第11話

その夜の風は、夏にも関わらずどこか冷たさを含んでいた。清園寺家の道場そばの木々が落ち着かないように葉をざわめかせている。琴子は扉の前でその木々を眺め、思い切って扉を開けた。


「待ってたよ」

そこには、着物姿の颯がいた。

わかってはいても、琴子の胸はどきどきと反応する。昨日気を失ってから目が覚め、泣き出した後のことが頭をよぎる。





「えぇっ、泣いちゃうのかぁ」

颯のさわやかな香りが近づく。よく聞くと、あの聴きなれた声。

「なにか、飲む?お茶・・・・・・緑茶?ほうじ茶?紅茶?何が好き?」

声が、出せない。

「緑茶でいい?」

琴子は必死でうなずいた。

「オーケー」

颯は手慣れた手つきで緑茶を淹れた。

温かい緑茶が琴子の身体を落ち着かせた。

「まぁ、あれだよね。突然の結婚だし、推しもこんなだし、ショックだよね。明日から仕事だし、まぁ、ゆっくりしよう。」

優しい響きがした。

苦手だった颯の前で、琴子は少しだけ、胸の奥の固い結び目がほどけるような気がしたのだった。






そして今。

昨日と同じように優しい瞳で笑う颯が目の前にいる。


「き、昨日は、ありがとうございました。」

颯は少し目を見開いて、にっこりと笑った。

「どういたしまして、俺の大事な奥様♡」

琴子の心臓が跳び上がった。頬が椿の花のように赤く美しく染まる。



「あらぁ~!ちょーイケメーン!!」

2人の間に大きな声が割って入る。結がやってきた。

「結ちゃん!?」

「呼ばれてないのにじゃじゃじゃじゃーん!じゃないんだけどね、一応監督役。」

結は品定めするように颯を見回し、

「いーなぁ、琴子。冴えない顔してるからどんな奴かと思ってたけど、めちゃくちゃいい男じゃない。私が変わりたいわぁ。」

「あなたが、清園寺結さん?お義父さんから話は聞いています。私は清園寺颯です。よろしく。」


清園寺颯、と聞いて、琴子の胸のあたりが引っ張られるかんじがした。

一方、結はにやりと笑って腕を組んだ。


「うんうん、礼儀正しいし顔も最高。合格ッ!……さ、ここからが本番よ。」


「……本番?」

琴子が首をかしげる。


「契約結婚って言っても、祓師の家同士の婚姻、しかも本家と新興でありながら一番勢いのある祓師一族の婚姻なんだから、ただ夫婦ごっこしてるわけにはいかないの。お二人さん、さっさと修行開始~!」

颯は落ち着いた声で応じた。

「ええ、そうですね。清園寺家の血を受け継ぐ者として、琴子さんは結界整術と祓法の即時習得が必須かと。」

結が片眉を跳ね上げ、楽しそうに笑った。

「そうそう!話が早いわねぇ。じゃあまずは基本中の基本、結界整術から。」

「私はもうできますよ。」

颯は、結が博物館でしたのとまるで同じように懐から折り畳んだ札を取り出し、片手で空気を払った。

次の瞬間、空気がピンと張り詰めた。

「あっ……!」

琴子は思わず息を呑んだ。

目の前に広がったのは、確かに結界。

明らかに「内側」が形成されたのがわかった。

「これが……」

琴子の声が震える。

博物館で結が見せたのとは少し違うようだったが、確かに同質のものだと肌で感じた。

結はぱちぱちと手を叩き、満足げに笑った。

「さすがは真神家の王子さま♡文句なしの完全結界!……さて、問題はコトコの方よねぇ」

「あ……」

琴子が慌てて身を引く。

「できなきゃ話にならないわよ」

結は琴子の両肩をつかみ、正面から覗き込む。近くで見ると息をのむほど綺麗な顔立ち。昔から、周囲の人が振り返る美貌を持っていた。

「いい?コツは世界をまるっと抱きしめる気持ち。清心流で習った最初の動作、構えからの開始の動きよ。空間を結界として整えるの。」

「これは君の持ち物だよ。」

と颯が朱色の巾着袋を琴子へ渡した。


琴子の母親から預かったものだった。中には札が数枚と鈴と清銅鏡。

琴子はごくりと唾を飲んだ。

「札を一枚取って」

颯に言われるがまま、札を取り出した。


手のひらにじっと意識を込め、父と稽古したあの型を思い出す。

いや、そういえば、もう忘れてしまっていたが、この最初の型だけは母から習ったのだった。

――深呼吸、半歩前へ。

掌を払うように、すっと前に突き出した。

だが、空気が震える気配は……ない。

「やっぱり……無理、かも」

琴子が斜め下の空を見つめる。

颯が一歩近づいた。

「大丈夫だよ。今の形は悪くない。……俺が少し補助する。」

そう言って、彼は琴子の両手に自分の手を重ねた。 熱が伝わってくる。驚きでどきどきと打つ心臓が、まるで耳の中で音をだしている鐘ようだった。

琴子の息が止まる。

「落ち着いて。息を止めたらだめだ。呼吸は最も大事なもの。さぁ、俺の呼吸に合わせて――」

颯の声に導かれ、琴子は再び掌を突き出す。

――瞬間、結界が結ばれた。

「……できた……?」

返事がなくとも琴子は感じていた。

自分の周囲に結界が、張られた。

「できたね!」

颯は微笑んだ。

「きゃーーッ!出ました、初々しい共同作業ッ!」

結が大げさに叫んで、二人の間に飛び込んだ。琴子の眼鏡がずれる。

「はいはい、結界整術第一段階クリア!おめでとーございまーす♡」

大げさに騒ぎ立てる結も、内心では琴子の習得の早さには驚いていた。

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