第9話
その日は仕事にならなかった。琴子はどこか上の空で、展示物のガラスケースにうっすら残った指紋も気にならない様子だった。
「あれぇ、なんかコトコ、元気ない?」
同僚の結が声をかけてきた。
いつもおしゃべり好きで職場の空気を和ませるタイプの彼、いや彼女は、琴子の変化をすぐに見抜いた。
「え? あ、うん……。なんか、ちょっと家のことで色々あって」
「へぇ~、コトコが家のことで色々、って、珍しいわね。気になるぅ~」
結が長身の身体を傾けて琴子の顔を覗き込む。琴子は口ごもった。
「……あ、そういえば……。私、結婚したのに、苗字が変わってないんだった」
「――はぁ!? 」
結のどすの効いた大声に、近くの職員たちが一斉に振り返った。
結は小さな声の中ながらも鋭く琴子に詰め寄った。
「けっっこん!? しかもさせられたって何それ!?」
琴子は自分の足元をじっとみながらまた涙がこみあげてくるのを感じた。
「ちょっと、裏に行くよ!」
結に腕を引かれ、琴子はバックヤードに連れ込まれた。
蛍光灯の下、積まれた段ボールと棚が並ぶだけの無機質な空間。展示室の静謐さとは違い、どこか湿った空気が漂う。
「……ここなら大丈夫ね」
結は低く呟くと、懐から折り畳んだ札を取り出し、片手で空気を払った。……ように琴子には見えた。薄い膜が空間に張られたように、周囲のざわめきがすっと消え蛍光灯が一瞬じーと音を立て暗くなったようだった。
「えっ……今の、なに?」
琴子が驚いて問いかける。結は唇に指を当てて「しー」と笑った。
「ただの職員用の秘密兵器よ。――あんたも、すぐに覚えることになるわ。」
結の顔が琴子の顔に触れそうなほど近づいてくる。
「さぁ聞かせてちょうだい。」
結は琴子の言葉を待った。
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