数学博士の失踪(前編)

森本 晃次

第1話 プロローグ

この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、説定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和7年9月時点のものです。お話の中には、事実に基づいた事件について書いていることもあれば、政治的意見も述べていますが、どちらも、「皆さんの代弁」というつもりで書いております。


 ある数学博士がいる。その博士は、まだ若い時期から注目されていて、

「いずれは、博士号を取って、教授になるだろう」

 と言われていた。

 名前を筒井健一という人で、小学生の頃から、天才と言われていた。

 実際に、一人の生徒を天才などといって、えこひいきするわけにはいかないが、実際には、IQも高く、その発想には光るものがあると、担任も驚くほどだった。

 ただ、筒井少年は、そんなに目立つ方ではなかった。むしろ、引っ込み思案で、人とのコミュニケーションも苦手だったのだ。

 もっとも、そういう天才肌と呼ばれる人は、なかなかコミュニーケーションを発揮できないというもので、それこそ、

「天は二物を与えず」

 というのは、このことなのだろう。

 成績がいい生徒は、先生にその気がなくとも、劣等生から見れば、贔屓されているかのように見えるのだ。だから、生徒たちには、先生の評判が悪いというのも当たり前のことであり、その生徒も下手すれば、いじめの対象にされかねなかった。

 しかし、幸いなことに、虐めの対象にはならなかった。すでにターゲットは決まっていたからである。だから、筒井少年は助かったようなものであるが、そんな状況を分かっているからなのか、決して前に出たり、芽だったりはしようとはしなかった。

「出る杭は打たれる」

 ということわざがあるが、まさにその通りということであろう。

 虐められていた子というのは、その、

「出る杭だった」

 ということである。

 しかも、大したこともないのに、ちょっとしたことを大げさに言ってみたりして、いかにもまだ知多狩りというものを地で行っているという感じだった。そんなやつに限って、考えることの浅ましさというのは、分かり切っていた。

 だが、それを口にすることは誰もがしようとしない。そんなことを言えば、せっかく今ターゲットがいるのに、その矛先が自分に向いてくるということが分かっているから、見て見ぬふりの傍観者となるのだろう。

 いじめられっ子からすれば、そんな傍観者も、虐めている連中と同罪に見える。

「いや、もっとひどい立場にいる」

 と考えているかも知れない。

 傍観者は、そんなことまでは考えない。自分たちはあくまでも、安全だと思っていることであろう。

 それというのも、傍観者の数が圧倒的に多く、実際に、自分たちが手を下しているわけではないという思いもあるのだ。

 さらにいえば、

「傍観者の数というのは、結構いる」

 ということから、自分たちが安全であるということを自覚しているといってもいいだろう。

 筒井少年も、そんな中にいた。だから、絶対に前に出ようとはしないのだが、それでも、いつも成績はトップクラス。目立たないつもりでも目立ってしまう。

 特に、人間には、

「嫉妬心」

 というものがあり、自分にないものを持っていると、欲しがるか、手に入れられないものだと思えば、妨害に走ったりする生き物である。

 だが、それでも、筒井少年は苛めに遭うことはなかった。その理由を考えた時、

「中途半端ではなく、ガチで頭がよかった」

 ということであろう。

 要するに、まわりから見れば、筒井少年というのは、

「別次元の人間」

 ということで、逆に、

「見えていても、見えない」

 という現象である、いわゆる、

「路傍の石」

 といってもいいだろう。

 見えているはずなのに、見えないという現象は何が原因なのか分からないが、確かに、河原などにある石ころの存在は分かっていても、その一つを意識するということはない。それを、

「集団意識」

 というものと結びつけて考えるというのも、決して無理なことではないだろう。

 集団意識というのは元来違う意味ということであろうが、ここでは、

「誰に目をつけていいのか分からない」

 ということで、防御という意味でも、ことわざにあるような、

「木を隠すなら、森の中」

 という意識に似ているといってもいいだろう。

 そんな中で、虐めに遭うということのなかった筒井少年は、やはり、

「運がよかった」

 ということであろうか。

 一部のいじめっ子の中には、

「筒井に手を出すな」

 という連中もいたという。

 まだ小学生の頃だったので、大人としての感覚を同級生に持つことはなかっただろうから、やはり、

「別次元の人」

 ということになり、石ころ現象によって、

「目立たないどころか、その存在を意識させないマイナスのオーラのようなものが出ていたのかも知れない」

 彼は、小学生の頃から算数が好きだった。

 正直、他の科目の成績は大したことはなかったが、算数だけはずば抜けていた。

 特に算数というのは、

「答えがあってさえいれば、その問題を解く段階での式というものは、どんな解き方をしてもいい」

 という学問だった。

 だから、答えがあっているのは当たり前ということで、そこに至るまでのプロセスというのが、算数では一番大切だといってもいいだろう。

 そういう意味で、筒井の回答は、いつも、先生を驚かせる。

「そうか、こっちの解き方もあるんだな」

 と感心させるということもあれば、

「え? こんな解き方もあるのか?」

 ということで、本来であれば、誰も思いつかないだろう回答をしてくるのだ。

 それだけでも、先生は

「筒井という生徒は、算数だけに限って言えば、天才なのかも知れないな」

 と思っていた。

 しかし、だからといって、特別な感じはしなかった。

 なぜなら、成績のいいのは算数だけで、他の教科は、そこまで成績がいいわけではなく、どちらかというと、平均点を下回っているというくらいだったのだ。小学生の先生というのは、中学とは違い、ほとんどの科目を一人で教えるので、その人の全体的なイメージがつかめるのだ。

 それだけに、

「天才なんだろうが、これから先も天才でいるかどうか分からない」

 と感じていた。

 要するに、

「今の段階では、つかみどころのない生徒」

 ということであった。

 ただ、まだ小学生ということなので、成長の過程で、どこまで伸びるか分からない。この生徒も、無限の可能性をまだまだ持っているということで、様子を見るしかないと考えていたのである。

 そんな筒井少年は、性格的に、

「好きなものに対しては一生懸命になるが、そうでもないことに関しては、それほど関心はない」

 ということであった。

 しかし、それは、誰にでもいえることではないか。

 それなのに、

「何か物足りない」

 と先生に感じさせるということは、

「それだけ、算数に関しては、特化している」

 ということになるのだろう。

 小学生の時の担任も、どこか気持ち悪さを感じるくらいの生徒で、先生としても、どうしても、遠慮がちで接することになるというものだ。

 それこそ、

「腫れ物に触る」

 かのようで、それが、まわりにどのように映ったかということであるが、実際には、まわりの生徒にも、先生が感じたような、

「気持ち悪さ」

 というものがあるのは分かっているようだった。

 だから、いじめっ子も、むやみには手を出せないと思っていたに違いない。

 それが、いじめを受けなかった理由の一つと言えるのではないだろうか?

 ただ、先生も、

「算数の公式」

 というものには、興味を抱いていて、思い切って、その話を筒井少年にすると、案の定、包少年は乗ってきた。

 二人は放課後、教室の黒板を使って、算数の公式を書いて、話をしている。

 先生としても、

「そうか、そんな解き方もあるんだな」

 と思って聞いていた。

 先生は、大学まで卒業しているので、数学ももちろん、熟知している。だから、中学生になって数学の公式を習うと、

「これらの法則のようなものは、中学に入れば、これが公式だと教えられるだけなんだけどな」

 と感じていた。

 それこそ、

「小学生の頃の発見」

 というものが、どれほど無駄なことだったのかということを思い知らされることになり、人生最初の挫折を味わうことになると思うのだった。

 それを、かわいそうだと思ってもどうすることもできない。

「彼は今、算数の法則を見つけるということに躍起になり、その一つを見つけることで、達成感というものを感じているだろう」

 と感じるのだ。

 それを考えると、

「小学生時代というのは、本当に楽しい」

 と感じているかも知れないが、中学生に入って、挫折を味わうということになると、果たしてそのことに耐えることができるのかと考えると、小学生の教師として、中学にこのまま送り出していい者かと考えさせられる。

 だが、実際には、それは取り越し苦労だったといってもいいだろう。

 中学に入ってから、確かに、

「挫折」

 というものがあっただろう。

「俺があれだけ苦労して見つけた法則を、方程式などというもので、簡単に皆に教えるなんて、ありえない」

 という発想だった。

 だから、筒井も一時期、

「数学は嫌いだ」

 と思っていたのだ。

 数学というものを勉強するのが嫌になると、他の勉強に走るということもできないと思うようになった。

 特に、理科系の学問だと、

「数学の理屈が分からないと理解できない」

 という部分が少なからずにあるからだ。

 しかし、そのことが、彼を数学に興味を戻すことになった。

 別に、

「他の学問を知りたくて、数学をもう一度勉強しよう」

 と感じたわけではない。

 むしろ、理科系の学問に興味を持つことはなかった。

 本来であれば、理科系の教科に興味を持つことで、数学も付随して勉強しなければいけないということに気づくのだろうが、筒井少年は、算数を含めたところでの、数学全般から離れることはできなかったのだ。

 そう、筒井少年が、数学から離れられなかったのは、

「算数も数学の一部」

 と考えたからだ。

 それは、理屈から考えれば、

「当たり前のこと」

 なのであるが、小学校で算数しか習っていなかった人は、中学に上がると、自然と、

「次第に、学問の本質に近づき、難しいとことに入っていく」

 ということで、自分が大人になってくるということに気づくのであろう。

 それを考えると、

「算数を数学の一部」

 という考えができないのが、一般の生徒なのではないかと思えたのだ。

 しかし、筒井少年は違った。だから、数学を勉強するということを辞められなくなった。この時の感情があるから、数学という学問を完遂できたということになるのだろう。

 それが、

「博士号などの特殊な技能を持った人でしかなれない人物の頭の仲なのではないだろうか?」

 ということになるのだ。

 算数というものと、数学とが、実は同じものだという考えは、数学博士の中でも、

「二分した考え」

 ということだ。

 実際に、

「数学博士」

 と呼ばれている人の中には、

「数学と算数はまったく別の学問」

 と思っている人も多いという。

 しかし、それを言いだすと、へたをすれば、自分の地位や立場というものが危うくなるという考えから、そんなことを決して口にしないという人が多いことで、この考えはある意味封印されてきたといってもいいだろう。

 そんな数学を好きになった筒井少年は、最初の遅れを取り戻すくらいは、あっという間のことだった。

 成績も、最低ランクから、一気にトップクラスになり、数学の先生も、

「何が起こったんだ?」

 と感じながらも、

「ただ、興味を持ってくれたことは嬉しい」

 ということで、その時はまだ彼の可能性であったり、天才肌だということも分かっていなかったのである。

 中学時代は、それくらいで収まっていたが、高校入試の際で、

「筒井という生徒は、数学で満点を取った」

 として、入学時点で、教師から特別視されていた。

「うちの数学の試験は、他の学校の数学からみれば、相当難しい」

 と言われているということだった。

 合格ラインに満たないくらいの問題は、さほどではないのだが、合格するためには、

「難しいラインの問題を数問は解かなければ達しない」

 と言われていた。

 だから、

「数学で、及第点」

 ということであれば、その生徒は、

「数学的な天才肌」

 と言われていた。

 それを、

「まさか満点が出るなんて」

 というのは、教師全員の共通した驚きだった。

 そもそも、入学した高校は、

「数学では特化した学校」

 と言われていた。

 それほど、成績には、差があるといってもいいだろう。

 最低ラインの生徒は、本当にまったく分かっていない。

 しかし、及第点すれすれの生徒は、

「よく落ちこぼれずに追いついてきた」

 という人たちだ、

 そういう意味で、最低ランクの成績しか取れない生徒は、教師たちから、

「落ちこぼれ」

 というレッテルを貼られていた。

 もちろん、そんなことは一切口にしてはいけないのだが、雰囲気で分かるというもので、そのあからさまな視線に耐えられず、退学していった生徒も少なくはなかったのだ。

 そういう意味では、かなり厳しい学校ということで、

「理数系に特化した」

 ともいえるだろう。

 だから、

「理数系の大学に目指す」

 という生徒が八割くらいはいて、それこそ、

「末は博士か?」

 というような生徒を育てるのが、学校の使命だと考えていたようだ。

 そんな高校で、数学だけはトップクラス。

 さらには、

「数学を勉強していると、物理や化学の成績も上がってくる」

 ということである。

 逆にいえば、

「物理も化学も、数学を分かっていないと、できない科目だ」

 ということがいえ、結局は、

「数学ができないと、成績は自ずと下がってくる」

 ということになるのだ。

 数学のおかげで、物理や化学も成績が上がり、一気に、

「優秀な理数系の学生が集まる大学」

 というものが、ロックオンされた。

 実際に、いくつかの大学を、

「滑り止め」

 という形で受験するのは、他の生徒も同じだったが、筒井青年は、

「そのすべてに合格した」

 ということであった。

 筒井青年は、その実績を持って、優秀な学生の集まる大学に入学した。

 ただ、高校の進学指導の先生は、一抹の不安というものを抱いていた。

「彼はここでは天才だった」

 ということであるが、実際には、そのことが、彼をおごらせていたのかも知れない。

 そう感じると、

「大学はさらに、天才の集まるところ」

 ということなので、

「天才の中に混じるということで、自分の立場が明らかに変わるということを自覚できていないと、精神的に問題があれば、そこでまた挫折することになるかも知れない」

 ということだ。

 つまりは、

「高校では、完全トップだった人が、大学に入ると、その他大勢にならないとも限らない」

 ということである。

 同じようなレベルの人が精鋭ということで集まってくるのだから、それも当たり前ということであろう。

 しかし、人によっては、

「そんな中でもまれたりすることから、自分の神経が研ぎ澄まされる」

 ということで、さらに高みを目指すという人もいるだろう。

 筒井青年は、そんな生徒だったのだ。

 高校の教師の不安は、いい方に的中しなかったということである。

 実際にそこまでの域になってくれば、それこそ、

「あとは、博士への道を目指すのみ」

 ということであった。

 実際に、大学でも、

「天才」

 と言われていた。

 天才たちがたくさんいる中で、その彼らが認めるということは、

「本当の天才」

 ということであろう。

 博士と呼ばれる教授をたくさん輩出している学校なので、そんな教授たちからも、

「一目置かれる」

 ということであった。

 そんな筒井は、

「民間に就職することなんかない」

 ということで、

「研究者の道」

 というものを選び、大学院に進むのであった。

 もっとも、これは、

「高校時代から描いていた青写真」

 ということで、本人とすれば、

「意識はしているが、気持ちとしては、当たり前のこと」

 として、さほど強い意識はなかったのだ。

 他の学生が、大学院を選んだことを誇りに思う中、筒井は、

「別の意味での誇り」

 というものを持っていた。

 それが、

「筒井という男は、表に発散するオーラというものを、内面にも発散できるだけの能力を持っている」

 ということであった。

 この能力というものが、博士になるということにおいて、大切なことだということも、筒井には、分かり切っていたことだったのかも知れない。

 そんな筒井という男は、

「いつ博士になるか?」

 という周りの期待を背負っているということであった。

 大学院に進んだ筒井青年は、そこで、自分独自の研究を進めた。これは、他の人に話すことなく、自分独自に考えているものであった。そのことは大学側も認めていて、筒井先生の勉強を妨げることがないようにというお達しが出ていたくらいだ。

 元々、この大学院では、

「個人の自由な研究」

 ということにかけては、比較的自由だった。

 だから、筒井も大学院に残る決心をしたからだ。

 元々は、他の人と同じように、大学を卒業すれば、就職しようと思っていたのだ。

 そもそも、開発できればどこでもいいというのが、筒井の考え方ではあったが、その研究の内容にまでは、あまり言及はしていなかった。大学側にも、

「自由にやらせてくれれば」

 ということで、そんなに大きな望みはなかったのだ。

 他の理系でも、物理学や化学などほど、お金がかかるものではない。それが、数学というもので、だからといって、実際に人間の生活に直接的な影響がないというのも、数学というものであった。

 それを思えば、筒井のいう、

「研究ができればどこでもいい」

 という考えもまんざらでもなかっただろう。

 ただ、民間企業においても、特に、建築系であったり、ゼネコンのようなところは、数学というものを必要とするということで、筒井という人物に、興味を持つという大企業も少なくはなかったのだ。

 だから、大学3年生の頃から、筒井は注目されていた。実際に、大学に身元確認の依頼があったりということもあったくらいだ。それこそ、プロ野球などの、スカウト合戦さながらといってもいいだろう。

 もちろん、そのことは本人も分かっていた。本人に対しても、民間企業のスカウトがやってくることもあるからだ。こちらは、プロ野球などと違い、ドラフト会議などがあるわけではない、自由競争ということで、企業の方も、努力すれば何とかなるということで、躍起になっていたことだろう。

 そんな企業の誘いに対して、3年生の頃は、むしろ乗り気で聞いていた。それこそ、自分の能力を生かせるところということで、話を前のめりで聞いているくらいだったからだ。

 しかし、そのうちに、民間企業が自分に求めているものが何なのかということが分からなくなってきた。

 それが、次第に筒井を、民間企業から遠ざけるということにつながったのであった。民間企業の方も、いよいよ就活本番という頃になると、他の学生にもアプローチが必要になり、筒井ばかりにかまってはいられなくなった。

 そんなスカウトをみて、

「俺はどうでもいいのだろうか?」

 と思うようになり、それまでの民間熱というものが、次第に冷めていったのであった。

 実際には、そんなつもりはなくとも、スカウトの方も、なんとしてでも入ってほしいという思いから、かなり持ち上げるような話をして、本人をその気にさせようともくろんだはずだった。

 しかし、そんなことまで頭が回らなかった筒井は、民間に半分嫌気がさしてきたのだ。

 そもそも、民間企業への就活というのもほのめかしたのは、大学側だった。

 それなのに、ちょうど彼が、民間への興味が薄れたというような頃を見計らって、大学院を進めてきたのである。

 それを考えると、

「民間熱が冷めさせるように大学側が暗躍したのではないか?」

 とも考えられたのだ。

 実際に、それは半分は当たっているというもので、筒井が大学院への気持ちいが揺らいでいた時、この時とばかりに、大学側は、筒井にいろいろな好条件を示してきた。

「自由に研究ができる」

 ということが、研究員にとっての一番の望みということは分かっていて、それは筒井も同じだということを熟知していた。

 その思いは間違ってはおらず、そういう意味では筒井という男は、

「単純な男だ」

 といってもいいだろう。

 しかし、それは、ずっと勉強ばかりしてきたということでの、ある意味、頭でっかちの部分での、マイナス面ではないかということであった。

 大学院に進んだ彼の言い分を、大学側も、ドキドキしながら待っていたことだろう。

 確かに、単純な男だということは分かっていても、まったく無欲ということはないだろうということも感じていたからだ。

 しかし、大学側が想定していた範囲でしか条件を出さなかった筒井を見て、正直大学側は安心した。

「思ったよりも無欲な人だ」

 ということであるが、ただし、

「自分の研究の邪魔はされたくない」

 ということは、十分にあったのだ。

 これに関しては、他の誰にも負けないということで、それこそ逆に、

「学者肌だ」

 ということで、彼のプラス部分ではないかということであった。

 しかも、筒井という男は、実際に、マイナス面と見られるところがいくつもあり、それなのに、総合してみれば、そのマイナス面が見えてこないのだった。まるで、マイナス面は、その部分だけを見ないと見えてこないという感じであろう。

 つまりは、

「マイナス面というのは、その部分だけに集中すれば見えるのだが、全体で見ようとすると目立たない」

 ということであった。

 それは、

「見る角度によって、見えるものと見えないものがある」

 という、いわゆる、

「死角」

 という発想ではないかと考えられるということであった。

 その考えというものが、もう一つ言えるというのは、

「マイナスにマイナスを掛けると、プラスになる」

 ということである。

 これは、数学どころか、算数で習うことであり、それこそ、小学生の低学年でも分かることではないか」

 ということであった。

 そんな当たり前のことを、大学生ともなれば、あまり意識をしない。

 それこそ、

「石ころのような発想」

 といってもいいだろう。

 目の前に見えているはずのことであっても、意識されることはないという、

「石ころの理論」

 である。

 ただ、その石ころの理論というものに、挑戦しようとでもいうのか、敢えて、当たり前のことに注目しようとする考え方があった。

 それが、特に数学者の中では静かなブームになっているといってもいいのかも知れない。

 そして、それからまだ十数年が経ち、大学院に進んだ筒井は、いつも昼食に赴く喫茶店でウエイトレスをしていた女性を好きになり、相手と相思相愛だということが分かった時点で、さっそく結婚したのであった。

 それから、すぐに子供も生まれた。生まれた子供は女の子で、名前を「まどか」とつけられたのであった。

 そもそも、数学者である筒井とすれば、図形に造詣が深く、その中でも、円というものに興味を持っていた。

 そこで、

「円」

 と書いて、

「まどか」

 と読むこの名前を娘につけたのであった。

 もちろん、表記はひらがなということで、母親としても、

「かわいい名前ね」

 ということで気に入っていた。

 しかし、名前の由来に関しては、奥さんはもちろん、娘に対しても、しばらくは黙っておこうと思ったのだった。

 ある程度の年齢になって、意味が分かるようになってからいう方が効果があると思ったし、何よりも、子供が簡単に理解できるとは思えなかったということからであった。

 そんな筒井も、最近新たな研究を発表するという話が出て、その研究が実際に世間で評価されれば、

「いよいよ博士号獲得か?」

 という話になったのだ。


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