第6話

 二月に入り、冬の寒さはそのピークを迎えていた。

 三年生の教室は、国公立大学の二次試験を控えた受験組が休みがちになり、空席が目立つようになってきた。

 卒業までのカウントダウンが始まったような、どこかそわそわとした、それでいて寂しい空気が漂っている。

 プラネタリウムへの就職という進路を決めた私は、幸か不幸か受験勉強とは無縁で、特にやることもないのに毎日律儀に学校へ通っていた。


 そもそも二十八日間しかない二月は、本当に、気をつけないとあっという間に過ぎていく。

 その中で、唯一と言っていいイベントが、バレンタインデーだ。

 もちろん、受験組の同級生は来るべき受験に向けて勉強に身を入れている。

 けれど、高校生活最後のバレンタインに、何かを賭けている子も少なくないみたいで、教室の隅々からは、時折甘くて浮き足立ったような囁き声が聞こえてきたりもした。


「……で? 今年は、どうすんのよ」


 昼休み、いつものように机をくっつけてお弁当を広げていると、佳乃がニヤニヤしながら私に尋ねてきた。


「どうするって、何が?」

「とぼけちゃって。バレンタインに決まってんでしょ。まあ、光凛のことだから、いつものように、可愛い可愛い弟くんにあげるんでしょうけど?」


 佳乃は、ことさらに『弟くん』という部分を強調して、意味ありげな視線を送ってくる。

 そうだ、去年までは、ただの『弟』だった。

 でも、今年は。

 今年のレイは、もう――。


「……うん、まあ、一応は」


 私が曖昧に言葉を濁すと、佳乃は「はっはーん」と、何かを確信したようにテーブルを指で叩いた。


「その反応は、さては……うまくいったな?」

「な、何がよ!」

「だから、レイくんと! あんたたち、付き合い始めたでしょ!」


 佳乃の、マイクでも使ったのかと思うほどよく通る声が、教室に響き渡った。

 周りにいたクラスメイトたちが、一斉にこちらを振り返る。


「ちょ、佳乃! 声大きい!」


 私は慌てて立ち上がり、佳乃の口を手で塞いだ。

 彼女は、私の手をぺしぺしと叩きながら、もごもごと何かを言っている。


「……ぷはっ! だって、あんたの顔に『幸せです』って書いてあるんだもん!」


 ようやく解放された佳乃は、けらけらと笑った後、満面の笑みで私の肩を掴んだ。


「よかったじゃん、光凛! 長年の想いが実ったわけね」

「な、長年って……!」

「違いますー? ま、ともかく、おめでとう!」


 多分にからかいの色を含んではいるものの、佳乃の心からの祝福の言葉に、私の頬が、じわじわと熱くなる。

 けれど、ふと彼女は真顔になって、声を潜めた。


「で? お母さんには、なんて?」


 その言葉に、私は少しだけ、視線を落とした。

 それについては、レイと、何度も、ちゃんと話し合った。

 あの夜、手をつないで家に帰ってから、私たちは、これからのことを真剣に考えたのだ。


「……ううん。まだ、言ってない」


 私は、佳乃にだけ、そっと打ち明けた。


「私とレイ本人でさえ、こんなに戸惑ってるのに。お母さんに今言ったら、きっと、もっと困らせちゃうと思うんだ。だから……もう少し、時間が経って、私たちの気持ちも、周りの状況も落ち着いて、ちゃんと上手く伝えられる自信がついたら、その時に、正直に話そうって、決めたの」


 そう話し合った時の、レイの真剣な横顔を思い出す。

 いつもはつかみどころがないくせに、こういう大事なことは、誰よりも誠実に、まっすぐに考えてくれる。

 そういうところも、どうしようもなく、好きなのだ。


「……そっか。うん、私も、その方がいいと思う」


 佳乃は、こくりと頷いてくれた。

 キーンコーンカーンコーン、と、昼休み終了のチャイムが鳴る。

 佳乃は自分の席に戻りながら、最後に、もう一度、私に向かって小さく口を動かした。

『おめでと』

 私は、少しだけためらいながらも、精一杯の笑顔で『ありがとう』と返した。

 心臓が、嬉しさと、少しの罪悪感で、きゅうっと音を立てた。


 *


 放課後、天文部の部室に行っても、もうすぐ卒業する私に特にやることはない。

 新部長の健太郎くんと副部長の彩葉ちゃんが中心になって新年度の活動計画を立てているのを、ぼんやりと眺めているだけだ。

 それでも、「卒業式ぎりぎりまで、毎日来てくださいね!」と後輩たちに言われると、無下にもできない。

 そして何より、ここには、レイがいる。

 もちろん、みんなにバレたら大変なことになるから、私たちは、これまで通り、ただの仲の良い姉弟として振る舞おうと決めている。

 そしてそれは、おおむね成功しているはずだ。

 はず……なんだけど。

 後輩たちの輪から少し離れた場所で専門書を読んでいるふりをしていると、不意に、向かいの席に座るレイと目が合った。

 彼は、誰にも気づかれないように、こっそりと、片目をつむってみせた。

 急に示される「特別感」に、心臓が、どきんと跳ねる。

 やめてほしい。

 本当に、やめてほしい。

 嬉しくて、顔がにやけてしまうのを、必死で堪えなければいけないから。


 そういえば、このウインクについて、つい最近知って、ものすごく驚いたことがある。

 数日前、レイの部屋で、二人きりで話していた時のことだ。


「レイってさ、昔から、よくウインクするよね」

「そう?」

「うん。くせみたいなもの?」

「ううん。光凛ちゃんにしか、してないよ」

「……えっ!?」


 その時私は思わず、素っ頓狂な声を上げてしまった。

 今までそんなこと、考えたこともなかった。

 レイのウインクは、誰にでも、ああやって愛嬌を振りまく、一種のコミュニケーションだと思っていたのだ。


「うそ、だって、いつもしてるから……」

「それは、光凛ちゃんが俺のそばにいつもいたからでしょ」

「……てっきり、いろんな人にしてるのかと……」

「へー。俺って、そんなに軽い男だと思われてたんだ」


 レイは、心底傷ついた、という顔で、わざとらしく溜め息をついてみせた。


「ご、ごめん! そういうわけじゃ……!」

「……冗談だよ」


 慌てて謝る私を見て、レイはくすくすと笑った。


「むしろ俺は、光凛ちゃんにしかしてないって、バレないようにしてたんだから。それが成功してたってことでしょ?」

「う……」

「それにしても……こんなふうに、光凛ちゃんに本当のことを言える日が来るなんて、思わなかったな」


 そう言ってレイは、本当に嬉しそうに、私の顔をぐっと覗き込んできた。


「……ち、近い!」

「えー? ちっちゃい頃は、こうやって、おでこくっつけたりして遊んだじゃん」

「そ、その頃と今とは、違うでしょ!」

「どう違うの?」

「どうって……それは、その……」


 恋人だから、とはっきり言えない自分がもどかしい。

 レイは、そんな私を見て、さらに楽しそうに目を細めた。


「何? ちゃんと言って、光凛ちゃん」

「……う、うるさい!」


 からかうレイに、私は近くにあったクッションを思い切りぶつけて――。


「……ぶちょー、どうしたんすか? ぼーっとして」


 はっと我に返ると、健太郎くんと彩葉ちゃんが、不思議そうな顔で私を覗き込んでいた。


「え、あ、ううん、なんでもない!」

「それより、光凛先輩! NASAのサイトに、すごいニュースが!」

「三月十二日に、そこそこ大きい小惑星が、地球から五十万キロの距離まで接近するんだって!」


 二人の向こうで、レイが穏やかに微笑んでいる。


「衝突確率はゼロに等しいみたいだから危険性はないし……光凛先輩の、最後の観測会は、その日に合わせませんか?」

「へえ、面白そう。いいね、やろう」


 私の言葉に、「決まりですね!」と後輩たちが色めき立つ。

 三月十二日。卒業式の前日だ。

 このメンバーで見る、最後の星空。

 その光景を想像して、私の胸も、温かくなった。


 *


 受験のない私は、この時期、プラネタリウムのカフェのバイトをいつもより多めに入れていた。

 卒業したら、ここが私の職場になる。

 少しでも早く、仕事に慣れておきたかった。


 そして、もう一つ、大きな理由があった。

 レイへの、バレンタインのプレゼント。

 今年は、とびっきり、素敵なものを贈りたかったのだ。

 だから、いつもよりたくさん働く必要があった。


 そういえば、お母さんには、ちゃんと進路のことを話した。

 リビングのテーブルで、向かい合って、落ち着いて。

 最初は、なかなか言い出せなかったけれど、キッチンで洗い物をしているふりをして、私を見守ってくれているレイの存在が、私に勇気をくれた。

 案の定、お母さんは最初、少しだけ顔を曇らせた。

 家の経済状況を気にして、娘が進学を諦めた、と思わせてしまったのかもしれない。

 でも、私は、まっすぐに自分の気持ちを伝えた。

 大学に行くことよりも、一日でも早く、星と関わる仕事がしたいこと。

 月島さんが、私の夢を応援してくれて、卒業したら働かせてくれると約束してくれたこと。

 話し終えると、お母さんは、ふっと、優しい顔で笑ってくれた。


「そっか。……光凛が、自分で決めた道なのね。それならわかった、応援する。光凛のナレーションがプラネタリウムで聞ける日を、楽しみにしてる」


 まだずっと先だよ、と言いながらも、わかってもらえたうれしさで胸がいっぱいになった。

 キッチンの方を見ると、レイが、私に向かって、そっとウインクをしてみせた。


 *


 あれ以来、レイは、ほとんど毎回、バイト終わりの私を迎えに来てくれるようになった。

「冬は日が暮れるのが早いし、危ないから」なんて言うけれど、そんなのは、ただの口実だって、わかっている。

 私は私で、理由なんてどうでもよくて、ただ彼が来てくれることが嬉しくて仕方ない。

 最近は、バスには乗らず、少し遠回りして、公園を抜けて電車で帰るのが、私たちの定番コースになっていた。

 その方が、二人でゆっくりと、たくさん話ができるから。


 その日も、私たちは、並んで夜道を歩いていた。

 今日の私は、いつもより、少しだけ緊張していた。

 バレンタインのデートに、レイを誘うと決めていたからだ。


 今年の二月十四日は、土曜日。

 絶好のチャンス。

 なのに、なかなか言い出せない。

「あのね……」と口を開いては、ためらう。

 そんな私を、レイが不思議そうに見た。


「どうしたの、さっきから」

「……う、うん、あのね」

「うん」

「……二月の、じゅうよっかは、ひま、ですか?」


 やっとのことで、敬語混じりに尋ねる。

 すると、レイは、少しだけ考えるふりをして、言った。


「うーん……ごめん、その日は、予定入ってる」

「え……」


 驚きと落胆で、頭が真っ白になる。

 そっか、そうだよね……。

 私と付き合う前から何か予定があったって、おかしくない。

 私が、勝手に浮かれてただけだ。


「……そっか、ごめん、急に」


 俯く私の顔を、レイが、いたずらっぽく覗き込んできた。


「その日は、生まれて初めてできた世界一可愛い恋人が、きっとデートに誘ってくれるはずだから、一日、丸々空けてあるんだ」

「……っ!」

「だから、予定は、光凛ちゃんとのデートです」


 その言葉に、全身の力が抜けると同時に、なんだか無性に腹が立ってきた。


「も、もう! そんな意地悪言うなら、誘わないから!」

「ごめん、ごめんって!  嬉しくて、つい、からかっちゃった」


 謝りながら、レイは私の手を取って、ぎゅっと握った。

 その温かさに、怒っていたことなんて、すぐにどうでもよくなってしまう。

 私たちの、初めてのバレンタイン。

 とびっきりの思い出になるように、最高のプランを練らなくちゃ。

 この幸せが、一年、十年、何十年も、ずっと続くといいな……。

 心から、そう思った。


 *


 数日後、私は自室の机の上で、小さなジュエリーショップの包みを、うっとりと眺めていた。

 ついに、レイへのプレゼントを買ったのだ。

 中身は、小さな星をモチーフにした、シルバーのチャーム。

 ごく小さいけれど、その中央には、本物のダイヤモンドが一粒、きらりと埋め込まれている。

 レイがクリスマスに私にくれたイヤリングと、どこか似た雰囲気のデザイン。

 これなら、男の子でも、財布やキーホルダーにつけて、さりげなく使ってくれるかもしれない。

 そして……その包みの横には、もう一つ、同じものが。

 ただし、そちらには、ラッピングはされていない。

 そう。

 お揃いで、自分の分も、買ってしまったのだ。

 目立たないけれど、いつも同じものを身につけて、離れている時も、ずっと一緒にいるみたいに感じていたい。

 ……なんて言ったら、重いかな。

 これは、黙っておこう。

 私は、二つの小さな星を並べて、バレンタイン当日のレイとのデートに想いを馳せるのだった。


 *


 二月十四日、土曜日。

 街は、見渡す限り、カップルだらけだった。

 結局、大したプランも練らないまま、私たちは、都心にある最新式の大きなプラネタリウムに来ていた。

 教室で、佳乃に「どうせ行くなら、ロマンチックなとこにしなさいよ!」と強く背中を押され、勢いで予約してしまった、カップルシート。

 そのことを、私は今、猛烈に後悔していた。


「ご、ごめん、なんか、こんな席にしちゃって……」

「なんで謝るの? 俺たち、カップルでしょ?」


 レイは、屈託なく笑う。

 ああ、そうだ。

 私が、意識しすぎているだけだ。

 けれど。

 いざ、ドームの中に足を踏み入れて、私は、息を呑んだ。

 カップルシートは「シート」と言う名前なのに、椅子じゃなかった。

 寝転んで、星空を見上げる、ベッドのような、大きな丸いソファだったのだ。

 な、並んで、寝るの……!?

 口には出せない心の声が、頭の中で大音量で響き渡る。

 周りのカップルたちは、慣れた様子で靴を脱ぎ、自然に寄り添ってシートに横になっていく。

 レイも、その雰囲気に一瞬たじろいだようだったけれど、すぐに気を取り直して、私に微笑みかけた。


「ほら、早くしないと、始まっちゃうよ」


 促されるまま、私も靴を脱ぎ、シートの上に乗る。

 二人で座っても、まだ十分な余裕がある広さ。

 私は、レイからできるだけ距離を取って、ソファの端に、直線となって固まった。

 不意に、耳元で、レイのひそやかな声がした。


「……小さい頃を、思い出すね」


 ああ、そうだ。

 幼かった頃の、夏の、暑い日。

 縁側で、二人で一枚のタオルケットを分け合って、私たちはよく昼寝をした。

 まだ、私の方が身体が大きかった頃。

 大の字で寝る私の腕を枕にして、レイは、猫みたいに身体を丸めて、安心しきった顔で眠っていた。

 そうだ、そんなことも、あったっけ。

 懐かしさで、強張っていた心が、少しだけほぐれる。

 その時、レイの腕が、するりと、私の首の下に差し込まれた。


「え……」


 促されるまま、私は、彼の腕枕に、そっと頭を乗せる形になった。

 ……近い。

 さっきまで思い出していた、幼いレイとは、全く違う。

 ごつごつとした骨の感触。

 厚い胸板。

 私をすっぽりと包み込んでしまう、大きな身体。

 男の子の、レイの、たくましさを、肌で感じて、私のドキドキは、最高潮に達した。

 身体が、またカチコチに固まってしまう。


 そんな私に気づいたのか、レイが、小さな声で、ささやいた。


「……いや?」


 慌てて、首を、ぶんぶんと横に振る。


「……じゃあ、リラックスして。星、楽しもう」


 優しい声に促されて、私は、ようやく、頭上に広がる星空を見上げた。

 星を見たからって、ドキドキがおさまるわけじゃない。

 でも、それ以上に、目の前の光景は、あまりにも美しかった。

 大好きな星。

 大好きな人の、温かい腕の中。

 こんなに幸せで、いいんだろうか。

 ふと隣を見ると、暗がりの中、レイが、星空ではなく、私のことを見て、優しく微笑んでいた。

 私も、彼に笑い返す。

 レイの体温と、優しい笑顔と、満天の星。

 今この瞬間が、永遠に続けばいいのに……。

 心の底から、そう願った。


 *


 結局、人でごった返す街を抜け出し、私たちは、いつもの公園のいつものベンチに並んで座っていた。

 いよいよ、初めてのバレンタインのプレゼントを彼に渡す時がやってきた。

 私は心臓をばくばくさせながら、鞄から、小さな包みを取り出した。

 ラッピングのリボンが震えて、私の緊張をレイに伝える。


「……はい、これ」

「開けて、いい?」

「……うん」


 包みを開けたレイは、「あ、星だ」と、嬉しそうに声を上げた。


「クリスマスにもらったのと、似てる。……すごい、綺麗。どこにつけようかな」


 無邪気にはしゃぐレイに、私は、意を決して、もう一つの包みを開けた。


「あのね、実は……」


 自分の手のひらの上に、同じチャームを乗せて、見せる。


「……えっ」

「これは、私の。……お揃いに、しても、いいかな?」


 レイは、目を丸くして、固まっていた。

 その沈黙が、不安を煽る。

 やっぱり、いきなりお揃いなんて、重すぎたかな。

 引かれちゃったかも……。

 そう思った瞬間、なんの前触れもなく、強い力で、ぐっと、抱きしめられた。


「ちょっ、落としちゃう……!」

「……うれしい」


 耳元で、レイの、震える声がした。


「これ持ってれば、いつも、光凛ちゃんと一緒にいられるみたいで」

「……うん。私も、同じ気持ちだよ」


 私がそう答えると、レイは、さらに強く私を抱きしめた。


「もう、絶対に離さない。俺たち、ずっと一緒だから」


 耳元でささやかれた、誓いのような言葉。

 私は、その温かい背中に、そっと自分の腕を回し、力強く頷いた。


 *


 街はまだ賑わっていたけれど、私たちは、小さなホールのチョコレートケーキを買って、家に帰ることにした。

 お母さんと、三人で、ささやかなバレンタインのお祝いをするために。

 公園を歩きながら、私はふと思い出して、レイに尋ねる。


「そういえば、あの、超能力のほうは、どう? 最近」

「ん? ああ、うん。安定してるよ」

「よかった」

「よかったって……そりゃ、そうだよ」

「え?」


 レイのその言葉の意味がわからず、私は首をかしげた。


「え……気づいてなかったの?」


 レイは驚いた顔をして、そして告げた。


「俺の超能力のトリガーって、光凛ちゃんだよ」


 私は驚きつつも、そういえば……と、今までレイの超能力が発現した時のことを思い返してみた。

 確かに、私が危険な目に遭いそうになった時や、私と一緒にいる時に――。


「え、じゃあ、理科室の火事の時は? 考え事してたって言ったけど」


 私が尋ねると、レイはちょっと考えて言った。


「……言わない」

「えー、なんで? 教えて!」

「だめ、あれは教えない」


 教えて、だーめ、と同じ事を言い合うだけの会話に飽きることもなく、進んだり戻ったりしながら公園の中を歩いていく。


 そんな私たちの前に誰かがいるのに気づいたのは、その時だった。


 私たちの行く手を阻むように立つ、一人の小柄な男。

 フード付きの、黒いロングコート。

 深くフードを被っていて、顔は見えない。

 ……知らない人のはずなのに、どういうわけか、胸が、嫌な感じで、ざわついた。


「あの、何か……」


 レイが、声をかけようとした、その瞬間。

 男は、低い、静かな声で言った。


「……君たちは、それ以上、一緒にいてはいけない」


 びゅう、と、突風が吹く。

 その言葉に危険なものを感じたのか、レイの『力』が発現したのだった。

 あの告白の日と同じ、ありえない強さの風が、私とレイと見知らぬ男の3人のまわりで吹きすさぶ。


「まさに、それだ。……一緒にいると、危険なんだ」


 男は、諭すように言った。

 レイが、私を、背中にかばう。

 男は、風の中を、ゆっくりと、こちらに近づいてくる。

 その手には、A4サイズの、分厚い封筒。


「これを、君一人で、読みなさい。……そして、よく考えるんだ」


 男は、封筒をレイに手渡した。


「なんなら、皆神龍平に相談するといい。ただし……光凛にだけは、決して、見せてはいけない」

「えっ、私……?」


 そう思った瞬間、ひときわ強い風が、男のフードを、激しくめくり上げた。

 月明かりに照らし出された、その顔。


 それは……。


 毎日、写真で見ている、優しい笑顔。

 忘れるはずのない、その顔。


「……お父さん……!?」


 私の声に、お父さんは、一瞬だけ、悲しそうに微笑んだように見えた。


「……光凛のためだ。わかって、くれ」


 そう言うと、お父さんは、私たちに背を向け、闇の中へと歩き去っていった。

 追いかけたかったけど、風があまりにも強すぎて、一歩も前に進めない。


 やがて、風が、嘘のようにぴたりと止んだ時。

 そこにはもう、お父さんの姿はなかった。

 そして、青ざめた顔で封筒を握りしめるレイと、彼を見つめる私だけが残されていた。


 * * *


 警告だけなら、彼だけに接触すればよかった。

 だが、どうしても、一目でいいから、娘の姿が見たくなってしまった。

 ……成長した、私の可愛い『HIKARI』の姿が。

 結果、姿を現してしまった。

 これは、想定外の行動だ。

 私の感情パラメータにも、エラーが生じ始めているのかもしれない。


 まあ、いい。

 とにかく、これで、彼が全てを理解してくれるといいが……。

 あとは、彼が自らの意思で『HIKARI』から離れてくれることを、祈るしかない。

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