第9話
皆神さんは全てを話し終えると、「俺の役割はここまでだ」とでも言うように、あっさりと私たちをマンションから追い出した。
「あとはお前らの問題だ。二人で、ちゃんと話せ」
そう言って、バタン、と閉められたドアの音が、やけに冷たく響いた。
黙って並んで、夜道を歩く。
幸い終電までは、まだずいぶんと時間があった。
最寄り駅までの、十分ほどの道のり。
数時間前、私が期待と不安を胸に、逆方向から歩いてきた道。
あの時は、こんな……『世界』の真実を突きつけられることになるなんて、夢にも思っていなかった。
ただ、レイと話がしたくて必死だったあの時の自分を、少しだけ、羨ましいと思った。
……沈黙が、重い。
耐えきれなくなって、私の方から口を開いた。
「……レイのあれって、超能力じゃなかったんだね」
無理矢理作った、明るい声。
それは、夜の空気に虚しく吸い込まれていった。
レイは、そんな私をちらりと見ると、静かに言った。
「……この近くにも、公園がある。少し話さないか」
いつも帰りに寄っていた公園とは違う場所。
こぢんまりとしているけれど、ベンチがいくつか置かれていた。
私たちは、並んでそこに腰を下ろす。
三月の夜の空気は、まだ少し肌寒い。
でもその冷たさの中に、ほんのりと、春の気配が混じっているような気がした。
もう、すぐそこまで、春が来ているのかもしれない。
そんな、現実逃避にも似たことを考えていると。
……隣でレイが、ふっと、息を漏らすように笑った。
「……あの人なりの、優しさなのか、厳しさなのか……」
そう呟くと、彼は私に向き直った。
「あのね……さっき、皆神さんがあえて言わなかったことがあるんだ。たぶん、俺自身の口から、光凛ちゃんに言えってことなんだと思う」
「……なんのこと?」
私に問われたレイは、すう、と、細く一筋息を吸った。
「前に、俺の力のトリガーが光凛ちゃんだって言ったの、覚えてる?」
私は、こくりと頷く。
私のことで、強く願ったり感情が昂ぶったりすると、力が発現する、と。
「小さな干渉は、一見すると『超能力』に見えるような形で、これまでも発現してきた」
だけど、じゃあ、と、長いまつげを伏せたまま、彼は続けた。
「光凛ちゃんの『世界』そのものを破壊しかねないほどの、大きな干渉。それほどの強い力が発現する、その、決定的なトリガーがなんなのか。……お父さんは、俺について調査する中で、そこまで突き止めていたんだ」
知らない公園の、頼りない街灯の光の下で見るレイの横顔は、ここ数日見ていたような、表情の抜け落ちたものではなかった。
どちらかというと、昔の優しいレイにもどっているかのような微笑み。
けれどそのいっぽうで、どこか吹っ切れたような、穏やかな、これまで一度も見たことがないような表情にも見えた。
彼は、柔らかく口角を上げたまま、続けた。
「それほどの、強い力を引き起こす原因。それは、この世でもっとも強い、人の感情……」
つまり、愛。恋なんだ。
そう言ってレイは、私を、まっすぐに見つめた。
虚を突かれて、言葉を失う。
「だから……最初は、光凛ちゃんを好きにならなければいいんだって、思った。
家を出て会わないようにして、物理的に距離を取れば、この強い感情も、いつかは薄れていくかもしれないって……そうすれば大丈夫だって、思ったんだ。でも……」
レイは、自嘲するように、笑った。
「……だめだった。この数日間で、はっきりと思い知った。どこにいても、たとえ、会えなくても、俺は、光凛ちゃんのことばかり、考えてしまう。だってここは、光凛ちゃんの世界なんだ。きっと、俺は……光凛ちゃんに会うためだけに、こうして、人の姿になったんだと思う」
おこがましいかもしれないけど、と、彼は続けた。
「俺は……たぶん、ベガなんだと思う。今までの数えきれないくらいの人生で、光凛ちゃんが、ずっと、ずっと、あの星に話しかけ続けてくれたから。その想いが、嬉しくて、寂しくて……俺も、光凛ちゃんに会いたいって、強く、願ってしまったんだ」
だから、俺が選ぶ道は、一つしかない。
「八十億の人類には含まれない、ただのバグでしかない俺は、消える。ううん、もともと、存在してはいけない、エラーだったんだ」
だからね、光凛ちゃん、と、彼は優しく続ける。
「だから、俺が消えることは、この世界があるべき正しい姿に戻るって、ただ、それだけのことなんだよ」
悲しむようなことじゃないんだ。
そう言って彼は、あまりにも寂しそうに……微笑んだ。
私は、レイの声を、話しを聞いているあいだじゅう、あふれ出る涙を止めることができなかった。
本当に?
本当にこの世界は、ただのシミュレーションなの?
私が今流している、この熱い涙も。
胸が張り裂けそうな、この痛みも。
レイと過ごしてきた十三年間の、キラキラした思い出も。
全部、全部、本当は、『無い』ものだなんて。
だって。
だって、今こうして、レイは私の目の前にいる。
こうして触れることだってできる。
私は無意識に、彼の手に、自分の手を重ねていた。
「……あったかい」
私のその言葉で、レイも、私の考えていることがわかったようだった。
「……うん」
そう言って彼は、私の手を、強く握り返した。
そして、その手をゆっくりと離すと……、
ふわり、と、私の身体を優しく抱きしめた。
「ごめんね」
その声は静かだったけれど、揺るぎない、確かな決意に満ちていた。
……だめだ。
この人は、本当に消えてしまうつもりなんだ。
私に、こんな幸せでせつないぬくもりと、抱えきれないほどの記憶だけを残して。
だめだ。
そんなの、許さない。
レイの腕に抱かれていろんなことを考えるうちに、私の中に強い感情が育ち始めた。
それは、間違いなく……「怒り」だった。
それが何に対しての怒りなのかは、自分でもよくわからない。
存在しないという『世界』そのものなのか、
地球を壊したという太古の人類なのか、
私を被験者に選んだお父さんなのか、
私に全てを教えて選択を迫る皆神さんなのか、
それとも……消えようとしている、レイなのか。
とにかく私は、猛烈に怒っていた。
冗談じゃない。
このまま大人しく納得なんてしてやるもんか。
そう決意した私はレイの肩に手を置き、その身体を、ぐっと引き離した。
そして正面から、彼の瞳を、まっすぐに見つめた。
涙で視界は滲んでいたけれど、私の目にもまた、さっきまではなかった強い決意が宿っていた。
「ここは、私の世界なんでしょ? だったら、私が、決める」
「光凛、ちゃん……?」
「勝手に一人で消えるなんて、絶対に、許さない」
レイが自分を愛したら、この世界が消える?
「……上等じゃない。やれるもんなら、やってみなさいよ」
そうだ。
お父さんは私を「観察」していると、皆神さんは言っていた。
ならば。
私は、誰もいない公園で、満天の星に向かって叫んだ。
「お父さん! 聞こえてるんでしょ! 私はレイを、消させたりしない!」
そうだ。
皆さんは私にレイが消えるか世界が消えるかの二択を迫ったけれど、私はどちらも選ばない。
ここがもともとは存在しないインチキの世界だっていうなら、他の解決策が急に出てきたっていいじゃないか。
諦めなければ、きっと何か方法が見つかるはずだ。
「私が……私が、なんとかしてみせるから! あんたはそこで、黙って見てればいい!」
驚いて、空に向かって叫び続ける私を見つめるレイ。
その瞬間。
世界が、ぶわっと、光に満ちた。
都会の夜空では決して見ることのできない、六等星よりもまだ暗い星。
星空のための特区かプラネタリウムでしか見られないレベルの星まで全て見えるようになった満天の星たちが、私たちの頭上に広がっていた。
そうだ。
普段は見えていないだけで、本当はこれだけの星たちが、いつだって夜空には輝いている。
今は見つかっていない希望も、きっとどこかにある。
そう思って見上げていると、雲一つないはずの夜空を、稲妻のような眩い光の筋が、何度も、何度も、切り裂いていく。
これは、レイの力。
私たちの想いに、呼応している。
怖くはなかった。
空全てに干渉するほどの彼の力を見せつけられても、不思議と恐怖は感じなかった。
むしろ、レイの想いの強さがこれほどまでに『世界』を揺るがすことができるのだということが、嬉しくてたまらなかった。
「……ずっと、一緒だよ」
前にレイが、私に言ってくれた言葉。
今度は私が、彼に言う番だ。
星々の輝きの下で、私は、もう一度レイの手を取った。
彼はしばらく、ためらうように揺れていたけれど……、
やがて、ゆっくりと頷き返してくれた。
その笑顔は、泣き出しそうに歪んでいた。
*
それから卒業式までの、高校生活最後の一週間。
レイは家に戻り、天文部にも、また顔を出すようになった。
バイト終わりにも、必ず迎えに来てくれる。
嘘みたいに、穏やかで幸せな日常が戻ってきた。
佳乃との、くだらないお喋り。
天文部の後輩たちの、賑やかな声。
月島さんの、ぶっきらぼうだけど優しい指導。
そんな当たり前の日常が、あまりにも愛おしくて。
皆神さんから聞いた、あの『世界』の真実なんて、まるで悪い夢だったんじゃないかと思えてしまうほどだった。
私は、油断していたのかもしれない。
レイとまた一緒にいられることが、嬉しくて、楽しくて。
私たちはただ、残された時間を惜しむように、ひたすら幸せに過ごすことだけを考えていた。
彼が時折、未来の話になると寂しそうな顔をすることにも、気づかないふりをして。
観測会の前日、一度だけ、皆神さんから電話があった。
「レイの様子は、どうだ」と聞かれ、私はありのままを伝えた。
「毎日、笑ってます。すごく、楽しそうです」
「……そうか」
それだけを言って、彼は、電話を切った。
そして、観測会の夜がやってきた。
三月十二日。
卒業式の、前日。
屋上は、後輩たちの楽しそうな声で賑わっていた。
「光凛先輩、明日、卒業なんですよね……。これで、本当に、最後なんですね」
彩葉ちゃんが、潤んだ瞳で私を見上げてくる。
「大丈夫だよ。就職先、すぐそこのプラネタリウムなんだから。いつでも遊びにおいで」
「えー、じゃあ、来年度の部の活動に『毎月ぶちょーのプラネタリウムに行く』を加えよう!」
「だめです新部長、部費が死にます」
調子のいいことを言う健太郎くんを、泣き笑いで彩葉ちゃんがしっかりとたしなめる。
なるほど、レイが言うように、二人は案外いいコンビなのかもしれない。
卒業前になんだか安心できてよかった、と、後輩たちを見ながら私は思ったのだった。
観測会が始まって、一時間ほどが経った頃だった。
レイが、私の耳元で、こっそり囁いた。
「……ねえ、二人で、抜け出しちゃわない?」
いたずらっぽく笑うその顔に、私が逆らえるはずもなかった。
そしてレイと私は、後輩たちに、心の中で「ごめん」と手を合わせ、そっと屋上を抜け出した。
レイに手を引かれて向かった先は、見晴らしのいい、空がとても広く見える、高台の公園だった。
……高台の、公園?
こんな場所、この街にあっただろうか。
この街に生まれ、この街で星を好きになり、この街の夜を知っている私が知らない公園があるなんて――。
不思議に眉を寄せて空を見上げた瞬間、息が、止まった。
天の川。
アルタイル。
デネブ。
そして――ベガ。
これは……三月の、今の夜空じゃない。
この星々は、間違いなく――
「光凛ちゃんの好きな、ベガがいる、夏の夜空だよ」
振り返ると、レイが穏やかに笑っていた。
そしてゆっくりと私に近づき、その大きな両手で私の頬を包み込んだ。
……ああ。
わかってしまった。
この公園も、この季節はずれの夜空も……全部、レイが私のためだけに作ってくれたものなんだ。
そして、彼が今から……私に何を言おうとしているのかも。
いやだ。
いやだ、いやだ。
絶対に、いや。
「ごめんね、光凛ちゃん。俺、先週光凛ちゃんに言わなかったことがあるんだ」
「聞きたくない!」
両耳をふさいで彼の言葉を聞くまいとする私を、駄々っ子を前に途方に暮れてるみたいな顔でレイが見る。
「お願いだから、聞いて。俺の……最後のお願い」
その言葉に、涙が溢れて止まらなくなった。
「俺が消える日は、今日なんだ。小惑星が地球に一番近づく時間が、最後の合図」
「……っ!」
「俺はやっぱり、自分が消えることを選んだ。でもそれは、俺が、いてはいけない存在だから……なんてネガティブな理由じゃない。光凛ちゃんの世界を……いつか本当の肉体を持ってちゃんと『生きる』ことができるかもしれない光凛ちゃんの未来を、守りたいからなんだ」
私は、声もなく、泣きじゃくる。
「この一週間、本当に、楽しかった。ううん……十三年間、光凛ちゃんと一緒にいられて、本当に、幸せだった。……だからもう、後悔は、ないんだ」
晴れやかな笑顔で、彼は言う。
「だめ! お父さん、やめて! レイを、消さないで!」
私は、天に向かって泣き叫ぶ。
「もう、無駄だよ。俺が一週間前に、頼んだんだから」
「そんな……! こんな、思い出だけ抱えたまま、私、生きてなんていけない……!」
「安心して」
レイは、衝撃の事実を告げた。
「俺が消えたら、光凛ちゃんの記憶からも、俺は消えるから。もともと、この世界にいなかったことになる。だから、大丈夫」
「全然、大丈夫じゃない……!」
そんな私をなだめるように、レイは夜空を指さした。
「ねえ、見て。ほら、ベガ」
つられて、見上げる。
無数の星々の中で、ひときわ青白く、強く、輝いている。
そのあまりの美しさに、私は一瞬、言葉を失う。
そんな私を、レイが後ろから、そっと抱きしめた。
そして、いつものように悪戯っぽくウインクしてみせる気配がした。
「最後の力を振り絞って、夏の夜空……見せられて、よかった」
優しい声が、背中から、身体中に響き渡る。
「……最後なんだから、笑ってよ、光凛ちゃん」
「……無理だよ」
「無理でも、笑って。笑顔が、見たい」
そう言って、彼はポケットから自分のスマートフォンを取り出した。
「これ、ずっとここにつけてたけど……光凛ちゃんが、持ってて」
バレンタインに私が贈った、星のチャーム。
彼はそれを、自分のスマホから、外した。
そして私のスマホに、自分のチャームをつけてくれる。
私のスマホのストラップで、同じ星のチャームが二つ、並んで揺れる。
「……できた。ふたご星」
嬉しそうに、彼は言った。
その顔を見て、私は本能的に理解した。
もう、わかった。
止められないんだ。
レイが間もなく消える……それはもう、止めることのできない『事実』。
ならば、今言わなくては。
言えなくなってからじゃ、遅い。
月島さんの言葉が頭の中を回る。
「レイ!」
私は、彼の名を叫んだ。
この世界が、嘘でも。
この身体が、データでも。
この想いだけは、絶対に、嘘じゃない。
「好き……! 大好き! レイの、全部が……全部、大好き!」
ああ、言葉というのは、なんと無力なんだろう。
どうしたら、この気持ちが、全部、伝わるんだろう。
そんな私を、レイが、驚くほどの、強い力で、抱きしめた。
「俺も……好きだ。愛してる。愛してるよ、光凛……!」
声から、腕から、体から。
レイの全てから、その言葉が真実なんだと伝わってくる。
私も、ありったけの力でレイを抱きしめ返した。
「消えてしまっても、俺はずっと、光凛を想ってる。この世界のどこかから、必ず、見守り続けるから……」
「……うん。信じる。……想いは、奇跡を、起こすかもしれないもんね」
言葉で足りないなら……と。
私たちはただ……強く、強く、抱きしめ合った。
不意に、レイの手が私の頬を包み、真正面から私を見つめる。
私は泣きながら、精一杯の笑顔を作った。
「……やっと、『光凛』って呼んでくれた」
その言葉に、レイも嬉しそうに笑って頷いた。
その細められた目尻から、一筋の光凛が……涙がこぼれ落ちるのが、見えた。
「光凛……」
もう一度私の名前を呼ぶと、彼はゆっくりと、顔を近づけ……
その唇を、そっと、私の唇に重ねた。
これが、最初で、最後の――。
その瞬間。
世界が割れるような轟音が響き渡り、空が一瞬、真昼のように白く輝いた。
それと同時に。
腕の中に感じていたレイの温もりも、重みも、その姿も。
全てが、ふっと消えて、なくなった。
ああ、ベガ、やっぱりきれいだな――。
そう思ったのを最後に。
私の意識は、ぷつりと途絶えた。
* * *
彼は、消えた。
娘のデータに対する、最大の脅威は、去った。
これで、彼女の人生のデータは、また、平和に、走り続けるだろう。
果たして、これで、本当によかったのだろうか。
いつか、人類を、私の娘を……本当の意味で、この地球に復活させることなんて、できるのだろうか。
もう、一万二千年も、我々はこの地下で研究を続けているというのに。
科学には、限界があるのかもしれない。
それを超えるのは、あるいは、人の強い『想い』や『奇跡』としか呼びようのない何か、なのかもしれない。
――現に。
『RAY』が消えても何も変わらないはずだった、この『光凛の世界』は。
彼の消失以来、たった一つだけ、変わってしまった点がある。
地表に設置された観測モニターに映る、夏の夜空。
その、天頂で、ひときわ強く輝く、青白い星。
娘が、愛してやまなかった、こと座の、ベガ。
それは今、北の空で動くことなく、人々の道しるべとなっている。
そして、彼女の世界のベガは――。
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