四章:火花
バニラをかぶったような匂い。
甘ったるくて酔ってしまいそうだけど、居心地の良さも感じてしまう。それがどうしてなのか、俺は知っていた。
上目遣いでじっとこっちを見てくる。その視線を無視しながら、駅に足を運ぼうとするとスクールバッグで背中を小突かれる。
「ねぇ、本当に帰るの?」
「帰る」
「今日、遅くまで親が帰って来ないのに?」
「だから帰るって」
何度もそう答えながら足を進めていく。後ろからローファーの音がして、左腕にバニラの香りがまとわりつく。
「蓮、変わったよね。カラオケ行くのすら嫌がるし」
「もう、そういうのやめたんだよ」
「なんで? 私にもう飽きちゃった?」
すがるように胸を押し付け、体重を乗っけてくる。それでも足を止めず、彼女の方を向き左右に首を振った。
「そうじゃなくて、もう誰ともそういう遊びをしてないだけ」
「私、寂しいよ」
「ごめんな」
俯き、今にも泣きだしそうなくらいに目を潤ませていた。俺はただ謝ることしかできなかった。駅までたどり着くと、彼女はこちらを向くことなく、口を閉ざしたまま改札を抜けていく。俺はそれを見送ってから、一つため息を吐いて家路に着いた。
耀と出会ってから、徐々に女子と遊ぶのを避けるようになっていた。今ではもう、カラオケやゲーセンで健全に遊ぶことさえない。
色んな女子と遊ぶと気が紛れて、楽に時間を潰せる。だから今まで誘われるがまま付き合っていた。
でもどうしてか、耀と出会ってから決まって彼女のことが頭に過り、妙に気分が乗らなくなってしまう。
もう、耀と関わることなんてないのに。
後になって、彼女に勘違いをさせているのではないかと気がついた。
あれは耀に向けてではなく、俺自身がつり合っていない、という意味だった。
俺の言葉で傷つけて、涙を流していた。すぐにでも訂正するべきなんだろうけど、今さら信じてもらえるはずもない。
それに何より、彼女はもう俺と一緒に居るべきじゃない。
空き教室で耀へ偉そうに言っていたけど、心のどこかでは無理だろうと思っていた。耀にとって、都合の良さそうな言葉を選んでいただけ。
俺自身挫折したことも、友達と考えをぶつけ合ったことも、やりたいことを見つけて一生懸命になったこともないくせに。
地の底から這い上がろうともせず、何もかも諦めている俺とは違う。
彼女は壁を乗り越え、前を走り続けている。
煙から差す一筋の光のように、眩しくて仕方がなかった。
耀と俺とでは住む世界が違う。
これで良かったんだ。
そう言い聞かせる日々が続いていた。
途中でスーパーに寄って卵を買い、住んでいるアパートの二階に上って部屋に入る。リビングに行くと母さんは黙々とメイクをしていた。スナックで働いていて、夕方くらいが出勤時間だった。
小学生の頃は夜職をしている母親が嫌でたまらなかった。せっかくクラスメイトと話せたかと思えば、あそこの家の子には近づくなと決まって言われる。
母親が夜に色々な男性と一緒にいるのを目撃されていた。当時はキャバクラで働いていたから恰好は派手で、比較的に若く容姿も整っていたのだから、疎まれてもおかしくはないのかもしれない。
母親が夜に仕事をしていること、学校生活や勉強について何も聞かれないこと、授業参観や運動会などの行事ごとに参加しなくなったこと、何も習い事をしてこなかったこと。
何もかも、周りと比べて俺は普通ではなかった。
それらが原因でまともに友達を作るのをやめ、似たような境遇のやつを見つけてつるむようになっていた。煙草と酒をするようになったきっかけでもある。
でも、それを言い訳にするつもりはもうなかった。俺自身が良い人間であれば自然と友達はできて、煙草も酒も自分の意志で始めたことなんだから。何なら耀と出会う前までは、夜遅くなっても余計な詮索をされなくて楽だなとも思っていたし。
何より、母さんが働いてくれているから俺は生活ができている。それなのに、文句を言えるはずがなかった。
俺も何も言わず、自分の部屋に戻って制服を着替えた。小腹が空いてカップラーメンでも食べようかと思い、台所へ向かう。
そこでふと、耀からもらった玉子焼きを思い出す。何となく作ってみようと思い、冷蔵庫から卵を四つ取り出す。甘めの味付けのレシピをサイトで調べながら、手順通りに作っていくけど、玉子を巻くところがかなり難しく形が崩れ、おまけに少し焦がしてしまった。全く料理をしない弊害だなと思いつつ、恐る恐る口に運ぶと「うま」と声が零れる。失敗したとはいえ、調味料の量は同じだから味はしっかりおいしくなっていた。
速攻で一人前を食べ終え、残りをさらに移す。それをリビングまで持っていき、母さんの前に玉子焼きと箸一善を置いた。
「玉子焼き食べる?」
やや早口になりながら言うと、母さんは手を止めてこっちを見上げ、玉子焼きへと視線を落とす。しばらくじっと見てから、母さんはまたメイクをし始めた。
「リップ塗っちゃったから大丈夫」
「そっか」
俺は玉子焼きを持ってそのまま部屋に戻り、残りの玉子焼きをかき込む。お腹も空いていたし、ちょうど良かった。一瞬で食べ終え、ベッドに寝転がってスマホをいじる。
ドアの閉まる音がして、ベッドから起き上がり食器を台所に持っていく。
ふわりと、いつもの香水が鼻を抜ける。店で客に媚びて、帰っても思い出してもらうための甘い残り香。
換気扇を回し、煙草に火を点けて煙を吹かす。ヤニの臭いで紛れさせ、ふっとつい失笑してしまった。
まあ、こんなもんだよな。
やっぱり、俺なんかとは住む世界が違う。
そう、なおさら実感した瞬間だった。
深くため息を吐き、けつポケットから煙草とライターを取り出す。今はバイト終わりで、帰る前に路地裏の喫煙スペースで一服しようとしていたところだった。火をつけようとヤスリを回そうとする。けどカチカチ音が鳴るだけ一向に火が付かず、オイルが切れていることに気づく。再びため息を吐くと、すっとライターを差し出される。
「さんきゅ、由羅」
喫煙スペースを使う人はバイト先にけっこういるけど、こういう感じで接してくるのは一人しかいなく、一瞬で誰だかわかった。
由羅は高校の同級生でもあり、バイト先を紹介してくれたのも彼。ルールがゆるいということで即決だった。実際、未成年の飲酒や喫煙を見て見ぬふりしているのだから何でもありに近い。
今日けっこう忙しかったなとか、あの客まじダルかったとか、ダラダラと喋る。何となくだけど、由羅といるのは楽だなって思う。
他のやつといる時は、少し面倒でもその場が楽しければ良いやって感じだけど、由羅は少し違った。一緒にいても疲れないみたいな、そんな感じ。だからか、学校で一緒にいることも自然と多い気がする。
今日も適当に駄弁って解散かなと思っていたけど、「あのさ」と言葉を区切るように枕詞を置く。
「前から思ってたんだけど、蓮って壁あるよな」
唐突に聞かれ、隣を振り返る。由羅は灰皿スタンドに灰を落としながら、こっちを一瞥した。
「そうか?」
「ノリは良いんだけど、上辺でしか関わってこない感じ」
「急にひどい言われようだな」
「前からずっと思ってたけど、言うの忘れてただけ」
突っ込むと、へらへらと笑いながら再び煙草を咥える。本気か冗談か分からなく、首を傾げながら俺も煙を吸い込む。
「壁があろうがなかろうが、そんなん楽しければどっちでも良いだろ」
「良いけど、よく疲れないよなぁって」
「なんだよ、今日めっちゃズバズバ言ってくんじゃん」
「最近の蓮、上の空って感じでちょっとイラっとすんだよね」
「あっそ」
いい加減鬱陶しくなってきて、やや語気が強くなってしまう。けれど由羅は飄々としたまま、こっちをねめる。
「好きな女子でもできたか」
手元から煙草が零れる。ハッとして、急いで踏んで火種を消し、灰皿の中に煙草を押し込む。何ともないようにもう一本取り出し、火をつけながら横目で隣を見る。ポカンと少し間抜けに口を開け、見たこともない顔をしていた。
「マジか」
「ちげーよ」
「ふーん。で、どんな子?」
「話し聞けよ」
否定するも聞く耳持たずといった感じ。そんな表情には出ていないけど、何となく楽しんでいるのが伝わってきてうざい。
「そんな動揺しといて何もないことはないだろ」
普段はあまり他人のことに興味を示さないくせに、いつにもなく前のめり。このまま白を切る方が面倒な気がして、ため息交じりに答える。
「勉強したり部活したり、真面目に学校生活送ってる子。あと好きとかじゃない」
「ずいぶん珍しいチョイスだな」
そう言われ、口を噤んでおいた。たしかにあまり関わらないタイプではあるけど、珍しいと肯定するのも何か違う気がしたから。
「で、何に悩んでんの?」
「悩んでるっていうか、もう終わったことなんだよ」
「その割には曇った顔してるけどなー」
「……別にもう良いんだよ。俺とは住む世界が違うんだから」
ふっと笑われ、軽く睨みつけてから後頭部をかく。由羅は煙草の灰を落とし、おもむろに路地の方へと視線を向けた。大学生らしきカップルが手をつなぎ、微笑み合って話していて、いかにも幸せ全開といった感じ。
「両想いのカップルってすごいよな」
真顔でそんな突拍子のないことを言うのものだから、頭でも打ったかと首を傾げてしまう。それでも由羅は気にせず言葉を続けた。
「好きな人ができて、両想いか確かめるために、壁を取っ払ってむき出しの想いを伝えるのって、すごく勇気がいることなんだろうし」
いつもより低い声音。語りかけられているようで、俺は「そうだな」と同意しつつも、つい視線をそらしてしまう。
「向けられた好意にフラフラっと手を出すのが、楽でちょうど良いのは俺も分かる。でもその子をきっかけに、蓮は気持ちが変わってきたってことなんだろ?」
「別にそういうんじゃ」
「最近、誘いも断られるって愚痴られるんだよねー」
言葉をかぶせて来て、やれやれと言ったように首を左右に振る。その態度にイラっときて舌打ちが出てしまった。
「だからって今さら変えられないし、あの子と一緒にいるべきじゃない」
図星だった。気持ちが変わり始めているのも、女子からの誘いを断っているのも、きっかけは耀でしかなかった。
分かっているからこそ、一緒にいちゃいけない。彼女の透き通った心を、薄暗い灰色で濁らせるわけにはいかなかった。
「あのさぁ、それってそもそも、その子に言われたこと?」
痺れを切らしたように大きく伸びをし、灰皿に火種をこすりつける。俺が黙っていると、ぽんっと肩を叩いてきた。
「あんま壁ばっか作ってると、逆に相手を傷つけることもあるかもよー」
へらっと笑いながら「ま、知らんけど」と言い捨てて、バイト先の店内に戻っていく。俺はもう一本取り出し、これが吸い終わってから帰ることにした。でもライターがつかないことを思い出し、かわりに空気を深く吸って空を仰いだ。
壁、か。
そんなこと言われても、俺はこの近からず遠からずが一番ちょうど良いと思っていた。
相手に幻滅されることも、期待することもなく、ただ楽しく過ごすことができる。
弱みを見せたところで、待っているのは軽蔑や嘲笑。上辺で気を使ってくれているかもしれないけど、裏では話のツマミになるだけ。
そんなの、まっぴらごめんだ。
だらだらと日々を過ごして、適当な人間関係を築いていれば、周りは俺の存在に納得してくれる。
そうやって逃げ続ける人生が、俺にはお似合いなのだから。
頭ではそう分かっているのに。
どうしてこんなにも胸が虚しくなってしまうのだろうか。
「あ、柳原愁だ」
学園祭前日ということもあり忙しなく、普段より一層人が入り乱れる中、俺はそいつを目で捉えていた。同じ制服の中でも、ひと際目立つ存在。整えられた短髪の黒髪に、いかにも真面目そうな黒縁の眼鏡。それでも彼に明るさを感じるのは、緩やかに上がった口角のおかげなんだろう。
おまけに高身長で、これは確かに女子が騒ぐのも納得だった。現に俺の隣にいる女子も、今は彼に視線を奪われている。
けど、俺が彼に目が留まったのは他の理由があった。
それは、彼の隣には耀がいるから。
彼のことを見上げ、さらりとした短い髪を華奢な指で触れる。髪を切ったようで、出会った当初よりもさらに短くなっていた。
微笑みかけ、つぶらな瞳がきらっと輝いている。見えないはずなのに、その瞳に彼の姿が反射しているように感じる。少し前まで、その視線は俺を見つめていて、俺が映っていたはずなのに。
拳を握り、彼女の方へと足が進んでいた。まだ、俺のことに気づいていない。不自然に威圧的な歩き方になっていた。
でもこっちに気づいたのは耀ではなく、柳原愁の方だった。
彼はこちらを一瞥すると、彼女の肩に手を回し、俺から背を向けるように誘導する。肩に触れたことも、遠ざけようとしてくることにもイラつきつつ、段々速足になっていく。
たどり着く前に耀は角を曲がって姿が見えなくなり、柳原愁の方からこちらに近づいてくる。
「ちょっと良い?」
打って変わって彼の口角は下がり、睨みつけるように目を鋭く細める。睨み返しながらも、彼の後をついていく。人気のない廊下に出ると、彼は足を止めて真っ直ぐこちらを向いた。
「灰崎蓮くん、だよね」
「そうだけど」
「単刀直入に聞くけど、花井さんを泣かせたのは君だよね?」
口を開きかけるけど、ぐっと一文字に結ぶ。どうして泣いていたこと知っているのか問い質そうとしたけど、考えれてみれば彼が目撃したという以外の理由はなかった。
「耀から何か聞いたのか?」
「いいや、勘だよ。でもその様子だと当たりのようだね」
したり顔で言われ、つい舌打ちが出てしまう。鎌をかけられていたことに対してもそうだけど、彼女のことなら理解している、という雰囲気が癪に障った。
「やっぱり、花井さんは君と一緒に居るべきじゃないよ」
「は、何様だよ」
「僕なら、花井さんを大切にできる」
言葉をかぶせ、一歩詰め寄ると上から見下ろしてきた。睨み返すも、彼は怯むことなく目を離さなかった。
「学園祭、耀さんと一緒に回る約束してるから」
そう告げられ、一瞬目を開いてしまう。けどすぐに「だから?」と平静を装って言い返す。すると柳原は目を細め、射すくめるように凝視してきた。
「僕は本気だから、もう変なちょっかいはかけんなってこと」
さっきまでとは違って強い口調。注意より怒りが先行して伝わって来て、気押されそうになり、とっさに後ずさりしてしまった。
「好きにしたら? 俺に何の関係もないことだし」
「そう。なら良かった」
眼鏡の位置を直しながら、目元だけを山なりに弧を描き、不気味に笑う。「時間とらせてごめんね」と言って彼は去り、俺は壁にもたれ掛かる。無造作に頭をかき、壁を殴りつける。
爽やかで知的な好青年。
そんな噂が偽りかと思わされるほど、ド直球で感情をぶつけてきた。
それだけ、耀に本気ということの現れ。
学園祭、あいつと一緒に回るのか。
一緒にお化け屋敷に入ったり、食べ歩きをしたり、出し物を見に行ったり。学園祭っぽいことを満喫するんだろう。
隣に並ぶ、二人の姿。
空色が似合うような二人は、きっとお似合いのカップルのように見えるんだろう。
彼女の誘いを断らなければ、そこは俺の席だった。
だけど、もし俺が彼女の隣に並んでしまえば、灰色の異物が混ざり込むように濁らせてしまう。その景色がパッと浮かび、俺はあの時受け入れることができなかった。
あいつは耀を大切にできると言った。
ぐうの音も出なかった。
その通りでしかなかった。人当たりもよく、周囲に信頼され、部長を務めて、さながら生徒の模範のような存在。
それに比べて俺はまともに授業も受けず、未成年飲酒喫煙、女にもだらしなかった。
一緒にいるべき人間じゃない。
どうして俺は、学校に来ているのだろう。
やりたいこともないのに。
それなら働く時間を増やした方が良いよな。
もう、やめよう。
そう決意して帰ろうとすると、スマホから着信音が鳴る。画面には近所の大きい病院の名前が表示されていて、疑問に思いつつも出てみる。
思わず、もう一度聞き返してしまう。そして電話が切れた瞬間、俺は駆け出していた。
母さんが倒れ、病院に運ばれた。
鼻を刺すような薬品のような臭い。周囲一面は白で覆われ、清潔さを感じる。今まで病院というものに縁がなかったから少しそわそわしていた。
そんな中、母さんは点滴を打たれた状態でじっと横たわっている。俺が着いた時からこの状態だった。
倒れた原因は過労。検査も一通り終わっていて、特に異常はないから、点滴が終わればそのまま今日中に退院できるらしい。事故に遭ったのか、何か大きな病気にかかったのかと心配していたが、ひとまず安心だった。
でも今問題なのは、この二人きりの状況だった。
家で二人一緒にいることはあるけど、それぞれ何かしら手を動かしている状況しかなかった。
でも今は安静にしているからか、母さんはスマホすら手にすることなく、ただぼうっと体を休めている。かくいう俺も、ここで一人スマホをいじるのは違うなと思い、ぼんやりと窓の外を眺めていた。
なんて声をかければ良いのか。体調を心配すればいいのは分かっているけど、言葉選びに悩んでいて、意を決して咳払いをする。
「体調、今はどう?」
「うん、平気」
「そっか。倒れたら元も子もないし、あまり無理すんなよ」
「うん、しばらくはコンビニのシフトは減らしてもらうつもり」
淡々と言葉を交わしていく中、俺は眉をひそめてしまう。
「待って、コンビニでも働いてんの?」
「言ってなかった?」
「聞いてない」
平然と首を傾げて言ってくるものだから、つい勢いよく左右に首を振ってしまう。日中はコンビニ、夜はスナックのダブルワークをしていたという事実に頭を抱えてしまう。そんな生活を続けていたら、過労で倒れるのは必然的だった。
「なんでそんな働いてんだよ。スナックだけでも生活はできてんじゃん」
「それだけじゃ、進学のお金が足りないでしょ」
表情一つ変えず、当たり前みたいな顔をして言ってくる。けど理解が追い付かず、「は?」と声を漏らさずにはいられなかった。
「俺、進学するなんて一言も言ってないけど」
「だって今時、大学に行くのが当たり前なんでしょ? 私は高卒だから、そこらへん詳しいことは分かんないけど」
つまり、俺が大学に行くかもしれないから、そのためにもお金を稼いでいたということだろうか。そんな素振り見せたことがないし、そもそも俺の進路を気にかけていたことさえ知らなかった。
でも、そんなの分かるわけないじゃんか。
これまでずっと、俺のことなんてどうでも良いんだと思っていたんだから。
「何で俺のためにそこまでしてんだよ」
嘆くような声で聞くと、母さんは困ったように頬をかく。
「母親らしいことは何もできてないから、せめてお金だけは困らせないように出してあげたいと思ったの」
目をそらしながら語気を弱くして言葉にする。でもそれは嘘を吐いているからではなく、恥ずかしさのようなものが伝わってくる。
思えば、衣食住で困ったことはなかった気がする。それは普通のことかもしれないけど、ある意味、当たり前のことではないのかもしれない。俺に対して何の情もなければ、自分勝手に生きて、見捨てることもできるのだから。
頭をかき、唇を丸める。いきなり俺のためと言われても整理がつかず、頭の中がこんがらがっていた。
それでも、まず伝えることがあるのは確かだった。
「俺のためにありがと。でも、もう無理すんなよ。俺もバイトしてるし、それで十分だから」
じっと母さんのことを見据えて言葉にする。すると目を見開き、俯きながらも頷いた。そして、もう一つ伝えておかなければいけないことを思い出す。
「あと、進路はまだ決められてなくて考え中」
「そう。じっくり考えて決めて」
柔らかく目じりを細め、俺は頷く。この会話を元々していれば、母親は無理することはなかった。
子どもの進路を知るのは親の責任なのかもしれない。でもそれは他人にとっての当たり前で、俺たちは違う。いや、違っても良い。母さんが口下手で、そういうコミュニケーションが苦手なら、俺から寄り添えば良いのだから。まあ、俺も人のこと言えたわけではないけど。
「何かしてほしいことある? ご飯とかは準備しようと思うけど」
そう聞くと、母さんは眉間に皺を寄せて悩み込んだ後、そういえばと顔を上げた。
「また、玉子焼き作ってくれないかしら。あの時は嬉しかったんだけど、どう反応して良いか分からなくて断っちゃったから」
「……いいよ」
俺はそっぽを向き、頬をかきながら頷いた。
嬉しくもありつつ、気恥ずかしくもあった。
あの時は鬱陶しがられていたと思っていて、まさか喜んでいるとは思いもしなかったから。
やってみなきゃわからない。
耀には偉そうに言っていたくせに、実のところ俺自身が勝手に決めつけていて、殻に閉じこもっていたのかもしれない。
小学生の頃に同級生に避けられてから、俺は普通に青春を送ってはいけないんだと思い込んでいた。たしかに、当時は無理だった。
でも今は、周囲も俺を受け入れてくれるかもしれない。もちろん今まで散々不真面目だったのだから、これからの行動次第ではあるんだけど。
少なくとも、高校だけはしっかり卒業しよう。
たとえ今回もクラスメイトに受け入れられなくても、それだけは全うしよう。
そのためにも、授業も学校行事も真面目に参加する。まずはこれから開かれる学園祭の仕事からだ。今までサボっていた分、馬車馬のように働かないと。
俺は、普通に青春を謳歌したかっただけなのかもしれない。
そしてそれが叶ったとしても、もう耀とは関わらない。
どれだけ真面目に生活をしていようと、そんなこと霞んで見えなくなってしまうほど、俺と彼女の存在は不つり合いだった。
俺の父親は、妊娠発覚後すぐに母さんの前から姿を消したクズ野郎。
顔も知らないそんな化け物の血の半分が、今も俺の血管を流れているのだから。
学園祭当日。
といっても二日目の最終日。
さすがに昨日の今日で、倒れたばかりの母親を一人にするのは心配で、家に残ることにした。基本的に会話はほとんどなかったけど、一緒に家事をしたり、ご飯を食べている時に少し話したり、思い出せないくらい久しぶりに親子っぽいことをした気がする。
今日の朝も、母親の体調に異常がないことを確認してから登校していた。ひとまず学級委員に学園祭の準備をサボったことを謝罪した。周囲も含め呆気に取られていたけど、とりあえず宣伝ボードを持って宣伝と接客の仕事を割り振られた。
バイトで普段から接客しているから余裕だろ、と思っていたが、始めてみてから学級委員の思惑を知ることになった。他校の女子生徒や女子中学生、はたまた女子大学生にひたすら声をかけられ、面倒臭いなと思いながら。なるべく愛想悪くならないよう接した。その甲斐もあってか、列ができるほど人気になり、クラスメイトに感謝された。なんか想像していた仕事と違うなと思いつつも、喜んでいるなら良いかと納得することにした。
宣伝の後もずっと接客(ほとんどマスコット扱い)を行い、束の間の休息を得ることができた。ちゃんと休みたくて、人通りが少ない校舎裏でレンガの花壇に腰かける。
どっと疲れが押し寄せてきて、思わずため息が零れると、スマホから着信音がなる。クラスのグループトークに一応入ってはいるから、もしやまた仕事かと、意気込んできたわりにげんなりしながらスマホを取る。しかし、そこに映っていたのは由羅からの通知画面だった。
『蓮、今どこにいる?』
『北校舎二階の廊下』
『腹減ってるよな?』
『めっちゃ減ってる』
『おっけー、今から向かうわ』
そう言って一方的に通話を切られ、五分後にひらひらっと手を振りながら現れた。
「ほい、フランクフルト」
「……なんか焦げてね?」
「ま、それも学園祭の醍醐味だって」
そう言って由羅は焦げていないフランクフルトを食べ、イラっとしつつも奢てもらったからには文句は言えないと黙ってかじる。中はしっかり火が通っているから味はおいしかった。
窓を空け、外の空気を感じながらぼんやり下を眺める。普段とは違い、制服以外の恰好も入り混じり、まさにお祭り騒ぎと言った感じ。あの場にいる時は疲れるなっていうのが素直な感想だけど、遠くから眺めている分には悪くないのかもしれない。なんか、花火を見ているような感じで。
「楽しそうだな」
「悪くないってくらい」
「ふーん。てか、学園祭来るとか、何か心境の変化でも?」
マイクを向けるみたいにジェスチャーをしてきて、それを押しのけながら「まあ」とだけ返す。
「しっかり仕事もしてたみたいだしね」
「見てたのかよ」
「囲まれてすっかりアイドルみたいで、見てて面白かったよ」
唇の片端を上げていて、俺はそれを一瞥だけして頭をかく。何言ってもおちょくってくるだろうから、面倒で言い返すのはやめた。
「これからはちゃんと学生生活送ろうと思ってる」
心境の変化、の問いに答えると、彼は大して驚いた様子も見せずに「そっかそっか」とだけ言った。
「聞いといてそれかよ」
「いや、そうだろうなって思っただけ。てか、その方が蓮には合ってると思うし」
首を傾げずにはいられなかったけど、真顔で言ってくるものだから、冗談ということでもないのだろう。だったら、なおさらそんなことを言う意味が分からず聞いてみると、由羅はふっと笑みを浮かべた。
「蓮ってさ、無理してるっていうか、真面目に悪いことしようとしてる感あるよな」
そんなわけないだろ。そう言葉が出かかるけど、思い直してしまい込む、少し前ならすぐさま否定していたけど、今は何となくわかってしまった。
「煙草も酒も耐性あるだけで、別に好きじゃないだろ」
「よくわかったな」
沈黙を肯定と取ったのか、付け加えて指摘され、俺はつい即答してしまった。まさか気づかれているとは思いもしなかった。煙草も酒も、ノリに合わせていただけだったから。まあ、煙草は中毒気味になって自ら吸うようになっていたけど。
「見てればね。この際、禁煙禁酒しちゃえよ」
「そうだな、それも悪くないな」
「じゃ、これは俺がもらっちゃいます」
胸の内ポケットからひょいっと抜き取られ、呆気に取られながらも苦笑いせずにはいられなかった。
「お前、ただ欲しかっただけだろ」
「違う違う、優しさだよ」
あたかも善意みたいな言いように呆れて言葉も出ず、頬杖をついて再び窓の外へと身を乗り出した。
すると、とある二人組が視界に入る。
でも、俺は見て見ぬふりをして、別のところへと視線を向ける。
「蓮の好きな子、あの子でしょ」
けど、隣からわざわざ指を差してまで聞かれ、睨みつける。
「だから好きな子じゃねぇって」
「はいはい。でも、あの子ではあるんだろ?」
へらへらした笑みを向けられ、俺は口を閉ざしたまま別方向に顔をそらした。
「言っとくけど、バレバレだかんね。すれ違う時、いつも不自然に真顔になるから」
やれやれ、といたように手と首を振っているのが横目で見え、それでも俺は無視を貫き続けた。
十中八九、あの二人は耀と柳原愁で間違いない。耀のことを見間違えるはずもなく、柳原からは学園祭を一緒に回ると堂々宣言されたのだから。
「良いの? イケ眼鏡くんとデートしてるけど」
「良いも何も、俺には関係ないことだろ」
耀が柳原を受け入れた。ただそれだけのことで、そもそも断った俺にどうこう文句を言う権利があるはずもない。
「もしそうなら、もっと何てことない顔しろよな」
「別に、いつも通りだろ」
そうやって顔を隠すようにそっぽを向くと、横からデカめのため息が聞こえてきた。
「仮に由羅に好きな子ができたらどうすんだよ」
「がんがんアピールする。さっさと付き合いたいし」
「相手を幸せにできる保証もないのに?」
「そんなの気にしないね。まず考えるのは自分のことだろ」
当たり前のように言い、呆れたように小さく息を吐く。
「なんかごちゃごちゃ先回りして考えすぎじゃね? 好きなら好きで良いじゃん」
じっとこっちの目を見てくるけど、俺はずっとそらし続けた。由羅の言う通りなのかもしれないけど、俺はそうあってはいけない。
俺も父親のようにクズで、実際俺は今まで不特定多数の女子と遊んでいた。諦めていたからとはいえ、間違いなく父親の色が出ているのだと思う。
そんな人間が、耀をこの先幸せにできるとは到底思えない。
でもそれは、耀のためというだけではなく、ただ単に。
「怖いのかもな。不幸にするかもしれない未来を想像すると」
思わず出た言葉に、由羅は困ったように首を傾げていた。でもそんなの当たり前で、まだ何も始まっていないのに、こんなことに怯えているなんて意味が分からない。
でも俺にとっては、簡単に想像できてしまう未来。
酔いつぶれた母さんが父親を語るとき、いつだって惚気ながら涙を流す。幸せな部分だけに光を当てて、最低な部分を煙に隠す。
俺も将来そうなってしまうのではないかと、耀に出会ってから怖くて仕方がなかった。
「蓮って、案外うじうじしてるよな」
「うっせーな」
ぐりぐりと肩を押してきて払い退けると、へらへらと笑ってきた。
「ま、そういうところ嫌いじゃないけどなぁ。ただのイケメンとかつまんねーし」
真正面からそんなこと言ってきて、こっ恥ずかしくないのかと思いつつ、この正直さが由羅の良いところなんだろうなと思った。
由羅みたいに自分らしく生きられたら良いのかもしれない。
「俺の父親さ、クズなんだよ」
感化されてか、ため込んでいたものがあふれ出てくる。いきなりのことに由羅は一瞬ポカンとした表情になるけど、すぐに相槌を打って聞く姿勢を取ってくれた。正直、面倒臭がられてもおかしくないと思っていて、その分安心してか次へと言葉が零れる。
「子どもができたのに逃げて、母さん一人に全部押し付けて。だからその血を継いでる俺も同じなんじゃないかって」
「それ、関係あんの?」
言葉を被せるように言われ、俺は眉をひそめてしまう。
「いや、血は繋がってるんだから関係あるだろ」
「くだらな。たとえ血が繋がってても蓮は蓮だし、考えても無駄だろ」
俺は俺、か。
たしかに言う通りなのかもしれない。
それでも、俺は下を向かずにはいられなかった。
父親と同じ過ちを犯すとは限らないのに、常に頭の隅に過っていた。耀と一緒にいる時もそうだけど、他の女子と遊んでいる時もそう。傷つけないように、深い関係にならないよう壁を作っていた。
誰も傷つけたくないとか、そういう正義感ではないのかもしれない。
ただ、傷つけるような人間になることを恐れているだけだった。
傷つけたくなかったのに、結局は耀のことを傷つけてしまった。
だったらもう、何だって良い気がしてきた。
「行って来いよ。当たって砕けろ」
そう背中を強く叩かれ、「いて―な」と文句を言いつけるけど、自然と表情は笑顔になっていた。
「行ってくるわ」
階段を下り、中庭まで一気に駆け抜ける。まだいるか分からないけど、それでも見つけるまで探し続けるしかない。
耀は今も、あいつと一緒にいるんだろうか。
学園祭が終わった後も、あいつと過ごすんだろうか。
耀は、あいつのことが好きなんだろうか。
もやもやと立ち込めてきて、嫌で嫌で仕方がなくて、そしてもう認めるしかない。
俺は、耀のことを好きになってしまった。
いや、ずっと前からそうだったのかもしれない。けど認めることができなかったのは、耀が眩しすぎて、目をそらすことしかできなかったから。
ここで何もできず、今後耀と関わることもなく、何より隣に立つのが俺じゃないことが許せない。
気持ちを伝えたところで、何も変わらないかもしれない。
それでも良いじゃないか。
今後も一生後悔するよりは。
腹を括ってぶつかるしかない。
今までずっと頭に蔓延りついていた恐れが、視界を灰色で覆うように、前に進むのを躊躇わせてくる。
それでも必死に、一歩一歩足を進める。
煙の中の俺を照らしてくれた、耀へと手を伸ばすように。
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