第8話

 あの日から三日が経った。

 レイは、まだ家に帰ってこない。

 お母さんには、『落第しそうな同級生がいるから、しばらく泊まり込みで勉強を見てあげることになった』と、そう説明しているらしかった。

 そういえば、レイは学校の成績もずば抜けて良かった。

 その説明には、十分すぎるほどの説得力があったのだろう。

 お母さんは、「まあ、大変そうねぇ。それにしてもレイくんは優しいわね」なんて言って、少しも疑っている様子はなかった。

 でも、私だけは知っている。

 レイは、私と顔を合わせたくないのだ。

 行き先だって、友達の家なんかじゃない。

 きっと、あの皆神さんのところに身を寄せているに違いない。


 私は、いつも通りの日常を送っているふりをしながら、頭の中では、ずっとレイのことばかりを考えていた。

 ううん、違う。

 考えようとしていた、という方が正しい。

 お父さんの突然の出現。

 レイに手渡された、謎の封筒。

 そして、告げられた、残酷な別れの言葉。

 あの時の、感情を全く読み取らせない、能面のようなレイの横顔。

 クリスマスの夜に、バレンタインの日に、私だけに見せてくれた、あの優しい笑顔。二つの表情が、頭の中で、ぐるぐると、何度も何度も、巡り続ける。

 考えても、考えても、納得のいく答えなんて、どこにも見つからない。


 そして、三日目の夜。

 私は、ようやく、一つの結論にたどり着いた。


 やっぱりレイと、直接話をするしかない。

 もう、逃げない。

 逃げたくない。

 このままで終わらせてしまったら、私たちが一緒に過ごしてきた十三年という年月、その全てが、まるで嘘だったみたいになってしまう。

 そんなこと、絶対に、させない。


 翌日の放課後。私は、

 決行することにした。

 今のレイに直接会うための、唯一の方法。

 それは……尾行だ。

 幸い三月にもなると、私たち三年生の授業なんて、もうあってないようなもの。

 先に学校を出て、まだ授業中の一年生の昇降口が見える場所で彼を待ち伏せるのは、たやすいことだった。

 校門付近の物陰に身を潜めながら、心臓がどきどきと鳴る。

 怪しい人に見えないだろうか。

 不審者だと思われて、通報されたりしないだろうか。

 そんな心配をしながら、私は、空を見上げた。

 冬の、頼りない午後の光。

 見てて、ベガ。

 私、もう、逃げないから。

 心の中で、遠い空の向こうにいるはずの、私の星に、そう誓った。


 ほどなくして、授業終了のチャイムが鳴り、生徒たちが校舎から溢れ出てくる。

 その中に私は、見慣れた長身のシルエットを見つけた。

 ……レイだ。

 彼は、誰と話すでもなく、足早に校門へと向かっていく。

 見失わないように、でも、見つからないように。

 慎重に距離を保ちながら、彼の後を追った。

 

 電車に乗り、揺られること、五駅。

 レイが降りたのは、少し下町の雰囲気が残る、賑やかな駅だった。

 そこから商店街を抜け、住宅街を歩くこと、十分ほど。

 彼が足を止めたのは、私が想像していたような古い木造家屋なんかではなく、小綺麗で、近代的な五階建てのマンションの前だった。

 レイは、慣れた手つきでポケットから鍵を取り出すと、エントランスのオートロックを解除し、中へと消えていった。

 え……。

 私は、その場に立ち尽くした。

 どうしよう。これじゃあ、中に入ることさえできない。

 皆神さんみたいな人はきっと、よくあるマンションを嫌って古民家に近い古い家に住んでいるに違いない、などと思い込んだ私がバカだった。

 部屋番号もわからないし、こうなるとそもそも、ここが本当に皆神さんの家だという確証だって……。

 まさかお母さんへの言い訳は本当で、ここには誰か同級生が住んでるんじゃ……?

 不安に駆られながら、マンションの下を意味もなくうろうろと歩き回っていた、その時だった。


「おたく、不審者?」


 不意に、背後から声をかけられ、心臓が喉から飛び出しそうなくらい、驚いた。

 恐る恐る振り返ると……、

 そこに立っていたのは、大きなレジ袋を両手にぶら下げた、皆神さん、その人だった。


「ああ……ええと、レイの、姉ちゃん……じゃなくて、お姉さん、つーか」


 名前、覚えてないんだな……。

 そう思って、私は、少しだけむっとしながら自分から名乗った。


「橋本光凛です」

「そうそう、光凛ちゃん! いやあ、知ってた知ってた」


 胡散臭い笑顔で、彼は言う。

 私はジト目で彼を見返した。

 皆神さんは、そんな私の視線など全く意に介さず、続けた。


「で? その光凛ちゃんが、何の用……じゃねえよな。レイに、会いに来たんだろ」

「……はい」


 学生鞄を握る手に、ぐっと力がこもる。


「いるぜ。来なよ」


 彼は、あまりにもあっさりと、私をマンションの中へと招き入れようとした。

 その態度に、私が驚いて立ち尽くしていると、皆神さんは、ちらりとこちらを振り返って、言った。


「どっちにしろ、このままにしとくのは、良くねえって、俺は思ってたからな。……あいつにも、何回もそう言ったんだが、聞かねえし」


 ぶつぶつと呟く彼の両手のレジ袋が、目に入った。


「あ、あの、持ちます」

「ん? ああ、いいっていいって。レディにこんなもん持たせられるかよ」


 そう言いながら、彼は、ちらりと袋の中身を見せた。

 中には、プラスチック製のカラフルな食器がたくさん入っていた。


「百均で買ってきたんだ、割れねえやつ。あいつが来てから、うちの陶器とガラスの食器、ことごとく割られちまってな。かなわん」


 そう言って彼は、からりと笑った。

 私は、なんだか申し訳ない気持ちになって、思わず「すみません」と頭を下げた。


「まあ、あんたのせいじゃねえ……いや、そんなことも、ないか」


 意味深な言葉を呟きながら、私たちは、エレベーターで三階へと上がった。

 鍵を開け、ドアを開け放つと、皆神さんは、大声で言った。


「ただいまー! おい、レイ! お客さんだぞー!」


 その声に、リビングのソファに座っていた人影が、驚いたように、こちらを振り向いた。

 レイだった。


「……光凛……ちゃん? なんで、ここに……」


 彼は、信じられない、というように目を見開いている。

 その顔を見た瞬間。

 こんな状況だというのに。

 ちゃんと、話し合うために、来たはずなのに。

 ああ……会いたかった。

 久しぶりに見る、レイの顔。

 ひさしぶりに聞く、私の名前を呼ぶ、レイの声。

 嬉しい、という気持ちが、一番先に、心の奥から溢れ出してきた。

 でもすぐにあの夜の冷たい別れの言葉が蘇ってきて、胸がぎゅうっと締め付けられる。

 怒りと、悲しみと、そして、どうしようもないほどの、愛しさ。

 それら全部がぐちゃぐちゃに混ざり合って、涙が出そうになるのを、必死で堪えた。


「そういや、なんで来たのか、聞いてなかったな」


 皆神さんが、私たちの間に割って入った。


「まあ、どっちでもいいや。俺の方でも、あんたに話があったんだ。ちょうどよかった。今日は、全部、話す」

「やめてください!」


 レイが、叫ぶように、皆神さんを止めた。


「お、なんだ。居候のくせに、大家に口答えすんのか?」

「……っ」


 何も言い返せないレイに、皆神さんは、今度は、諭すような、真面目な声で語りかけた。


「レイ。お前の気持ちも、わかる。わかるけどな。彼女に、選択する権利すら与えないってのは、フェアじゃねえと、俺は思う。……だから、話す」


 選択する、権利?

 話が見えず、私の不安は、ますます大きくなっていく。


「ま、長くなるから、ゆっくり話そうや。何飲む? ビールか? チューハイか?」

「未成年です」


 私とレイの声が、綺麗にハモった。

 ははっ、そうだったな、と、皆神さんは頭をかきながら、スマートフォンを操作し始めた。


「じゃ、お前らは水かお茶な。親には、遅くなるからメシはいらないって、連絡しとけよ」


 そう言うと、彼は、返事も聞かずに、バスルームへと消えてしまった。


 思いがけず、二人きりで、部屋に残される。

 レイは、ばつが悪そうに、俯いたまま、私の方を見ようとしない。

 そんなレイを見ていたら、なんだかひさびさに『姉』のスイッチが入った気がした。

 私は、できるだけ優しい声で、レイに話しかけた。


「……久しぶり」

「……うん。三日、ぶり」


 あはは、と、乾いた笑いがこぼれる。


「三日じゃ、久しぶりってほどでもないか」


 私は、平静を装ったままそんなふうに答えながらも。

 レイも、あの日から毎日、指折り数えてくれていたんだろうか。

 だから、「三日ぶり」なんて、すぐに言えたんだろうか。

 そう思うと、少しだけ、嬉しくなった。


「……まあ、三日会わないくらいなら、どっちかの修学旅行とかで、なくはなかったし」

「……そうだね」


 その言葉を聞いて、改めて、思う。

 そうだ。

 そういう時以外は、私たちは、ほとんど毎日、一緒にいた。

 本当に、ずっと、一緒にいた。

 そしてこれからも、ずっと一緒にいられると……思っていた、のに。

 悲しい気持ちが、また、こみ上げてくる。

 でも、今のレイは、私以上に深く、傷ついているように見えた。

 彼は必死で、私から目をそらし続けている。

 その姿が痛々しくて、私は、自分の気持ちよりも彼を気遣う気持ちの方がまさってしまった。


「レイ」


 私の声は、書類だらけで乱雑なマンションの部屋の中に、思いのほか優しく響いた。

 その声に、レイの肩が、小さく、びくっと震えた。

 そして、彼がちらりと、私の方を見ようとした……その瞬間。

 ばさばさばさばさばさ!

 と、テーブルの上に積んであった書類の束が、まるで意思を持ったかのように勢いよく宙に舞い上がった。

 私のことを見ようとしただけで、こんなふうに彼の力は発現してしまうのか……と、驚く私。

 そして、それを見たレイはやはり、私から完全に視線を逸らしてしまった。

 それでも、私がさらに何か言葉をかけようとした、その時。


「おー、悪い悪い」


 バスローブ姿の皆神さんが、バスルームから出てきた。

 床に散らばった書類を見て、あーあ、と、小さく溜め息をつく。


「お前がやったのか」


 問われたレイは、黙ってうつむいている。


「ま、順番がばらばらになってもかまわんけどな。内容は全部、俺の頭に入ってるし」


 その時、ピンポーン、と、部屋のインターフォンが鳴った。

 モニターには、ピザ屋の配達員らしき姿が映っている。


「いつの間に……」

「さっき、お前らと話しながら、スマホでちょちょいっとな」


 皆神さんは得意げに言うと、配達員からピザを受け取った。

 そしてテーブルの上の書類を雑に脇へ払い除け、その上に、どかん、と、ピザの箱を置いた。


「ほら、熱いうちに、食おうぜ」


 彼は、冷蔵庫から缶ビールとペットボトルのお茶を取り出し、買ったばかりのプラスチックのコップとメラミン素材の小皿を私たちに手渡した。

 とりあえず乾杯、と言われたけれど、そんな雰囲気でもなく、私とレイは、黙ってピザに手を伸ばした。


「……ま、食いながら、気楽に、聞いてくれや」


 そう言って皆神さんは、ピザを頬張る私に、やけに真剣な顔で尋ねてきた。


「……美味いか?」

「え……? は、はい、美味しいです」


 焼きたての、サラミがたっぷり乗ったピザは、耳がカリカリでチーズがとろけて、確かに美味しかった。

 すると彼は、さらに真剣な調子で聞いてくる。


「今あんたは、ピザを食ってるんだよな? ……本っ当ーに、食ってるか?」


 そんなの、見ればわかる当たり前のことなのに。

 この人は、やっぱり少し、おかしいのかもしれない……。

 そう思ってレイを見ると、彼も、皆神さんと同じくらい真剣な顔で、ピザを食べる私を見ていた。

 わけがわからず返事ができないでいる私に、皆神さんは、前置きをした。


「今から、とんでもないことを言う。あんたには、俺の言うことが信じられないかもしれない。いや、どう考えても、信じられないだろう。……でも、おそらく。これが、この『世界』の、真実だ」


 そして彼が語り始めたのは、本当に、私の理解を、常識を、全てを、根底から覆すような、驚愕の物語だった。


「まず、結論から言う。この『世界』なんてものは、ない。あるように、あんたが『感じている』だけなんだ」


 VRゲームの話などを交えながら、皆神さんは、できるだけ、私にわかりやすいように、言葉を選んで説明してくれた。

 視覚に対するVRゴーグルのように、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、五感の全てに、完璧な情報が与えられれば、デジタルデータで作られた仮想世界は、現実と、区別がつかなくなる。

 今私がいる、この世界。

 ここはつまり、そういうことなのだ、と。

 このピザも、本当は、存在しない。

 この温度も、匂いも、この、美味しい、という感覚も。

 全て、私の脳が、「そう感じさせられている」だけ。

 なんで、そんな……。

 言葉を失くす私に、皆神さんは、あの日父がレイに渡した書類の束を見せた。

 そこに、全ての答えが書かれていたのだ、と。


 彼の話を要約すると、こうだった。

 遠い昔、巨大な隕石の衝突によって、地球の環境は、生物が住めないほど、壊滅的に破壊された。

 その危機を予測していた、私の父を含む一握りの科学者たちは、人類の種を保存するため、ある技術を完成させた。

 すなわち、『人間の脳を、完全にデジタルデータ化して、保存する』という技術を。

 そして、隕石落下前に、全世界八十億の人々の脳をデータとして保存することに成功した。

 いつか地球環境が再生した時に、その脳データを人工的に培養した『肉体』に戻し、人類を復活させるために。

 『アーク』と呼ばれるその地下研究施設は、まさに、現代のデジタルな『ノアの方舟』だったのだ。


「そして、今俺たちがいるこの世界は……『光凛の世界』。つまり、あんた一人の脳データの中に構築された、シミュレーション世界なんだよ」


 お母さんも、佳乃も、天文部の皆も、月島さんも。

 全て、私の脳内に存在する、ただの『登場人物』。


「まあ俺も、この世界じゃ、ただのモブキャラってわけだ」


 父たち研究者は、数ある脳データの中からいくつかを選び出し、こうしてシミュレーションを走らせて、その経過を観察しているのだという。

 私がその被験体の一人に選ばれたのは、もちろん、お父さんの娘だったから。

 お父さんは、私の人生を……その誕生から死までを、もう百回以上も、繰り返し見守ってきた。

 そしてその中で、レイだけが、唯一のイレギュラーだった。


 彼は、……人間じゃ、ない。


 このシミュレーション世界が長い長い年月をかけて稼働する中で蓄積されていった、膨大な量の、小さなバグや、エラー。

 それが奇跡的に人の形をとり、自我を持って、実体化した存在。

 それが、レイの正体。

 そして、彼の『超能力』は、この『光凛の世界』のプログラムそのものを破壊しかねない、危険なエラーだったのだ。


 そんなことを、言われても……。

『世界』のこと、地球のこと、レイのこと。

 ちょっと情報量が多すぎて、何を言っているか理解が追いつかない。

 なんなら、できれば理解したくないような情報も混じっていた気がする。

 どうしよう、このまま回れ右をして、今の話は全部聞かなかったことにしてしまいたい。


 けれど、それまで黙っていたレイが、非情にもそこで口を開いた。

 わかりやすく言うとね、と、小さな声で前置きして、彼が私に告げた言葉は、こうだった。


「つまり……俺がいると、光凛ちゃんのこの『世界』がなくなっちゃうかもしれないってことだよ」


 なんの感情もこもっていない、声。

 それを受けて、皆神さんも悲しそうに頷いた。

 彼が長年研究してきた「この世界は偽物ではないか」という仮説は、最悪の形で証明されてしまったのだ。


「残念ながら、お手上げだ」


 急にそんなことを言われても、受け止めきれるはずがない。

 頭が、ぐるぐるする。

 じゃあ、私は?

 お母さんは?

 レイは?

 私たちのこの十三年間は、一体、何だったの?

 

 ふと思い出す。

 皆神さんは、私に「選択する権利がある」と、そう言った。

 これで一体、私に何を選べというのだろう。


 その時。

 一筋の光のように、啓示のように、私の中にひとつの記憶が蘇ってきた。


 昔、小学校の宿題で、自分の名前の由来を調べるという課題が出たことがある。

 私がその課題をもらった時は、お母さんに聞いてすぐにわかった。

 でも、レイは聞く相手がいなくて、困っていた。

 親もいなくて、表記もカタカナの彼の名前の由来なんて、誰も知らなかったから。

 そんなレイを見て、私は、一生懸命、図書館で分厚い辞書を引いた。

 そして、間違いなくこれだ、と思える言葉を見つけた。

『レイ、聞いて!』

 私は、息を切らして辞書を抱え、レイの元へ走った。

『英語でね、レイって、「光」って意味なんだって!』

 私が指さした「Ray」の項目。

 そこには、確かに「光線、一筋の光」と書かれていた。

『ひとすじの、ひかり……』

 つぶやくレイに、私は、満面の笑みで言った。

『旅人の道しるべになる、北極星みたいな光だね! それに、見て! 私もひかりで、レイもひかり! 私たち、同じなんだよ!』

 そうだ……あの時レイは、本当に嬉しそうに、はにかんで笑ってくれた。

 彼は、バグなんかじゃない。

 エラーなんかじゃない。

 彼は、私の、光なのに。

 いてもらわなくては困る、人生の道しるべなのに。


「さっき、私にも選ぶ権利があるって言いましたけど……私は、何を選んだらいいんですか」

 そう私が尋ねると、皆神さんは、静かに、そして、残酷に、答えた。


「つまり、レイを消すか。あんたの『世界』を、消すか。……その、二択ってことだ」


 * * *


 観測記録、248960。

 介入の結果、対象個体『HIKARI』は、ついに、この世界の真実を知った。

 私が、どれだけ、彼女を、彼女のデータを、『世界』を、守ろうと必死だったか。

 ……きっと、わかってはもらえないだろうな。


 もう、いい。

 私の役割は終わったんだ。

 ここまできたら、私も覚悟を決めた。

 あとは彼らの選択に任せよう。

 たとえそれが……どんな結末をもたらすとしても。

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