三章:火のないところに煙は立たぬ

『ずっと既読無視しててごめん。始業式の放課後、部活が始まる前に話しがしたい』

『わかった。体育館に来て』

 花火大会の次の日、私は凛に連絡し、二学期の始業式の放課後に会う約束をしていた。夏休みは部活で忙しいだろうし、わざわざ呼び出すのも申し訳なくてこの日にした。

 正直、無視されても仕方がないと思っていた。私がしてきたように、むしろ報いを受けるべきだったのかもしれない。それでも受け入れてくれた凜には感謝しかなかった。

 後何週間も先だと思っていたけど、夏期講習やバイトをこなしていくうちに気づけば夏休みは明けていた。眠たくなる始業式やホームルームを終え、私は体育館へと向かう。体育の授業で使っているはずなのに、懐かしく感じてしまうのはどうしてだろう。ワックスの匂いが、ボールの跳ねる音やシューズとコートの摩擦音を想起させる。

 でもそれは記憶中ではなく、実際に体育館から響いていた。高い打点のフェイダウェイは、きれいに弧を描きリングに吸い込まれていく。

「ナイッシュー」

 掛け声を上げると、シュートした当人が振り返る。ボールキャッチし、汗を拭いながら駆け足でこっちまで来た。

「ごめん、お待たせ」

「ううん、こっちこそごめん。誰もいない場所がここくらいしか思いつかなくて。みんな今はお昼食べてるから」

「え、凛は食べなくて良いの?」

「後で食べるよ。部活までけっこう時間あるから」

 そう言って彼女はボールを床に置き、そこに座った。部活中にこんなことをしたら怒られるけど、今は二人きりだから問題ない。私はその隣で体育座りになる。さっきまで響いていたボールの音がないからか、嘘みたいに静かになった。蝉の鳴き声がやけに耳に残る。

 夏休みの間、どんな話をしようか悩んで決めてきた。そのはずなのに、今は頭が真っ白。何か喋らなければいけないと焦りつつ、一向に言葉が出てくれない。凛も口を閉ざしたまま、じっと待っていた。呼び出したくせに黙っているなんて、いったい何しに来たのかと思われているに違いない。

 今の私なら、もう大丈夫。そう思っていたのは勘違いでしかなかったのかもしれない。そう諦めかけた時、彼女は突然立ち上がり、ボールを起こしてドリブルをする。スリーポイントラインの手前で立ち止まり、ゴールの方を向く。そしてこっちを見たかと思えば、くいっと挑発するように手招きをした。

「1on1、しよ」

「いや、私はもうバスケは――」

「良いから。早くしないとシュート打っちゃうよ?」

 にやりと笑う彼女に、私はため息を吐きつつ上履きの紐をきつく締める。コートに立つと、懐かしさに胸の辺りがかゆくなる。

「先行で良いよ」

 ボール渡され、凛はゴールを背に立ちはだかる。ただでさえ手足が長くやっかいだったのに、今では妙に威圧感があった。筋肉量なのか、技術的なことなのか。分からないけど、たった数か月で別人になっていた。それに比べて私はブランクがあり、体の一部だったボールも他人のように感じて、思わず足がすくみそうになる。

 それでも、私はドリブルをしかけた。ファンブルしそうになりながらも、当時使っていたフェイントをかける。だから余計、ずっと一緒に練習をしていた凜には読まれていてあっさりスティールされてしまう。

 逆に凜の加速力やテクニックに翻弄され、あっさりドリブルで抜かれ点を取られてしまう。おまけにさっき見せられた同じ形でフェイダウェイを決められ、さながら調整相手にされているよう。悔しいけど、それでも全く歯が立たず、ドリブルで抜けないからと苦し紛れに打ったスリーポイントシュートは、彼女の長身によりあっさりブロックされる。そしてお返しとばかりにあっさりスリーポイントを決められ、私は大の字でコートに倒れた。

 だめだ、もう動けない。朝に走っているとはいえ、ゲームの体力とは全くの別物だと思い知らされる。

 フィジカルやテクニックがあって、おまけにスリーまであるとか反則。知らぬうちに、凜は化け物へと変貌していた。

 息を切らしていつまでも起きられずにいると、凜も隣に寝転がる。といっても疲れている様子はなく、良いアップをしたといった様子。

「凛って、こんな煽るようなプレーしてたっけ」

「ううん、これは仕返しだから」

「やっぱり、怒ってるよね」

「怒ってる。何も言わずに辞めたことも、無視したことも」

 さっきまでのおどけた雰囲気はなく、芯のある声色。分かっていたことだけど、再認識させられ、このまま黙って逃げ出してしまいたくなる。だけどそれでは勇気を振り絞った意味がない。大きく息を吐き出し、疲労した体に鞭を打って起き上がる。

「嫉妬してたんだ。練習すればするほど上手くなっていく凛や、部員のみんなと比較して。どうしてこんなに練習してるのに置いてかれるんだろうって。そのせいで、糸が切れるみたいにやる気がなくなって、逃げ出したくなったの」

 しっかりと凛の方へ座り直し、ずっと反芻してきた言葉を告げる。すると彼女も体を起こし、ボールを抱きかかえながらこっちを向く。

「焦りは感じてたけど、そこまで追い詰められてるとは思ってなかった。ごめん、全然気づけなくて」

「気づかなくて当たり前だよ、言ってなかったんだから」

「それでも、私は気づきたかった。私が耀の一番近くにいると思ってたから」

 力強い眼差しを向けられ、私は口を噤んでしまう。すると凛は隣まで来て、肩が触れるくらいの距離になる。

「もう、バスケ部に戻ってくることはない?」

「うん、ないと思う」

 即答してしまったことに自分自身で驚いてしまうも、彼女は表情一つ変えない。

「バスケやってみて楽しくなかった?」

 すぐさま首を横に振る。

「楽しかったよ。ボコボコにされてても、ボールに触れてプレーしてるだけで。それでも、やっぱり戻りたいとは思えなかった。闘う気持ちが湧かなかった。だからもう、私のバスケ人生は終わったんだよ」

 勝負をしているのだから悔しい気持ちもあったけど、凛だから仕様がない、という諦めが何より勝っていた。だから楽しめていたし、今とても心地が良い。そのおかげか言い聞かせるよりも、しっかりと形になって気持ちの整理がついた。

 だからといって、凜が納得してくれるとは限らない。綾瀬の時のように怒られたり、呆れられたりするのかな。

 そう思っていたけど、彼女は二つほど頷き、にっと口角を上げた。

「わかった、話してくれてありがと」

「え、それだけ?」

 つい聞き返してしまうと、「うん」と肯定されてしまう。拍子抜けし、つい天井を仰いでしまった。

「文句言われるかと思った」

「文句なんてないよ。もちろん、もっと一緒にバスケはしたかったけど、ちゃんとやめるっていう決断をした耀に、これ以上何も言えないから」

 自分の気持ちを押し込み、私のことを尊重してくれる彼女。思わず、彼女の肩に寄りかかっていた。精神が大人で、こういうところがプレー面でも差をつけられていたのかな、と今さらのように考えてしまった。

「でもね、本当は怖かった」

 私は固まってしまう。さっきまでのハキハキとした声ではなく、体育館を吹くそよ風のような囁き声。

「耀にとって嫌なことをして、私、嫌われたのかなって。もしそうだったら、正直耐えられなかった。もちろん一緒にバスケしたいけど、何より耀と友達じゃなくなって、もう話せなくなる方が辛かったもん」

 肩越しで微かに震え、見上げれば、唇を噛みしめながら頬に涙を伝わせていた。

「ごめん、嫌いになったとか、全然そんなんじゃなくて、逃げ出した私がただ気まずくなってただけで」

「よかった、嫌われてなくて」

「ごめん、本当にごめん」

 とっさに抱きしめるも、彼女の嗚咽は止まってくれない。それでも、私はひたすら抱きしめて「ごめん」と声をかけることしかできなかった。

 最低だ。自分のことでいっぱいいっぱいになって、凛の気持ちを全く考えられていなかった。きっと私も同じように思うだろうし、傷つかないわけがないのに。

 どうして私は平気でいられたんだろう。精神状態がそれどころじゃなかったり、彼女に対しての劣等感だったり、要因は色々あるのかもしれないけど。それとも、私がただ薄情なだけ? 分からないけど、本当に最低だ。

 つられて涙が出て、悟られないように目元を拭う。それなのに、なぜか口元が緩んでしまう。申し訳なさでいっぱいなのに、こんなにも思ってくれていたことが嬉しくなってしまって、もうぐちゃぐちゃ。そして私がこんなにも自己中な人間なんだなと思い知らされた。

 次第に嗚咽が収まり、体を離そうとする。でも彼女は私の制服を引っ張り、私を見上げる。凛の上目遣いを新鮮に感じながらも首を傾げると、目元を拭いながらも真っ直ぐな眼差しで私を捉えた。

「また、放課後一緒に遊びに行こ。部活があるから、たまにになっちゃうけど」

「うん、私もそうしたいと思ってた」

「あと、お昼も二学期からは一緒に食べよ」

「うん……あ、でも毎回はできないかも」

「それは私も部活のみんなと一緒に食べるから大丈夫だけど、他の友達と約束してるとか?」

「いや、友達というわけではないんだけど……」

 首を傾げる彼女に、私はつい視線をそらしてしまう。他の人と一緒にはいるけど、蓮を友達と言って良いのか迷ってしまった。すると彼女は反対方向にまた首を倒す。

「もしかして、彼氏?」

「え、いや、その、彼氏ではないよ、全然」

 すぐさま左右に手を振ると、彼女はニヤリと口角を上げた。

「ふーん、なるほどね」

「なんでにやにやしてんの」

 そう文句を言うけど、凛は表情を変えずこっちの顔を覗いてくる。

「だって、その人のこと好きなんだろうなって」

「いやだから、そういうのじゃなくて」

「何となくだけど、私も遼くんを好きになった時と同じ気がする。友達とか、そういう括りにしたくない気持ち」

 否定しても言い返され、私は口を噤んでしまう。友達相手にそういう恋愛感情を認めてしまうのは恥ずかしいけど、彼女の言い分は的を獲ていると思ってしまったから。それでもやっぱり言葉にして認めることはできなくて、沈黙という形で肯定するしかなかった。

「で、誰なの?」

 食い気味に聞かれ、後ずさりしてしまう。やっぱりそうなるよね、と思いつつ、目をそらしながら黙秘を貫こうとするも、バスケをしている時並みの圧をかけてくる。

「灰崎蓮」

 浅く息を吐き、観念して名前を告げる。案の定、凜は何度も瞬きをしながら硬直してしまった。

「え、なんで? どういう繋がり?」

 真顔で詰め寄って来て、おまけに長い手足で覆いかぶさってくるから少し怖い。私はとっさに彼女の体を押し返し、飛び跳ねるように立ち上がった。

「えっと、今度話すよ。そろそろお昼食べなきゃでしょ?」

 ぽんぽんっと肩を叩いて言うと、彼女は不満そうに唇を尖らせながらも首を縦に振ってくれた。

「今度聞かせてね」

「うん。じゃあまたね」

「うん、またね」

 手を振りながら、前みたいに笑顔で別れる。むわっとした体育館から出た途端に風に吹かれる。熱いけど爽やかで、大きく伸びをして下駄箱へと向かった。グラウンドではサッカー部が練習をしていて、ボールの跳ねる音や掛け声が響く。炎天下にも負けない活気に当てられ、自然と口角が上がっていた。

 あの熱気に触れることは今後もうないのかもしれない。凛と私の間にははっきりと境界線があって、もう同じような関係には戻れないのだろう。

 放課後や昼休みに合う約束をしていて、間違いなく友達ではある。けど仲間ではなくて、あくまで友達。切磋琢磨するあの空間が生まれることはない。もしかしたら他に一緒に過ごす友達ができて、会う約束さえ口約束になり、もっと距離はできてしまう可能性もある。

 でもそれは駄目なことではなく、仲直りした今となっては、前に進んでいるということなのかもしれない。それぞれがやりたいことに向かって仲間とコミュニケーションを取り、研鑽する時間の方が大事に決まっている。

 かつての、私と凛のように。

 それでも凛とはずっと友達でいたいと思う。自分の都合で無視してしまうような私だけど、彼女はいつまでも私のことを気にかけてくれていた。単純に彼女が優しいということもあるけど、それだけ私を大事に思ってくれている証。当たり前だけど私も凜が大事で、いつか彼女が落ち込んだりくじけそうになったり、助けが必要になった時には手を差し伸べたい。

 それが、ずっと待ってくれていた彼女にできる恩返しだと思うから。

 渡り廊下を抜けると、バスケットボールの刺繍が入ったスポーツバッグの集団が目に入る。これから練習なのか、すでに練習着に着替えていた。

 いつもみたいに、このまま通りすぎることもできた。でも私は一度足を止め、振り返る。震える手足に目一杯の力をこめ、彼女たちの下へと駆け出した。

 凛だけじゃない。

 何も言わずに逃げ出した私には、彼女たちとも話しをする必要がある。レギュラーでもない私が辞めたことなんか、今さらどうだって良いのかもしれない。そもそも部活なんて、やるかやらないかは個人の自由。

 けどこれは、けじめで、自己満足だった。

 わだかまりを曇りなく晴らし、ちゃんと前を向いて進むための。



 昼休みを告げるチャイム。それと同時に張り詰めた空気が解き放たれるように、周囲は一斉に動き出すけど、私だけが深く息を吐き出し、一呼吸置いてから勢いよく立ち上がった。

 いつも通り空き教室に向かう。それなのに動悸が早く、心なしか歩調もゆっくりになっている気がした。嫌とかではない。ただ、緊張してしまうだけ。

 蓮とはあの花火大会以来、一度も会っていない。誘えば会えたのかもしれないけど、とてもではないけど恥ずかしくてできなかった。あんなに泣いて、抱きしめられて、恋を自覚して。

 無理だった。勇気を出して連絡しようとしても、メッセージを打っては消してを繰り返すばかりで、会うどころか連絡一つすることも。

 あの後は駅まで送ってくれたけど終始無言。もちろん気まずさもあったけど、何より、どうやって話かけて良いか分からなかった。蓮も気を使ってくれたのか、最低限のことしか話してはこなかった。

 そんな状態で、空き教室で蓮と会う。しばらく距離を置く、という選択肢は私の中にはなかった。うじうじしていたけど、やっぱり会えるなら会いたい。友達に会いたいとは全く違う、蒸気するような胸の高鳴り。

 空き教室の前まで着き、そっと窓から覗く。けど誰もいなくて、私はほっと一息吐いてしまう。会いたいくせに、一目見たら戻ろうかなと情けないことも考えてはいた。今日は来ないのかな、と完全に油断していたところ、誰かに肩を叩かれる。とっさに振り向くと、蓮が怪訝そうな目でこっちを見ていた。

「何してんの?」

「いや、誰もいないか確認してただけだよ、念のため」

 苦し紛れの言葉に乾いた笑みになってしまい、ふっと鼻で笑われる。

「来ないだろ、こんなところ誰も」

「分かんないよ? 二学期になってクラスで急に気まずくなって、偶然ここに逃げ込んでくるかもしれないし」

「まあ、どこかの誰かさんみたいにな」

「うるさい」

 ぽんっと頭に手を乗せながら言われ、私はそれを払い退ける。すると彼はにやりと口角を上げて教室に入り、私も続いて窓をよじ登った。いじられたことに少しイラっとしながらも、案外軽口を叩けていることに驚く。会話もままならない状況になってもおかしくないと思っていたから、はっきり言って安心してしまった。

 でもそれと同時に、心がどんより曇っていくのを感じる。私はあの日から蓮のことをずっと考えてしまって、彼の温もりや匂いを思い出し、その度に胸が張り裂けそうになっているのに。

 あの出来事は、蓮にはどうってことないんだって。

 彼との距離を今、改めて思い知らされた。

 そうやってチラチラと横目で見てしまっている間、彼は呑気に煙草を咥えている。白に近い灰色の煙が綿あめみたいに浮かび、相反したビリっと刺激のある臭いが微かにした。けっして慣れはしない、好きじゃない香り。花火大会の日に包まれた柔軟剤の匂いの方が好きで、今でもあの胸に飛び込んでしまいたいと思うくらい。

 それなのに、この匂いにも落ち着いてしまうのはどうしてなんだろう。

 すると彼の視線がこっちを向く。いつの間にかじっと見てしまったよう。

「わり、そっちまで臭った?」

「ううん、大丈夫」

 そう言って、煙草を窓の方にもっと近づける。言葉だけではなく行動でも気づかってはくれるのに、煙草を吸うのはやめない。ふと優しくて、時には意地悪で、やっぱり優しい人。

 もっと優しい人は世の中にたくさんいるはず。それなのに、どうして彼を好きになってしまったんだろう。

 そうやって何度も何度も彼へ想いを馳せ、押し寄せるように恋で心がいっぱいになる。

 今だって、ただ窓の外を眺めているだけなのに、横顔かっこいいなって惚れ惚れしてしまう。

 この想いをどこかに発散できないだろうか。いけない彼を誰にも話すことができない状態が、溺れるように苦しかった。

「なあ、耀」

「え、なに?」

「本、逆さまだけど」

 指を差して指摘され、私は慌てて本をひっくり返す。苦笑いをして誤魔化そうとするも、彼は煙草を携帯灰皿に捨ててから、私の近くまで椅子を持ってきて座り、頬杖をついて首を傾げる。

「何か悩み事でもあんの?」

「いや、そういうわけじゃないけど」

 ごにょごにょと言葉尻が弱くなってしまう。いかにも怪しいのに、彼はそれ以上問うことはなく「まあいっか」と零す。

「なんかあったら話せよ。話くらいなら俺でも聞けるし」

「うん、ありがと」

「ま、ため込んで前みたいに泣きつかれても大変だしな」

「うるさい、もう忘れてよ」

「気が向いたらな」

 ニヤリと小馬鹿にするように笑い、私は軽く睨みつける。でも内心では場を和ませてくれていることは分かっていた。きっと悩みを相談しても、今みたいにからかわず真剣に聞いてくれるんだろう。

「悩みではないんだけど、昨日凛と会って仲直りしてきた」

「そっか。よかったな」

「うん。それでね、たまに昼休み一緒にご飯食べようってなったから、これからここに来ない日があるかも」

「良いじゃん。てか、何ならここも避難場所みたいな感じだし、気にすんなよ」

「それは、そうだけど」

 笑みを浮かべそう言ってくれたのに、私は俯き手元をじっと見つめる。凛とのことを喜んでくれるのは嬉しい。でも、会える時間が少なくなるのは嫌で、蓮もそうであってほしいと望んでしまっていた。

「何、俺に会えなくて寂しい?」

「……そんなんじゃない」

 勝手に期待して、勝手に落ち込んでいる。素直に寂しいって言えば可愛げがあるのに、自己満足を押し付けることが嫌でぶっきらぼうになってしまった。

「蓮が寂しいだけなんじゃないの?」

「まあ多少は、な」

 そんなわけないだろ。そうやって言い返してくると思ったのに、不意打ちみたいに認めてくる。こてんと首を傾げて微笑んでいて、可愛いなって不覚にも思い、すぐに顔をそらしてしまった。

「あと、文芸部に仮入部することになった」

「文芸部? それって何すんの?」

「読書したり、本について話したり、執筆したりとかかな」

「おーいいじゃん。てことはさ、耀も小説書くの?」

 やや前のめりになって聞かれ、私は「まあ試しに」と頬をかきながら答える。すると蓮はニヤリと唇の端を上げた。

「気が向いたら読んでやるよ」

「え、やだよ、恥ずかしいし。それに蓮は小説好きじゃないでしょ?」

「それでも、耀の書いたやつなら興味あるよ」

 小説一冊すらも読めなかったのに、そんなこと言ってくる。本当かな、と疑いたくなるところだけど、どうしてか信じてしまいたくなる。

「……気が向いたらね」

 それでも悪あがきで、私はそっぽを向いて小説に視線を向けた。目じりを柔らかく曲げ、蓮はまた私の頭を撫でる。私の全てを知っているみたいに、心地よく触れる手に意識を落としつつ、ふと気になったことを聞いてみる。

「蓮って、よく頭撫でてくるよね」

「そうか?」

「そうだよ」

 無意識だったことにびっくりし、つい間髪入れず言い返してしまう。すると彼は視線を上げ、窓の外の晴天を見据えた。

「まあ、名残りみたいなもんかな」

 ふっと柔らかく口角を上げる。でもそれは微笑みと呼ぶにはどんよりと薄暗く、灰色に見えてしまった。

 いつも飄々としているけど、たまに暗い顔をする。でもそれは勝手に私がそう感じているだけで、直接悩みや事情を聞いたわけでもなく、全く持って気のせいなのかもしれない。

 思えば、私は彼のことを何も知らない。私だけが彼に助けてもらって、私からは何一つ与えられていない。

 恋愛感情以前に、頼りにされていないんだと思う。

 恩返し、とまでは言わないけど、好きだからこそ信頼されるような存在になりたい。

 そのためにも前に進もう。

 彼の横顔を見ながら、そう心に誓った。



 微かに鼻を抜けるインクの香り。

 よく部室で使われている机にパイプ椅子。そこにびっしり詰まった本棚が加えられるだけで、ここが文芸部だと納得させられる。

 仮入部期間を終え、晴れて文芸部に入部した私は放課後、部の集まりに参加していた。というのも学園祭が迫ってきていて、文芸部も活動として展示をする必要があり、そのための会議だった。

 といっても展示内容はほとんど決まっていて、昨年と同じように各々の執筆作品を展示するというものだった。だから学園祭までに部全体として準備するものは少なく、どちらかというと作品のための個人作業が大変らしい。といっても私は入部したてで、作品を出すのは難しいだろうということで免除してもらっている。その分、他の準備をしっかりやろうと意気込んでいた。

 活動は週二回で、部員は私含めて六人。それぞれの学年に二人いる状態だった。いつもの活動であれば作品について話したり、読書をしていたりと緩めなんだけど、期限も迫っていることもあって私以外みんな作業し、少し空気が張り詰めていた。私は邪魔をしないよう大人しく読書をしていると、とんとんっと肩を叩かれる。

「飲み物買いに自販機いかない?」

 同じ二年生の男子、柳原愁くんから囁くように声をかけられ、私は首を縦に振る。部室を出ると、彼は申し訳なさそうに頭を下げる。

「ごめんね、入部したばかりなのにこんな感じで」

「全然大丈夫だよ。それに文芸部って感じがして、私的には楽しんでるから」

「そっか、それならよかった。あんな殺伐としてて居づらくないか気になってたから」

 彼はほっとしたように息を吐き、にこやかに歯を見せて笑った。

「愁くんは優しいね」

「いや、これでも一応部長だから気にかけないとね」

 くいっと眼鏡の位置を直してこっちを向き、目を山なりに細める。目じりの皺が彼の明るさを上乗せし、爽やかな笑顔だなって思わされた。

 黒縁の眼鏡に短く切りそろえられた髪、そして指定通りにかっちりと着こなす制服。いかにも真面目そうな雰囲気を漂わせる中、彼の屈託のない笑みが眩しく、伝染するようにこっちまで明るくさせられる。

 まさしく、好青年と呼ぶにふさわしい男子だった。

 ちなみに私が彼を愁くんと名前呼びなのは、柳原は長いからという理由だった。実際、部員みんなで彼を名前で呼んでいる。最初はやはり気恥ずかしかったけど、彼の親しみやすい空気感のおかげか、自然と馴染んでいった。

「そういえば、何で愁くんが部長なの? 先輩たちじゃなくて」

「実は先輩から押し付けられたからなんだよね。大勢の前に出たり、他の部長たちと話したりするのが無理だからって」

 困ったように後頭部をかきながら言われ、なるほど、とつい声が漏れてしまう。納得してしまうのは少し失礼かもしれないけど、たしかに先輩たちは物静かな方々で、初日なんて挨拶以外ほとんど言葉を交わしていなかった。それでも質問した時は丁寧に教えてくれて、良い人たちだということは間違いないんだろう。

 でも、それはそれで先輩としての威厳はどうなるのだろう。そんな風に考え、微妙な表情が出てしまっていたのか、彼は言葉を付け足す。

「先輩たち、実は短編とかで色々と賞を取ってるんだよ」

「え、すごいね」

「そう、すごいんだよ。先輩たちの執筆に対する努力を尊敬しているし、だからある意味、適材適所で良いのかなって僕は思ってるんだ」

 微笑みながら言う彼に、私は感心せずにはいられなかった。二年生で部長をしているからといって調子に乗ることなく、むしろ尊敬の念を見せ、同い年ながらこんなできた高校生がいるのだろうかと。

「じゃあ、今回書いたものも賞に応募するのかな?」

「うん、絶対するだろうね」

「そっか、すごいなぁ」

 遠くを見ながら、感嘆の声が漏れる。一文字も執筆したことがない私からすれば、先輩たちは雲の上の存在に近いから。だけど、愁くんは違った。

「まあ、だからって僕も負けてられないけどね」

 はにかんでいるけど、その眼差しは真っ直ぐで、見覚えのある表情。

 そうだ、凛と一緒なんだ。

 にこやかな笑顔とは打って変わった表情に、私はしばし目を奪われてしまった。彼もこんな顔つきをするんだと。

 まだ入部したばかりだからと、私だけが作品を出さない。それはある意味当然のことで、何も違和感なんてない。

 でも、本当にそれで良いのかな。

 新たにやってみたいことを見つけたのに、そんな逃げ腰で。

「やっぱり、私も作品出すよ」

 深く息を吐き、立ち止まって言葉にする。愁くんは振り返り、目を丸くした。でもすぐに笑みを零し、大きく一度頷いた。

「それなら一緒に頑張ろう。僕も力になるから」

 そう言ってくれて心強いなと思い、私も笑顔になって頷いていた。物語を紡いだことがないから、本当に作品が完成するかは正直分からない。形にはなっても、出来栄えは話にもならないかもしれない。

 それでも、不思議と愁くんが力になってくれるなら大丈夫な気がしてくる。たった数日しか関わっていないのに不思議とそう思えるのは、部長だからなのか、関係なく愁くんだからなのか、分からないけど。

 全く正反対なのに、どことなく蓮と似ているような、そんな気がしてしまった。



 壁画や絵画のような内装に、ゆったりとした外国語のBGM。どこかイタリアっぽい空間で、若者や家族連れの談笑で溢れていた。名前を書いて数十分待ってから席へと案内され、私はスクールバッグを、凛は大きなスポーツバッグをソファー席に置いて座った。

「2101と5101で」

「いつものやつね」

 メニュー表も見ずに言われ、かくいう私もそれが何なのか分かってしまう。私は2203と5101を入れた。特には決めていないけど、私がスマホでQRコードを読み込み、注文を済ませるのがいつもの流れだった。代わりに凜が二人分のオレンジジュースを持ってきてくれる。氷でキンキンに冷えていて、残暑で火照った体が冷まされホッと一息ついてしまった。

 凛が朝練のみで午後の部活がオフ、私もちょうど部活やバイトがなかったこともあり、放課後に遊ぼうということになった。久しぶりだから変に緊張してしまわないか心配だったけど、杞憂だったようで移動中も会話が尽きず、ファミレスに来た時の阿吽の呼吸も忘れていなかった。

「で、灰崎蓮とはどんな関係なの?」

 唐突に聞かれ思わずジュースを吹き出しそうになる。「いやぁ」と誤魔化そうとするも、彼女がじいっと見てくるものだから、観念して蓮とのことを説明した。その間に注文した料理が届いたけどそっちのけで話し終えると、彼女はうーんと唸りながら眉間に皺を寄せていた。

「あながち噂通りの人ってわけではないんだね」

「そうだね。まあ、チャラかったり不真面目なところはその通りだけど」

「……ちなみに、好きってことで良いんだよね?」

 恐る恐ると言ったように聞かれ、私は頬をかきながら頷く。おぉ、となぜか拍手され、恥ずかしくてやめるよう制する。その反応を見てか、凛はここぞとばかりにニヤニヤと笑みを浮かべた。

「聞いてる限り、意外と良い感じなんじゃないかなって思うけど」

「それはないよ。ちんちくりん扱いされるし」

「好きな子をからかっちゃう的な、そんな感じじゃないの?」

「ない、絶対ない。女子として見られたことなんて……」

 そこで、キスされそうになったことを思い出す。でもあれは、慰めてくれようとしたみたいなやつで、私に魅力を感じてとかではないんだろう。

「あれ、やっぱり何かあったんだ」

「ないから」

 さすがにキスされそうになったとは言えず、必死に頭を振った。それでも怪しんでくれるけど否定し続けつつ、どういか話題を変えようとする。

「凛は綾瀬と最近どうなの?」

「ま、まあ、変わらずだよ。一応、学園祭も一緒に回る約束もしてるし」

 さっきまでの勢いはなくなり、急にしおらしくなる。ほんのり頬も赤く染まり、照れ臭そうに笑みを零していた。

「いいな、彼氏がいて」

 ため息交じりに言うと、凜は閃いたと言わんばかりに目をかっぴらいた。

「いっそのこと、学園祭を一緒に回ろって誘っちゃうのはどう?」

 学園祭は一大イベントで、好きな人に振り向いてもらうには持って来いなのかもしれない。でもその相手が蓮だと思うと、つい苦笑いをしてしまった。

「私が誘わなくても、一緒に回る女子くらいいるんじゃないかな」

「もしそうだとしても、耀はそれでいいの?」

 前のめりになって聞かれるも、私は視線を落としてしまう。

「蓮に恋をしてる今が楽しくて、それで十分だから」

 これは見栄ではなく、本当に思っていること。そもそも色々な女子と遊んでいるのだから、私なんかに振り向くわけがなかった。身の程は弁えている。

 この先も変わらず彼の近くにいられれば、それだけで十分だった。

 私は一気にジュースを飲み干し、勢いよく立ち上がった。乾いた喉がうるおい、甘味でまた喉が渇いていく。

「飲み物取ってくるね」

 そう言ってドリンクバーコーナーまで行き、今度はお茶を注いだ。半分くらい飲み、じりじりと沸いた心を冷やす。席に戻ると凜は思い出したかのように注文したドリアを食べていて、マルゲリータピザに手を付ける。だいぶ冷めていたけど、おいしいのには変わりなかった。

「何かアドバイスしたいけど、残念ながら私も恋愛経験全くないからなぁ」

 と、頭を悩ませながらもドリアを頬張る。彼女にとっては綾瀬が初めての彼氏。私より先輩ではあるけど、今時の高校生と比べれば恋愛初心者と言っても過言ではないんだろう。

 それに、彼女と私では天と地ほどの状況の違いがあった。

「凛は綾瀬にアプローチされた側だもんね」

「まあ、そうだけど」

「逆に凛は、どうして綾瀬と付き合いたいなって思うようになったの?」

 仕返しとばかりに前のめりになると、凛は制服の裾を掴み視線を落とす。うーんと声を漏らすけど、困っているというよりは、どう言葉にするか悩んでいるようだった。

「良くも悪くも性格が真っすぐで、ちゃんと気持ちを伝えてくれるところとか、何事にも熱心でかっこいいなって思ったこととか」

 目を山なりに細め、言葉を紡ぐ。知っていたことではあるけど、本当に綾瀬のことが好きなんだなって伝わってくる。

 たしかに綾瀬はバスケに熱心で、たしか成績もよく文武両道。生真面目なせいか、よく部員とも衝突しているけど、ある意味、彼の真っ直ぐさを象徴していた。そういうところが好きな人への想いにも通じていて、凜は惹かれていったのかな。

「でも、一番大きいのは意識しちゃったことかな」

「どういうこと?」

「私のこと好きなのかなって思ったら、嫌でも気になって、その人のこと男子としてちゃんと見ちゃうから」

 そう言われても、「そういうものなんだ」と私はただ首を縦に振ることしかできなかった。誰かに恋愛感情を持たれた覚えがない私には知る由もないこと。でもそれは、友達に対しても同じことなんだろうか。休み時間わざわざ話しかけにきてくれたら、私も仲良くなりたいなって思うみたいな、そんな感じ。

 ただ、そうだとしたら分からないことがある。

「アプローチって何するの?」

「なんだろう、頻繁に声をかけるとか、遊びに誘ってみるとか?」

「う~ん……なんだろ、蓮がそれで好きになってくれるイメージが湧かない」

「まあ、そんな子たくさんいるだろうしね」

 私たちは目を合わせ、お互い苦笑いを浮かべてしまう。恋愛で駆け引きをしたことがない私たちにはけっきょく答えを導き出すことはできず、「恋愛経験豊富な人に聞いた方が良いのかもね」という結論になった。

 とはいえ周囲で該当する人がパッとは思いつかず、気づけば他の話題に移り変わっては、しゃべり続けて二時間も居座り、その日は解散になった。

 帰りの電車でもずっと話していて、凛が先に電車を降りてから私は座席に深く腰掛け、大きく息を吐く。喋り疲れる、という久々の感覚。心地よくて、スマホを覗くと反射して上がった口角が映る。まずい、と唇を丸め、私はイヤホンをつけて音楽を流した。

 彼女はスポーツバッグで、私はスクールバッグ。

 関係は変わってしまったけど、何となく、私たちはいつまでも続くような気がした。それが気のせいにならなければ良いなと、心の底から願った。

 きっかけがあって、私たちは仲直りができたけれど。

 再びきっかけさえあれば、風に吹かれるように壊れてしまうものだと、今の私は知っているから。



「書き出し、か」

 眼鏡を抑えながら、私の書いた文章に視線を落とす。柔和な印象とは打って変わって、鋭い眼差しに自然とこっちの背筋まで伸びる。

 今日は放課後に部活がある日で、塾がある三年生以外は部室に集まっていた。そこでせっかく愁くんがいるならば、と物語のあらすじと書き出しを見てもらうようお願いした。

 賞に応募するような愁くんたちとは違い、今回は短編。なおかつ書きたいことを書いてみるということで、あらすじを考えること自体は難航しなかった。

 でも、書き出しはそういうわけにもいかなかった。小説をよく読んでいるから何となく文章にすることはできるんだけど、これで本当に良いのかなと足踏みをしてしまう。賞に応募することはないとはいえ、少しでも面白くしたいという欲が出ていた。

 小説だから当たり前ではあるんだけど、こうして目の前で読まれるとなると妙にドキドキしてしまう。

 彼は一度首を傾け、ちらっとこっちを見た。

「これって初めて書いたんだよね?」

「う、うん。変、だったかな?」

「いや、むしろよく書けてる方だと思う」

「そっか、よかったぁ」

 そうほっと一息ついていると、彼はおもむろに立ち上がり、本棚に手を伸ばす。いくつか取り出すと、ページをめくっては文章を指差した。

「当たり前だけど、書き方に正解はない。その分選択肢はたくさんあって、例えばだけどプロローグっぽくしてみるとか、キャッチーな文章を入れてみるとか。だから何個か試しに書いてみて、その中から面白いのを選んでみるのが良いんじゃないかな」

「そっか、わざわざ一個に決めて書く必要ないもんね。ありがと、試してみる」

 アドバイスをしてもらって、さっそく作業に取り掛かろうとする。けど視界にふらっと小柄なシルエットが映り、私は視線を上げた。そこには文芸部一年生の駒井さんがいて、「あの」と聞こえるか否かのまくら言葉を零す。

「花井先輩、もう、小説書いてるんですか?」

 恐る恐るといったように身を縮こませながら聞かれ、私はちょっと大げさに笑みを作って頷く。

 バスケ部時代は上下関係が厳しかったから、後輩は基本的に緊張していることが多かった。そういった雰囲気を和ませるのは、ある意味先輩の仕事みたいなところがあり、ふと懐かしいなと思ってしまった。といっても、私の方が入部したのは後だから先輩なのか怪しいところではあるけど。

「せっかく文芸部に入ったんだし挑戦したいなって」

「でも、読まれるのって恥ずかしくないですか?」

「そうかもしれないけど、読んでもらったら案外嬉しいものかもよ? 何事もやってみなきゃ分からないからね」

 そう目を見ながら答えると、彼女は少しの沈黙の後に小さく二度頷き、スマホを取り出しては画面を見せる。そこには小説投稿サイトが映っていてた。

「実は何作か書いてるんですけど、花井先輩に読んでもらっても良いですか?」

「え、良いの? 読みたい」

 つい前のめりになってしまうと、彼女は少し照れ臭そうに口角を上げ、私の隣の椅子にちょこんと座った。すると背後から愁くんが顔を覗かせ、「へぇ」と関心を示す。

「僕も読んでみても良い?」

「愁先輩は、ちょっと」

「え、何で?」

「ちょっと勇気が……」

「そ、そっか」

 申し訳なさそうにしながらも全力で首を横に振っていて、愁くんはバツが悪そうに後頭部をかく。「フラれちゃったね」と私が言うと、彼はしょんぼりとしてしまって、いつも部長らしい様子を見ているからか少し面白くて笑ってしまった。

 でも何だかんだ愁くんも小説を読ませてもらえて、結果的に駒井さんも学園祭に作品を出すことになった。あんなに自信がなさそうだったけど、駒井さんの書いたミステリ小説はコミカルで面白く、実質初心者なのは私だけ。より頑張らなければと、今日も時間ギリギリまで作業に没頭した。

 下校するときは、駒井さんは徒歩、私と愁くんは電車通学だから道を分かれた。その道中でコンビニに寄ることになり、彼は缶コーヒー、私はレモンティーを買ってイートインスペースに座る。

「愁くん、いつもそれだよね」

「うん、コーヒー好きだから」

「ブラックって大人だね」

「ただ甘いのが苦手なだけだよ」

 そう言ってぐびぐび飲んでいて、私だったら絶対顔をしかめてしまうだろうなと甘いレモンティーを飲む。すると、愁くんがじっとこっちを見つめていた。固まってしまいつつ、もしかして一口ほしいのかな、と思ってストローを外して差し出そうとするけど、「いや、大丈夫」と返されてしまった。

「花井さんってさ、明るいよね」

「そうかな? あまり言われたことないけど」

 突拍子もない言葉につい笑ってしまいながらも、私は首を傾げてしまう。暗いとは思わないけど、人に言われるほどは明るくない、というのが自己認識だった。どうしてそう思ったのか聞いてみると、彼は眼鏡の位置を直し、窓の外を眺めながら「うーん」と声を漏らす。

「眩しいっていうよりは、熱いって感じかな」

 私の目をまた見て言うけど、なぜか彼自身も小首を傾げていた。

「よく分からないけど、褒められてはいる?」

「うん、褒めてる」

 彼は一気にコーヒーを飲み干し、ペコペコと缶をへこませながら俯く。息を吐くと、柔らかく笑みを零した。

「駒井さんは部室に来てもあまり話さず静かに本を読んでて、それでもずっと来てくれるから良いかなって思ってた。でも今日、打ち解けているのを見て、花井さんは明るいなって思ったんだよね」

 言葉を紡ぎ終えると、彼はおもむろにこちらを向く。穏やかな眼差しから本心で言っていることが伝わってきた。

「たまたま私がそのきっかけになっただけだと思うけどね。愁くんの配慮や部活の雰囲気が結果的に繋がったんだよ」

 つい照れ臭くて視線をそらしてしまう。彼は「そうだと良いな」と空を仰ぎ、夕焼けのように暖かな笑顔になった。

「とにかく、僕は花井さんが文芸部に来てくれてよかったなって思ってるよ」

 そしてまた、彼は私の目を見つめてくる。言葉も真っ直ぐすぎて、私は我慢できず手で視線を遮ってしまった。

「うん、嬉しいけど、なんかちょっとむず痒いね」

「あ、ごねん、なんか語っちゃって」

「ううん。ありがと、そんな風に思ってくれて」

 お互い視線をそらしてぎこちなくなりつつも、私たちは最寄り駅まで一緒に向かった。その間も部活の話ばかり。この放課後の空気感がどこか懐かしく、また、別物なんだなと思わされる。

 バスケ部は活気があって賑やかだったけど、文芸部のみんなといる時は秋の訪れのような涼やかさ。会話は多いわけではないけど、心地よい居場所。

 それらは三年生の先輩たちや、部長の愁くんが築き上げてきたもの。だから私がいなかったところで、いつか駒井さんは小説を文芸部員の誰かに見せていたんだろう。

 けど、純粋に私のおかげだと言ってくれたことが、彼らの一員になれたようで嬉しかった。

 正直、最初は心配だった。今まで習い事や部活はバスケ一筋で、そこから全く違う環境に足を踏み入れるのだから、もしかしたら馴染めないかもしれないと。

 そんな不安を払拭するように、部活が楽しく、こうして一緒に下校までしている。

 私が頑張った、というのが一番なんだろうけど。

 やっぱり、蓮がいたから今があると思う。

 彼に出会わずあのままの私でいたら、前を向けず、今こうして新たな出会いや挑戦もなかった気がする。

 最近、蓮とは話せていない。たまに凛と一緒に過ごすからっていうのもあるけど、私が小説を書く時間に当てているから。

 アイディアを出して形にするまでの期間があまりにも短く、初めて書く私にはかなりハードルが高かった。たまに蓮がちょっかいかけてくることもあるけど、基本的には配慮してそっとしておいてくれる。

 目の前にいるからいっぱい話したいのに、締め切りに追われて余裕がないというジレンマ。蓮不足。彼女でもないくせに、そんなことを思ってしまう。

 早く、蓮に部活のこととか話したいな。

 すると、ふと見覚えのある背中が見え、視線が吸われる。

 肩まである、ゆるくパーマがかった長い髪が風に揺れる。着崩した制服には不思議とだらしなさは感じず、それは彼のスタイルの良さのおかげなんだろう。やや前かがみになる背筋。それは隣に女の子が小柄で、彼のことを見上げているから。

 ぎゅっと、カバンを掴む手に力がこもる。

 ずきっと、胸の辺りが強く痛む。

 ああ、嫌だな。

 これが彼の日常で、私も十分分かっていたこと。なのに、たまらないくらい嫉妬して、今すぐ駆け寄って引き裂いてしまいたくなる。そんなことしたって、邪魔者は私なのに。

 学校内で幾度と目にした光景だけど、今まで何とも感じなかった。でも想いが変わって、こんなにも苦しいことだなんて。

「灰崎蓮くんと知り合い?」

 覗き込むように聞かれ、私はハッとして「違うよ」ととっさに蓮から視線をそらす。それ以上言及されることはなく駅までたどり着く。電車の方向が逆で、そのまま解散しようとした。

 すると、愁くんに腕を掴まれて振り返る。

「何かあったら頼ってよ。話なら聞くから」

 真っすぐ私の目を捉えていた。威圧感はなく、快晴のように澄んだ瞳。その端にはいくつか皺を浮かべ、朗らかに笑む。それが移ったのか、私のきつく結ばれた口元も緩んでいく。

「ありがと。優しいね」

 お礼を言うと、彼は頬をかきながらそっぽを向いてしまった。

「それだけじゃないんだけどね」

 そう言い残し、彼は私とは反対側ホームの階段を上っていく。それだけじゃないって何だろうと少し考えたけど、部長としてってことかなと思うことにした。

 電車に揺られながら、窓の外を眺める。茜色に町が染まり、コマ送りのように景色が過ぎ去っていく。

 今もまだ、蓮は女の子と一緒に居るのだろうか。いったいどういう関係なのか。気になるけど、考えるのをやめようとする。それでも、いつまでも彼のことが頭に浮かんでしまう。遮断するようにイヤホンをして、本を開き物語へと没頭しようとする。

 一緒に居られるならそれでいい。

 そう思っていたはずなのに、曇り空のようにどんよりした感情で覆われていく。

 物語の中で、恋をするということは楽しくも苦しくもあると、知っているつもりだったけど、いざ自分が恋をしてみるまで、こんなにも支配されてしまうものだとは思いもしなかった。

 彼のことを想っていたいのに、考えたくない。

 この恋が冷めるまで、そうやって苛まれ続けるのかな。

 そう思うと余計に胸が苦しくなり、どうしたら良いんだろう。

 恋をしたばかりの私には知る由もなかった。



 青色と橙色のグラデーション。残暑を終え、日が沈む時間が早まった空。窓から吹き込む風は心地よく、最近伸びてきた髪がなびき頬に貼りつく。

 放課後の校内は静かで、人とすれ違う機会も極端に減る。だけど今は休み時間のように人が行き来し、活気にあふれていた。

 というのも、今は学園祭準備期間。しかも初日ということもあり、どこもかしこも張り切っている様子が窺える。かくいう私のクラスもプラネタリウムということもあり装飾を作るのに明け暮れていたのだけど、ちょうどさっき今日の分の準備が全て終わり、束の間の休息を得ていた。

 また明日から忙しくなると思うと憂鬱になりつつ、私は一階へ下って渡り廊下を途中で曲がり、壁沿いを進んでいく。

 このまま帰っても良かったんだけど、何となく一息つきたかった。それに、もしかしたら蓮が来るかもしれない。まあ放課後に学園祭の準備を手伝っているとは、とても思えないけど。窓を六つ過ぎた先の教室の窓を空け、いつも通りよじ登って入ろうとする。

 ピリッと刺す匂いを包むように、バニラのような甘ったるい臭い。

 いつもの椅子に蓮は座っていて、ダラっと頬杖を突きながらスマホをいじっていた。目が合うと、「何にやけてんだよ」と彼はふっと唇の片端を上げた。

 私はとっさに口角を抑え、緩ませようと揺らしながら「にやけてない」と苦し紛れに返す。私も椅子に座って一息つくと、彼は机にスマホを置いた。

「サボり?」

「違うよ。今日の分の準備は終わったから、一息つきに来たの」

 少し冷ややかね目をしながら言うと、「えら」と返され、ついため息を零してしまった。

「蓮はサボり?」

「サボりっていうより、帰ろうとしたら担任に見つかったから隠れてた」

「それどっちにしろサボってるよね。ちゃんと準備手伝ってあげなよ」

「良いんだよ。こういうの俺のキャラじゃないし、学園祭も来ないつもりだから」

「え、学園祭来ないの?」

 おもわず前のめりになって聞くと、彼は首を傾げて小さく笑みを浮かべる。

「準備もしてないやつに行く資格ないだろ」

 言われればたしかに、と納得して頷いてしまう。そういう変なところは律儀で、ある意味、蓮らしいとも思った。

「せっかく小説も完成したのに」

「え、もう書けたの?」

「うん。だから学園祭にも展示することになった」

「そっか。すごいな」

「学園祭で見に来てよ」

「まあ、気が向いたらな」

 へらへらしながら言われ、絶対に来ないやつじゃん、と思ったけど口にはしなかった。もし言葉にしてしまえば、彼が来ないことが確定してしまいそうな気がして。

 とはいえ、どちらにしろこのままでは彼が来ないのはほぼ確実。すがるように言葉を振り絞る。

「学園祭、一緒に回りたかったな」

「いや、普通に友達と行けよ」

「友達とも回るけど、蓮とも回りたいよ」

「悪い、それは絶対無理」

「どうして?」

 あまりにも頑なに拒否されるから、少し声が大きくなってしまう。彼はあからさまにため息を吐き、眉間に皺を寄せた。

「それで変な誤解されたら困るだろ」

 そう言われ、私は言葉を詰まらせてしまう。彼の言う通りで、おまけにその相手が蓮。二人きりで楽しんでいたら、奇異の目で見られるに違いない。

 蓮を困らせてしまうんだろう。

 それでも私は、蓮と特別な時間を過ごしたい。

 自分勝手な想いかもしれないけど、私はもう気持ちを告げずに後悔したくないから。

 膝の上でスカートをぎゅっと握る。

「私は、全然、困んないよ」

 力強く発したつもりが、たどたどしく言葉が途切れる。でも目だけは彼としっかり合わせ続けた。蓮は目を丸くし、頬をかきながらやや視線を落とす。

 もしかして、悩んでくれているのかな。

 そう希望を持った矢先、彼はへらりと唇の片端だけを上げ、また私と視線を合わせた。

「そもそも、俺たちつり合ってないだろ?」

 握られた手から、一気に力が抜ける。同時に目頭がとたんに熱くなるのを感じ、唇を丸め、今度はすり潰すようにスカートを握りしめた。

「……そうだよね。つり合ってるわけないよね」

 変な口角の上がり方をしながら、どうにか言葉にする。彼のマネをしたわけではない。だけど、嫌でも笑わずにはいられなくて。苦しいはずなのに、もう意味わかんない。

 けっきょく涙腺は崩壊し、とめどなく涙が溢れ出てくる。すると蓮は戸惑いながらも、ワイシャツの裾で涙を拭おうとしてくる。けど私はその手をはたき、払い退けた。

「やめて、優しくしないで」

 睨みつけて言い放ったつもりだった。でも実際は涙声で、彼の顔を見れず俯いたまま。

「ごめん、もう関わらないから」

 居ても立ってもいられなくなり、慌ただしく立ち上がってはパイプ椅子が倒れる。でも直す余裕もなく、そのまま窓から教室を飛び出す。視界が滲んでいるからか、うまく着地できなくて膝から転んでしまった。じんじんするけど、そんなこと気にせず足を動かした。中庭を走り抜け、人とすれ違う度に驚かれたけど、そんなのどうでも良い。早く一人になりたい。階段を駆け上り、屋上の階段までたどり着いたところで足を止めてしゃがみ込む。

 最悪。

 つり合ってないなんて、言われなくても私自身が一番よくわかってる。

 周りにそれを陰口されたら、ほんのちょっと気にするかもしれないけど、それでも蓮と一緒に居られる自信はあった。

 だからこそ、蓮の口からは絶対に聞きたくない言葉だった。

 そんなのもう、諦めるしかないじゃん。

 どうして蓮の周りにいる女子みたいに、私はキラキラしていないんだろう。

 もし私が可愛かったら、結果は違ったのかな。

「あー、もう、本当に嫌になる」

 ため息と一緒に、おもわず言葉が漏れてしまう。すると、階段の下の方からパタンっと上履きの鳴る音がした。とっさに振り返って覗くと、そこには困ったように眉を顰める愁くんがいた。

「ごめん、階段駆け上がる姿を見かけて、様子が少し変だったから心配で」

「……そっか」

 せっかく気を使ってくれているのに、上手く返す余裕もなく素っ気ない言葉になってしまう。気まずくなってお互い黙ってしまうと、彼はハッとした顔をし、こっちに近づいてくる。

「膝、怪我してる」

「平気だよ、これくらい」

 余裕ぶって勢いよく立ち上がるけど、電気が走るみたいに痛み、よろけてしまったところを彼に支えられる。さっきまで走れていたのはアドレナリンのおかげだったのか。とはいえ迷惑はかけられないと再び歩きだそうとした。

 けど、彼に肩を抱かれ身動きが取れなくなる。

「失礼」

 耳元で声をかけられるのと同時に、ふわりと体が浮く。いつの間にか愁くんに抱えられ、お姫様抱っこされていた。一瞬固まってしまいつつも、顔を上げすぐに首を横に振る。

「いや、本当に大丈夫だから。私、歩けるから」

「良いから。スカートだけ抑えてて」

 いつもより少しばかり低い声で注意され、急いでスカートを抑える。階を下るごとに人が増え、向けられる視線を遮るように俯き、顔を熱くしつつもじっとすることにした。

 一階の保健室にたどり着くけど、ちょうど先生は出張らっているよう。さすがに勝手に使うのは良くないかな、と躊躇っているところ、「失礼します」と愁くんは堂々と中へ入っていく。水道の前で降ろしてくれると、蛇口をゆるく捻って水を出す。

「ちょっと行儀悪いけど、ここに足のっけて洗おう」

 そう促され、肩を貸してもらいながら靴下を脱ぎ、膝に水を当てる。傷に染みて顔をしかめてしまいながらも終えると、今度はベッドまで運ばれ、机から絆創膏を取り出して貼ってくれた。

「何から何までごめん。運ぶの大変だったよね」

「全然。羽のように軽かった」

「なんかキザっぽいね」

 あまりにもさらっと言うものだから、間髪いれず言い返してしまう。

「セリフみたいでかっこいいでしょ?」

 にっと口角を上げながら、おどけた口調で言ってくる。彼といえば真面目で、こんな風にふざけたりするんだなと、新しい一面を知った。

 それと一緒に思い出すのは、花火大会でお姫様抱っこされた時に感じた蓮の温もりや香り。あんなこと言われたのに、考えただけで胸は高鳴り、彼に会いたくなってしまう。

 好きだなぁ。

 情けなくも、一番に出るのはこの想い。

 また目頭が熱くなって、下を向いて目元に力を入れる。それでも堪え切れなくて、スカートに数滴染みができる。すると愁くんは隣に座り、何も言わずに背中をさすってくれた。

 きっと男子相手だったら、こういう風に触れられるの嫌だなって思ってしまう。

 でも、愁くんは違った。

 抱っこされたときもそうだけど、不思議と落ち着く。

 信頼しているからかな。分からないけど、感情があふれ出し、ぽたぽたとスカートにまだら模様が浮かぶ。鼻を啜り、嗚咽を漏らしながらも、彼はいつまでもそばに続けてくれた。

 しばらくして収まってお礼を言うと、彼は一つ頷き立ち上がる。

「ポカリとアクエリアス、どっち派?」

「えっと、ポカリかな」

 唐突な質問に戸惑いつつ答えると、「わかった」と小走りで保健室を出ていく。ものの数分で戻ってきて、ポカリを手渡してくれる。彼は緑茶を買っていた。

「ありがと。後でお金渡すね」

「いいよ、こういう時は」

 はにかみながら言っては緑茶を半分くらい飲み干す。ここまで色々してもらったら喉も乾くなと、申し訳なく思いつつもポカリを飲む。私も一気に飲んでいて、甘さと酸味が心地よい。泣いた分、運動後みたいに水分が不足していたのかな。それに気づいてくれた愁くんは本当に優しいなと、また泣いてしまいそうになる。

「ありがと、けっこう落ち着いた」

「それならよかった。花井さんのクラスの準備はどんな感じ?」

「今日の分はしっかり終わったよ」

「すごく順調。こっちのクラスとは大違いだね」

「そうなの?」

「うん。道具がなかったり言い合いになったり、もうてんやわんや」

「え、戻らなくて大丈夫?」

「いいよ。ちょうど疲れて休憩したいところだったし」

 そういう割には全く休める状況じゃなくて、余計に申し訳なくなってくる。それなのに愁くんは嫌な顔せず付き合ってくれる。だからこそ、ずっと気にしていることがあった。

「あのさ、何も聞かないの?」

 怪我をして、泣いていて、こんなの少しも野次馬根性が湧かない方が不自然だと思う。そして仮に聞かれたとしたら、私はちゃんと話す義務がある。迷惑をかけたこともあるけど、そもそも愁くんは心配もしてくれているだろうし。

「聞かないよ。人なんだから、聞かれたくないことくらいあると思うし」

 けれど彼は悩む素振りも見せず、きっぱりと否定する。

 聞かれたくないこともある。そう思えてしまうのは、きっと彼が人思いだからなんだろうな、と感心せずにはいられなかった。

「愁くんは優しいね」

「そんなことないよ。ただ、僕もこういう時は知られたくないなって思うだけ」

 思わず出た言葉に、愁くんはいつもみたいに柔らかく口角を上げる。けど一瞬だけ、視線落とし、瞳から色が失われたような、そんな気がした。

「小説ってさ、時には憂さ晴らしの場にもなると思ってるんだよね」

 唐突に物騒なことを言うものだから、つい「え?」と声を漏らしてしまう。微笑みが戻っていて、天井を見上げながら言葉を続ける。

「その時の出来事や感じたことが原動力になって、積み重なって形やテーマになっていく。だから嫌なことがあってもさ、作品の糧にしちゃえば良いんだよ」

 私は頷きながら聞き、そんな考え方あるんだと思いつつ、たしかにそうかもしれないなと納得してしまう。

 この前書き終えた小説は恋愛小説。

 動機も、恋をしていることを自覚したから。

 好きな人に想いを伝えられず、行き場のないモヤモヤした感情をぶつけるように文章を起こしていた。

 ある意味、私は無意識に物語で憂さ晴らしをしていたのかもしれない。

「そんな風に考えてるの、ちょっと意外かも」

「そう?」

「うん。愁くんって爽やかってイメージだから」

「そんなことないよ。だいぶネチネチしてる」

 おどけて言ってきて、くすっと笑ってしまう。ネチネチしている彼の姿があまりにも想像できなかった。

「よかった。やっと笑ってくれた」

 ほっとしたように表情を緩ませる。愁くんと話していたおかげか、さっきよりはだいぶ心のわだかまりが落ち着いていた。

 こんなよくわからない状況で泣いているのに、愁くんはずっと私のことを心配して行動に移してくれる。

 改めて、本当に思わされる。

「ありがと。やっぱり、愁くんは優しいよ」

 頭を下げてから、彼の目を真っすぐ見て言葉にする。すると彼はやや俯き、眼鏡の位置を直しながら軽く喉を鳴らす。

「それだけじゃないよ」

「この前も言ってたけど、どういうこと?」

 少し前に優しいと言った時も、彼はそれだけじゃないと言い残していった。気になって聞いてみるけど、彼は困ったように眉を顰める。

「そのまんまの意味だよ」

「それじゃわかんないよ」

 誤魔化そうとするから、つい詰め寄ってしまった。彼はよけいに表情を歪ませ、「うーん」と頭を悩ませる。

「良心だけじゃなくて、花井さんだからってこと」

 絞り出すように、いつもより小さな声量で言葉を紡ぐ。だけど、ますます意味が分からなくて首を傾げていると、彼は一度大きく呼吸をし、すぐにまた笑みを浮かべた。

「学園祭、僕と一緒に回ろうよ」

 何の脈絡もなく誘われ、私は固まってしまう。誘われたことが嫌だったわけではなく、純粋にどうして私なんだろうと疑問に思ってしまった。

 そして、蓮の顔が脳裏にちらつく。

 もう、一緒に回れるはずもないのに。

 それを振り払うように、気づけば私は首を縦に振っていた。「よっしゃ」と彼は無邪気に言って、私もつられて笑顔になってしまった。

 思えば彼のことだから、誘ってくれたのも私を元気づけようとしてくれからなんだろう。今日もこんなにもお世話になったのだから、当日は何か奢ろうと心に決めた。

 もう大丈夫。

 これから学園祭の準備もあるし、学園祭当日の楽しみもまた一つ増えた。

 それに部活だって、友達との日々だって、バイトだって、受験勉強だって、やること考えることが山のようにあるのだから。

 蓮がいなくたって、何も問題ない。

 忘れよう。

 そう、何度だって心に言い聞かせた。

 溢れそうになる彼への想いを、灰色の煙で覆い続けるように。

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