいえるだろう。
本当は、
「そんな人物が博士になってもいいのか?」
ということもちょっと気になるところであるが、実際に、
「博士と呼ばれる人たちは、皆、何らかの癖などを持っていたりする」
という、
「個性の持ち主の一人」
といってもいいだろう。
そんなことを考えていると、実際に、
「学会が開かれる日も近づいてきた」
ということであった。
数学会は、騒然としていた。
「いよいよ、学会が認めるところまで筒井先生が来た」
ということからである。
実際に、これまで筒井が発表してきた内容は、すでに、他の数学者から検算されたりして、その功績は折り紙付きだったということである。
裏を返せば、
「発表に伴って、最善の注意を払った検算が行われている」
ということで、
「発表された時点から、すでに、筒井の法則」
ということが決まっているようなものであった。
大学院に研究室で、筒井には、
「助手」
と呼ばれる人はたくさんいたが、
「弟子」
という人は一人もいない。
他の先生には、
「一人や二人は弟子がいてもいい」
というのに、弟子を持つということに関しても、筒井は固執しているのであった。
実際に、
「助手というものを持つ」
ということは、あくまでも、アシスタントという意味合いで、立場は対等で、
「同じ目的をもって、研究する」
ということに変わりはないということである。
もちろん、大学院の中での立場には、れっきとしたものがあるというわけであるが、
「師弟関係」
というものではないということである。
そんな大学院において、研究を続けていたものが、どのようなものかというのを、
「助手から聞きだそう」
という勢力おあるようで、それこそ、
「産業スパイ」
と呼ばれたものと類似したものなのかも知れない。
産業スパイであれば、ほとんどが、
「企業単位」
ということであるが、これが、
「大学の研究室」
ということであれば、勝手が違っている。
それこそ、
「国家プロジェクトに近い」
というものであることから、その組織も企業レベルというものではなく、もっと大きな力や金が働いているといってもいいだろう。
だから、余計にカネが動くというわけで、それこそ、
「金が金を生む」
ということになるだろう。
まるで、ネズミ算的に増えていくということに、筒井は、時々憂いていたのであった。
しかし、そんな筒井は、不意に、そんな発想からまったく別の考えをひらめいたのであった。
それが、今回発表されるであろう、研究ということである。
その発表の内容は、今回も
「秘密」
ということになっていた。
しかも、今回の秘密は、完全に大学からも厳命されたものということで、誰もその内容を知る者はいなかったということである。
ただ一つ言えることは、前述の、
「ねずみ算的な発想」
というものに、嫌悪感であったり、虫唾が走るというだけのものを持っていたことで、
「その反対の発想」
というものが、筒井をひらめかせたのである。
それだけは、世間にも公表されていて。
「今回の研究は、発表までに厳重にその守秘義務は守られるべきもので、これに違反すれば、国家を敵に回したというくらいに大きなものだ」
と言われていた。
しかし、
「ヒントとして一つ言えることは、その内容に、マイナスというキーワードが入っているということです」
というものであった。
これは、大学側としても、一つの釈明に近かっただろう。
「国家レベルの秘密」
ということで、一方的にかん口令を敷く」
というのは、フェアではないと思ったからだろう。
彼のいる大学の風紀ということで、
「フェアな考え方」
というものを、理想として、さらには、理念としている。
だから、フェアプレイを目指すということで、ヒントが示されることになったのであった。
もっとも、
「国家というものが、一番フェアではない」
ということもいえるだろう、
特に、戦争などが勃発した時は、
「諜報活動」
であったり、
「プロパガンダ合戦」
ということで、
「勝つためには何をしてもいい」
という考えが生まれるのである。
かつての某国はひどいものだった。
「植民地に対しての貿易で損をする」
と考えたその国は、
「アヘンという麻薬を蔓延させることで、アヘンを輸入しないといけない立場に追いやられる」
ということで、戦争状態となり、結局植民地が負けて、さらに迫害を受けるということになった。
さらに、他の戦争において、
「自分たちの国を建国することを応援する」
と、敵対するそれぞれの民族に約束して、それが、現在まで大きな火種ということで残ったというものもある。
いわゆる、
「二枚舌外交」
というやつである。
最初から、
「建国に協力などするというつもりもない」
というのに、騙された国が今では、絶えず戦争をしている地域ということになるわけである。
だから、
「戦争というのは、どちらが悪いというわけではなく、昔からの歴史の積み重ねで起こるものだ」
と言えるだろう。
だから、今の時代だけを見て、片一方に加担し、
「国民の苦痛を見て見ぬふりをしながら、戦争をしている国に、無償で金を出す」
という暴挙に出るのだ。
「人道的な措置」
と政府はいうが、結果として、
「その金で戦争のための武器弾薬を買う」
ということだから、何をどう言い訳しても、
「戦争の一方に加担した」
ということに変わりはないということだ。
それが、我が国だというのだから、これほどの屈辱はないだろう。
「実際に、貧困で苦しんでいる人がたくさんいるのに」
ということで、そんな政府はすぐに破綻するというのも当たり前のことだったのだ。
そういう意味では、国家が後ろ盾になっているというのは、実際には強力な権力のようなものを持てるということでもあるが、一歩間違えると、
「国家に利用されかねない」
ということも、背中合わせにありえることではないだろうか?
それは、ここで研究している人はある程度まで覚悟はしているようだ。もちろん、それによって、生命の危機ということになるのはまずいだろうが、さすがに今の日本ではそんなことはないだろうと思われる。
それを考えると、今の国歌を憂うる人がいるかどうかというのが大きな問題なのではないだろうか?
そんな研究を続ける
「筒井博士」
であったが、彼の今回の研究である、
「マイナス」
に関わるものは、へたをすれば、産業スパイに狙われるのではないかということも考えられることであった。
しかし、この研究を知っている人は、ごく限られた一部の人たちだけで、それを実際に他の何に使えるのかということはハッキリとしているわけではない。
それだけに、身に危険を感じているのは、博士だけだったのだ。
そんな博士であったが、別に普段は変わらない生活をしているし、大学でも、相変わらずだった。
元々、研究に生活のほとんどの時間を費やしているので、研究所の帰りに、どこかに寄ってくるということもない。研究所をほとんど定時に終わり、いつも家には午後八時には到着していたのだ。
だから、いつも家では奥さんと一緒に食事をしていた。
娘のまどかは、中学生の頃くらいまでは、家族での食事だったのだが、今は時間がずれている。むしろ、娘の方が、夕食の時間が遅いといってもいい。
なぜなら、まどかは高校2年生になっていて、来年は大学受験ということで、すでにそれを目指して予備校に通っていたからだ。
予備校は、学校が終わってから、直接行っている。学校からも家からも少し遠いところなので、家族としても不安だったが、
「大丈夫よ」
という娘の言葉を信じていたのだ。
実際に、学校から予備校も、予備校から家に帰ってくる時も、比較的賑やかなところが多いので、それほど危ないこともない。
まどかも、父親の血を引いているからなのか、
「何か食べていこうか?」
という予備校の友達の誘いに乗ることもなく、いつも、予備校が終わればすぐに帰宅していた。
友達の中には、まどかのことを、
「付き合いが悪い」
という人もいるが、ほとんどの友達は彼女のことを理解している。
というか、
「お父さんが大学教授ということだから、あの性格も仕方がないか」
ということで、そもそも、誘ったとしても、会話になるというわけではないだろうか、ある意味、
「彼女がいようがいまいが関係ない」
ということなのだろう。
そういう意味で、幸か不幸か、彼女のことを悪くいう人もいなかったのだ。
それだけに、家路を急ぐまどかだったが、それでも、午後九時半までには帰宅できていた。すでに、
「お腹ペコペコ」
という状態で、帰りつくまどかの食事はすでに用意されている。
母親が、娘の帰ってくる時間を把握していて、しかも、それは自分たちの食事が終わり、娘の食事の準備を始めると、ちょうどいい時間になるということからであった。
その時間には、もう筒井博士は、風呂も済ませて、後は寝るだけということであった。
博士は、テレビをほとんど見ることはない。その日のニュースくらいは確認するが、ダラダラとテレビを見ることはなかった。報道番組などといっても、しょせんは、芸人のコメンテーターが出てきたりして、
「正直、うざい」
と思っていたのだ。
そんな時間があるのなら、一人でゆっくりと本を読んでいる方がマシだと思っていた。
実際に、最近は、本というと、
「電子書籍」
ということになるのだろうが、博士は、いまだに、
「印刷物の本」
というものを読んでいる。
「その方が記憶に残るし、また読みたいという時も、簡単だ」
と思っていたのだ。
実際に、寝る前の一時間近くが、彼の読書時間ということで、その時間こそが、
「博士にとっての、一日で一番の楽しみだ」
ということであった。
読む本というのは、別に研究に関係のあるものではない。ほとんどが小説で、ミステリーやSF系の小説が好きだったのだ。
もっとも、研究を好きになったのも、SF小説のおかげだといってもいいだろう。
「それなら、物理学か、化学という分野ではないか?」
と思われるが、なぜか数学だったのだ。
それだけ、学生時代に、算数、数学というものが好きだったということの裏返しだと言えるのかも知れない。
博士のよく読んだSF小説では、
「タイムトラベル」
というものに関したものが多かった。
タイムスリップであったり、タイムリープなどのものであった。実に興味深いことだと思っていて、タイムマシンというものの開発に関しても、数学者という立場から、協力できることはないかとも思っていた。
しかし、実際には難しい。
実際にいわれている、
「タイムパラドックス」
というものは、あくまでも、
「空想の世界」
ということで、その内容がいかに熟知されるべきことなのかということが難しいと言えるだろう。
それを考えると、
「ロボット開発も難しいな」
とも思っていた。
SF小説界において、
「タイムマシン」
と、
「ロボット開発」
というものが、それぞれに難しいものだということは分かっている。
特に、ロボット開発においては、
「ロボット工学三原則」
という問題、さらには、
「フレーム問題」
というのが絡んでいるということである。
「ロボット工学三原則」
というのは、かつて、半世紀ほど前に、あるSF作家が提唱したものであった。
それを提唱したのが、物理学者ではないというところが注目だと言えるだろう。
これは、かつての、
「フランケンシュタイン症候群」
と呼ばれるもので、そもそも、
「こちらも、SF小説が絡んでいる」
という意味で、面白いと言えるだろう。
フランケンシュタインという話があり、そこでは、
「理想の人間を作ろうとして、怪物を作ってしまった」
という話である。
結構昔は、似たような話が多い。
例えば、
「自分の中にいるもう一人の自分というものの存在を感じた博士が、薬を使って、そのもう一人の自分を表に引っ張り出すと、それは、実に邪悪な人間だった」
という、
「ジキルとハイド」
という話と同じである。
この話は、
「自分が表に出ている時は、ハイド氏は出てこない」
さらには、
「ハイド氏が表に出ている時は、、自分の意識がない」
ということであった。
だから、それぞれがまるで、
「昼と夜の世界だけでしか表に出られない」
とでもいうような感じで、あくまでも、ウワサとしてしか知ることができないということであった。
だから、
「どんなにハイド氏が悪さをしても、自分にはどうすることもできないのか?」
ということで、悩んだジキル博士は、結局、自分事葬るという決断をしたということであった。
それが、
「ジキルとハイド」
という話であるが、この話をどのように理解すればいいのかというのは、難しいところであろう。
あくまでも、
「ホラー的要素」
というものを踏まえたうえでの、
「エンターテイメント」
ということになるであろう。
そんなことを考えてみると、
「ジキルとハイド」
という話と、
「フランケンシュタイン」
という話には共通点が多く、それが、そもそもの、
「SF小説」
であったり、
「ホラー小説」
というものの、黎明期だといってもいいだろう。
そんなホラー色豊かな話が最初に出てきたことで、
「ロボット開発」
というものには、これらのことが起こらないようにしないといけないということであった。
つまり、
「ロボットが暴走して、人間を殺していく」
ということで、それが、
「自然的なものによる偶発的なもの」
ということなのか、
「悪の秘密結社のようなものがそこに絡んでいる」
ということでの問題ということになるのかということであった。
この世において、ロボット工学というものの開発は、
「科学の発展において、避けて通ることのできないもの」
として考えられていることだろう。
それが、
「タイムマシン開発」
というものと重なって、こちらも、
「避けて通ることのできない道」
である。
しかも、この二つの開発は、
「近未来」
ということである。
実際に、これが、
「20世紀半ばに書かれたもの」
ということであれば、その近未来というと、いつくらいになるのだろうか?
少なくとも、
「半世紀以内」
ということではないだろうか?
ということになると、その開発は、
「20世紀の間」
ということになるが、そうなると、今の時代は、
「すでに通り越した時代だ」
ということになるだろう。
そんな時代というものが、まったく開発されていない。
そのかわり、
「コンピュータや通信」
というものに関しては、
「ネットの普及」
であったり、
「スマホの出現」
などということで、進化は着実に進んでいる。
しかも、今の時代であれば、
「テレビなども不要」
と呼ばれる時代で、何が変わったのかといえば、テレビなどは、
「製作者からの一方的な映像」
ということであるが、今の時代は、
「誰もが配信者になれる」
ということで、
「個人が、配信番組を作れる」
というようなアプリが開発されたことで、個人が配信番組を作り、そこで、世間にいろいろな発想から配信しているということで、明らかに、
「21世紀の特徴」
といってもいいのではないだろうか?
そんな時代なのに、まだまだ開発されないロボットやタイムマシン。特に、ロボットなどは、前述の二つの問題があるということで、
「ロボット工学三原則」
というのは、
「ロボットは人間を傷つけてはいけない」
「ロボットは人間のいうことを聞かなければいけない」
「ロボットは自分の身は自分で守らなければいけない」
という三原則になるのだ。
しかも、この三原則というのは、優先順位というものが、重要な意味を成しているということである。
前述の最初から優先順位が高いということで、あくまでも、
「人間に危害が及ぶ」
というのは、ロボット開発の目的から考えて、完全に、
「本末転倒なことだ」
ということになるだろう。
しかし、ロボットというものを、悪用しようとする連中もいて、中には、
「戦争屋」
と呼ばれる連中に利用されるのではないかとも考えられた。
「戦争屋」
というのは、
「戦争が勃発することで、利益を得る」
という、
「人殺しの兵器を作っている」
という集団である。
いわゆる、
「死の商人」
と言われるものであるが、戦争がなくならない限り彼らは存在し続ける。
だから、逆にいえば、
「彼らの存在意義は戦争にしかない」
ということで、人類の最大のテーマである。
「戦争のない世界」
であっては困るということだ。
「戦争をなくさない」
という発想から、暗躍している。
しかも、
「その暗躍を他の人には知られてはいけない」
ということだ。
彼らの存在が明るみに出れば、
「戦争などバカバカしい」
という発想になってしまえば、それこそ、彼らにとっては、本末転倒になるということであろう。
実際に、戦争がなくなるということはない。
なくなってしまわないために、ロボット開発が急務だということだが、そのために、彼らの存在というものが、開発者からすれば邪魔だということで、
「ロボット開発というのは矛盾している」
といってもいいかも知れない。
実際にロボット開発というものが成功しないのは、もう一つ、
「フレーム問題」
というものがある。
こちらは、
「ロボット工学三原則」
というものに比べて、もっと深刻ではないだろうか?
ロボットの人口知能の問題であるが、
「人間にできることが、ロボットにはできない」
ということであった。
つまり、
「次の瞬間に何が起こるか?」
ということを予知できないということだ。
ロボットは、
「無限の可能性」
というものを考えてしまい、結局は何もできなくなってしまうというのが、
「フレーム問題」
というものだ。
そこで考えたのが、
「それらの可能性をいくつかのパターンに当てはめれば、無限ではなくなるのではないか?」
という発想である。
しかし、それができなかったことで、実は、
「可能性というのが無限にあった」
ということに気づいたのかも知れない。
ここからが、本来は、筒井教授の出番なのだが、数学的に考えると、
「無限というのは、何で割っても、結局は無限でしかない」
ということである。
これを解決出来れば、それこそ、
「ノーベル賞もの」
といってもいいだろう。
それどころか、その開発者の名前は、永遠に残る偉大な名前ということになるに違いない。
それが、数学者としても、挑戦してみたいことであるが、そう簡単にいかないのが数学というもので、実際には、この無限という問題のような厄介な考えが、結構たくさんあふれているといってもいいだろう。
そんな時代が今の時代といってもいい。
もっとも、
「昔から、矛盾の中で生きている。それこそが人間だ」
ということを提唱する学者もいる。
その人は、
「物理学者」
の人もいれば、
「心理学者」
という人もいる。
つまりは、
「それぞれの分野で、興味深く考えられている」
といってもいいだろう。
それなのに、どうしても破れない壁というものがあり、それが、今の時代の世の中の象徴なのかも知れない。
それを思えば、タイムマシン開発の、
「タイムパラドックス」
というものも、なかなかの難問といってもいいだろう。
そんな難問を、
「数学的な見地から、見てみたい」
というのは、数学者の共通の意見だろうが、数学者にも解けない者があるということを改めて思い知らされたといってもいい。
筒井博士は、今そのことを思い知っていて、難しい岐路に立たされているといってもいいかも知れない。
筒井博士が、
「行方不明になった」
ということが発覚したのは、博士の発表がまもなく行われるという頃のことだったのである。
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