第7話

 二月は、逃げるように過ぎていく。

 カレンダーをめくり、来週からもう三月なのだと気づいた時、私の高校生活も本当に残りわずかなのだと実感した。

 私は、相変わらず平凡な毎日を送っている。

 朝起きて、学校へ行き、放課後は天文部の部室に顔を出し、バイトのある日はプラネタリウムに行く。

 そんな、代わり映えのしない日々。

 けれど、たった一つだけ。

 私の世界から、ぽっかりと抜け落ちてしまったものがある。

 それは……レイが、部室に顔を出さなくなり、バイト先のプラネタリウムに、私を迎えに来なくなったことだ。


 あの夜。

 お父さんが現れた、あのバレンタインの夜。

 私たちは、ほとんど口をきかずに家路を歩いた。

 レイが握りしめる、あの分厚い封筒。

 そこには、一体何が書かれているんだろう。

 どうして、お父さんは「私に見せるな」なんて、言い残していったんだろう。

 ほんの数十分前まで、世界で一番幸せだったはずなのに。

 今は、鉛を飲み込んだみたいに、重たい不安が、胸の中に広がっていた。

 家の明かりが見えてきた、その時。レイが、ぽつりと言った。


「……今夜、これを読む」

「……うん」


 ひとりで読むの?

 一緒に読みたい。

 読んだら、内容を教えてね。


 たくさんの言葉が喉まで出かかったけれど、結局、乾いた声で、そう一言頷くことしかできなかった。

 レイの手の中の封筒も、突然現れたお父さんのことも、何もかもが気になって、私自身、全く考えがまとまらなかったのだ。


「家では、普通にしよう」


 玄関の扉を開ける直前、レイが言った。

 私は、もう一度、小さく頷いた。


 家に帰って二人で選んだチョコレートケーキを渡すと、お母さんは「まあ、素敵!」と、たいそう喜んでくれた。

「ティラミスを買って帰るって言うから、それに合わせて今夜はイタリアンにしたのよ」

 そう言って、得意げに出してくれたのは、しそときのこの和風パスタだった。

「母さん、それ、イタリアンと違う」

「それ、和食や」

「美味しいんだから、いいの!」

 レイと私が同時にツッコミを入れて、お母さんが笑う。

 いつも通りの、賑やかな食卓。

 でも、私にはわかっていた。

 私も、レイも、心から笑っているわけじゃないことを。

 お母さんの肩越しに、壁に飾られたお父さんの写真が目に入る。

 写真の中のお父さんは、優しく微笑んでいる。

 あの人は、本当に、今、この世界のどこかにいるんだ。

 どうして、私たちの前に現れたの?

 どうして、また、何も言わずに消えてしまったの?

 お母さんに、話すべきだろうか。

 いや、でも、なんて言えばいい?

 ただでさえ、ようやく父のいない生活に慣れて、穏やかに暮らしているのに。

 今更、お父さんに会ったなんて言ったら、お母さんの心を、またかき乱してしまうだけなんじゃないだろうか。

 ぐるぐると渦巻く思考が、お母さんがせっかく作ってくれたパスタの味を、よくわからなくさせていた。


 ティラミスを食べ終えると、レイは「ごちそうさま」とだけ言って、早々に自室へ引き上げてしまった。

 きっと、あの封筒の中身を読むのだろう。

 お母さんと二人きりになったキッチンで、洗い物をしながら、当たり障りのない会話を交わす。


「今日は、どこ行ったの?」

「プラネタリウム。バレンタインだから、カップルだらけだったよ」

「あらあら。あなたたちは本当に星が好きねぇ?」

「まあ、ね」


 お母さんは、何も知らない。

 知らないままでいてくれた方が、きっと、いい。

 私は、何でもないことのように、尋ねてみた。


「……ねえ、お母さん。お父さんって、一体、何の研究をしてたの?」

「え?」

「科学者だったってことくらいしか、知らなくて。そういえば、ちゃんと聞いたことなかったなって」

「そうねえ、光凛がまだ五歳の時だもんね……」


 お母さんは、少しだけ、遠い目をした。


「たまに笑いながら『地球を救う、大事な仕事なんだ』なんて大袈裟なこと言ってたけど……さすがにそれは、冗談だよね」

「さあ、どうかしら。あの人、守秘義務がどうとかで、詳しいことはほとんど話してくれなかったから。ただ……」


 お母さんは、うーん、と少し考えて、首を振った。


「バイオとデジタルの融合がどうとか行ってたような……ごめんなさい、やっぱり、よくわからないわ」

「そっか……」

「それにしても、急にお父さんのことなんて、どうしたの? 珍しいじゃない」


 どきり、と心臓が跳ねた。

 お父さんに会った。

 そう、言ってしまえば、楽になるのかもしれない。

 でも、その後のことを考えると、どうしても言葉を飲み込んでしまう。

 お母さんを、悲しませたくない。

 心配させたくない。

 私は結局、いつもの逃げ道を選んだ。


「ううん、なんでもない。もうすぐ卒業だから、なんとなく、昔のこと、思い出しただけ」


 そう、とお母さんは、それ以上何も言わなかった。


 *


 その夜、遅く。

 自室のベッドでぼんやりと天井を眺めていると、ドアが、こんこん、と控えめにノックされた。


「……光凛ちゃん? 入って、いい?」


 レイの声だった。

 私は慌ててベッドから起き上がり、ドアを開ける。

 そこに立っていたレイの顔は、青ざめて……ひどい色をしていた。

 そんな彼を見て、私にはひと目でわかった。

 読んだんだ。

 あの、封筒を。

 そしてその内容は、とても無視できないような、深刻なものだったんだ。

 憔悴しきった様子のレイをともかく部屋に招き入れると、彼は、私のベッドの縁に、力なく腰を下ろした。

 でも、決して、私の顔を見ようとはしない。

 なんて書いてあったの?

 ……聞きたいのに、聞けない。

 彼の口から、どんな言葉が飛び出してくるのかが、怖くて。

 

 長い、重い沈黙の後、レイが、ようやく口を開いた。


「……ごめん。明日から、しばらく、天文部に行けない」

「え……」

「バイトの迎えも、たぶん、行けないと思う」


 予想もしなかった言葉だった。


「なんで……?」

「皆神さんのところに行くことになったから。放課後と、休日、しばらくの間」

「どうして、皆神さんのところに?」

「……ちょっと、込み入った相談があって。さっき、電話して、そう決めた」


 目を逸らしたまま、彼は、途切れ途切れに話す。

 その態度が、私を、ますます不安にさせた。


「……しばらくって、いつまで?」

「そんなに長くはかからない、と思う。けど……」


 そう言って、彼は、また黙り込んでしまう。

 ごめんね、と、もう一度、小さく呟いて、レイは部屋から出ていこうとした。

 行かないで。

 ちゃんと、説明して。

 そう言いたいのに、言葉にできない。

 ただ不安が、焦りが、私の体を突き動かす。

 私は思わず、彼の部屋着の袖を、ぎゅっと掴んでしまっていた。

 レイは、一瞬だけ驚いたように、私の手を見下ろした。

 そして、その手を、とても、とても、優しく、でも、有無を言わせぬ力で、

 ……押し返した。


「……ごめん」


 そう言って彼は、今度こそ部屋を出て行った。

 パタン、と閉まったドアの音が、やけに大きく部屋に響く。

 

 その「ごめん」は、何に対しての「ごめん」なの

 しばらく会えなくなること?

 それとも。

 それとも……もっと、深い意味があるの?

 私たち二人が、好き同士だという、この関係そのものに、対して……?

 最悪の想像が、頭の中を駆け巡る。

 私は、閉められたドアの前で、一人、立ち尽くすことしかできなかった。

 ふと、壁にかけてあるデジタル時計がに入る。

 その瞬間、淡い光を放つ数字が、静かに切り替わった。


 【0:01】


 その時、私は思った。

 ――ああ、そうか。

 私の、人生で一番幸せだったはずのバレンタインは、もう、終わってしまったんだ……と。

 

 *


 その夜を境に、私の日常から、レイの姿はほとんど消えてしまった。

 朝も何かと理由をつけて早く家を出ているみたいで、私が階下に下りる頃にはもういない。

 たまに家の中で顔を合わせることがあっても、見てはいけないものを見てしまったかのようにふっと目をそらされる。

 そんなレイを見るたび、私の体からはすぅっと血の気が引き、指先から体温がなくなっていく感じがした。

 そういえば、と、私は部屋でひとりぼんやりと考える。

 もう、何日も、彼の声を聞いていない。『光凛ちゃん』と、少し照れたように、でも、とびきり優しく私の名前を呼ぶ、あの声を。


 あれは、バレンタインの数日前、穏やかな帰り道だった。

 私のバイト帰りに迎えに来たレイと、いつものように、二人で並んで、公園を抜けていた時。

 私が、ふと、言ったのだ。


「ねえ、レイ」

「ん?」

「光凛ちゃんって呼ぶの、やめてよ」

「え、なんで?」


 きょとんとするレイに、私は少しだけ頬を膨らませてみせた。


「だって、もう弟じゃないでしょ? 私がレイって呼び捨ててるんだから、レイも、光凛でいいの」


 私がそう言うと、レイは、街灯の光の下で、耳まで真っ赤にして、ぷいとそっぽを向いてしまった。


「……それは、まだ、無理」

「なんでよー」

「……母さんの前とかで、うっかり呼んじゃったら、どうすんだよ」

「別にいいじゃん、気にしないって」

「俺が気にするの! ……そのうち、ちゃんと、呼ぶから。だから、今は、まだ……」


 そう言って口ごもる彼が、なんだか可愛くて、愛おしくて、たまらなかった。

 いつか、彼が、私の名前を、呼び捨てにしてくれる日。

 その日を、私は、心から楽しみに、待っていた。


 なのに。

 そんな日は、もう、永遠に来ないのかもしれない。


 バイト先のプラネタリウムで、私は、月島さんのご厚意に甘えて、カフェの仕事だけでなく、映写機の操作やナレーションの原稿作りなどの裏方の仕事も、少しずつ見学させてもらっていた。


「言っとくけど、時給は上げないからね。あくまで、見せるだけなんだから」


 月島さんは、ぶっきらぼうにそう言いながらも、本当に、たくさんのことを教えてくれた。

 家では、お母さんに心配をかけまいと、必死で明るく振る舞っている。

 その反動で、ここにいる時、私は、つい、大きなため息をついてしまっていた。


「こら。今は裏だからいいけど、カフェのお客さんの前ではそんな顔するんじゃないよ」

「あ、すみません……!」


 慌てて謝る私に、月島さんは、やれやれと首を振った後、言った。


「まあ、これから長い付き合いになるんだし。大した人生じゃないけど、これでも、あんたよりは少しだけ長く生きてるから。相談くらい、乗れるかもしれないわよ」


 そう言ったあと、いや、少しだけ、でもないか……と真顔で考え込む

 深刻になりすぎない、彼女のいつものトーン。

 その優しさに、涙が出そうになる。

 とはいえ、いくら月島さんが相手でも、そう簡単に話せることじゃないし……と逡巡する私に、月島さんは、インスタントだけど、と、コーヒーを淹れてくれた。


「まあ……無理にとは、言わないけどさ」


 差し出されたマグカップの温かさが、凍てついた心に、じわりと沁みる。

 そうだ。

 私は、また、逃げている。

 月島さんは、前も私に言ってくれた。

『話せなくなってからじゃ、遅い』って。

 あの時の私は、レイに片思いをしていた。

 でも今は、違う。

 レイが、私のことを好きだと、わかっている今。

 話すのが怖いのは、拒絶されるからじゃない。

 この、一度手に入れた幸せを、失ってしまうのが、怖いからだ。

 彼に嫌われるのが、何よりも怖いからだ。


「……話は、ちゃんとした方が、いいんですよね」


 私は、ぽつりと、呟いた。


「たとえ、どんな結果になったとしても」


 月島さんは、一瞬だけ、少し驚いたような顔をして、それから、ふっと、柔らかく微笑んだ。


「……覚えてたのね」

「はい」

「そうよ。話せなくなってからじゃ、もう、遅いんだから」


 そう言って、彼女は、ふと、窓の外に視線を向け、にやりと口の端を上げた。


「まあ、万が一結果が思わしくなかった時は、骨くらいは拾ってやるわよ」


 月島さんの視線を追って、私も窓の外を見る。

 そこには、街灯の下で、所在なげに誰かを待っている、レイの姿があった。

 話そう、と決めた、このタイミングで、彼が、ここに来た。

 ……レイは、本当に、超能力者か何かなのかもしれない。

 そう考えて、私は思わず苦笑した。

 ああ、そうだ。

 実際、超能力者だったんだっけ。

 ううん、でも、そうじゃない。

 そういうことじゃなくて――。


 小学生の頃、クラスの男子にからかわれて、一人で泣いていた放課後。

 どこからか、レイがやってきて、何も言わずに、ポケットから、ぐちゃぐちゃになったチョコレートを半分、差し出してくれた。

 私が、話をしたい、と思って、でも言えなくて口ごもっていると、いつも、「どうしたの?」と、先に声をかけてくれた。

 それは、超能力なんかじゃない。

 レイが、ずっと、昔から、私のことを、誰よりも、見ていてくれたからだ。


 ……信じよう。

 彼が、私を「ずっと好きだった」と言ってくれた、その気持ちを。

 ちゃんと、話をしよう。

 私は、マグカップを置いて、立ち上がった。


 *


 プラネタリウムの外に出ると、レイが、私に気づいて顔を上げた。

 そしてそのまま、言葉少なに、私たちは、いつもの公園へ向かうルートを、歩き始めた。


 ベンチにたどり着くと、レイが「座ろっか」と言った。

 言われるまま、隣に座る。

 話をしよう、と決めてきたはずなのに、いざとなると、喉がからからに渇いて、言葉が出てこない。

 気まずい沈黙が、私たちの間に、重くのしかかる。

 

 そんな中、先に口を開いたのは、レイの方だった。


「……俺、家を出ようと思う」

「え……」

「皆神さんが、住む場所とか、色々、手伝ってくれるって」


 言葉の意味が、わからない。

 私との付き合いを、ちゃんとするために?

 一度、家族という関係から、離れるために?

 それとも……。


「……そしたら、もう、光凛とは、会わない」


 世界が、止まった。

 頭が、真っ白になって、何も考えられない。


「……どうして?」


 やっとのことで絞り出した声は、ひどくかすれていた。

 どうして。

 どうして、どうして、どうして。

 クリスマスの夜に、好きだって、言ってくれたじゃない。

 バレンタインの日、腕枕で見た、あのプラネタリウム。

 お揃いのチャーム。

 恋人として笑い合って過ごした、今までの日々。

 あの時間は、全部、嘘だったの?


「ごめん」


 レイは私の問いには答えず、ただ謝罪の言葉だけを口にした。

 その横顔は、何の感情も映していない、まるで、能面のようだった。

 悲しみと怒りで、感情がぐちゃぐちゃになる。

 そして気がつくと……怒りが、悲しみを追い越していた。


「……嘘つき」


 ぽつりと、口からこぼれた。


「ずっと一緒だって言ったのに! 嘘つき!」


 叫んだ瞬間、レイが、はっとしたように、息を呑んだ。

 何かを言おうとして、口を開きかける。

 その時、ぱち、ぱち、と、公園の電灯が、不規則に、明滅を始めた。

 レイは、それに気づくと、ぎゅっと、自分の腕を押さえて、私から、目を逸らした。

 そして、言おうとした言葉を、ごくりと、飲み込んでしまった。

 その沈黙が、「嘘つき」と言った私の言葉への肯定のように思えて、私の心は、完全に、砕け散った。

 私は、レイを、その場に残して、一人、走り出した。


 *


 家に帰ると、もちろん、レイはいなかった。

 お母さんから、「レイくんなら、今日はお友達のところに泊まるって、連絡あったわよ」と告げられる。

 私は、一言二言だけ返事をして、自室に閉じこもった。

 ベッドに倒れ込み、スマートフォンを取り出す。LINEの通知が一件。

 天文部のグループLINEから、来週の小惑星観測会の、最終確認のお知らせだった。

 返信する気力もなくて、ベッドの上に、スマホを放り出す。

 カシャン、と、小さな音がした。

 スマホケースにつけた、ストラップの先に揺れる、お揃いの、星のチャーム。

 これを贈った時は、あんなに、幸せだったのに。

 ぽろり、と、一筋、涙がこぼれた。


 あれは、確か、小学三年生の時。

 ピアノの発表会で、私は、練習では一度も間違えなかった曲で、大きなミスをしてしまった。

 お母さんの前では、気丈に「大丈夫!」と笑っていたけれど、悔しくて、恥ずかしくて、たまらなかった。

 家に帰ると、私は一人、自分の部屋で、声を殺して泣いていた。

 お母さんに、心配をかけたくなかったから。

 すると……静かに、ドアが開いた。

 レイだった。

 彼は、何も言わずに、私の隣に座って、ただ、黙って、ティッシュの箱を差し出してくれた。

 レイの前でだけは、なぜか、我慢できなかった。

 私はその日、彼の前で、声を上げて、わんわんと泣いた。

 レイは、私が泣き止むまで、ずっと、隣に座って、時々、小さな手で、私の背中を、そっと、さすってくれていた。


 あの、発表会の日だけじゃない。

 私が泣いている時、慰めてくれるのは、いつも、レイだったのに。

 そのレイがいなくて、そのレイのことで、泣いている今は、私は、どうすれば、いいんだろう。

 ねぇ、教えてよ、レイ――。

 答えなんて、どこにもなかった。私は、ただ、途方に暮れて、泣き続けた。


 * * *

 

 観測記録、248925。

 対象個体『RAY』は、私の忠告を聞き入れたようだ。

 これで、彼の存在が世界に与えるノイズは、最小限に抑えられるだろう。


 対象個体『HIKARI』の感情パラメータは、現在、著しく低下している。

 胸は痛む。だが、これも、必要なプロセスだ。

 傷は、いずれ癒える。そして、彼女は、また、平穏な日常を取り戻す。


 それが、光凛のためだ。

 それが、この『世界』の、ためなのだから。

 これで、いいんだ。

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