第5話
あっという間に短い冬休みが終わり、三学期が始まった。
校舎を吹き抜ける風はまだ冷たいけれど、日々確実に陽は延びてきている。
三年生の教室は、日に日に「卒業」という二文字が現実味を帯びてきて、落ち着かないような、名残惜しいような、独特の空気に満ちていた。
そんな中、レイは意を決して、あの名刺の番号に電話をかけた。そして、週末に、皆神さんと直接会う約束を取り付けたのだ。
場所は、私がバイトをしている、プラネタリウムのカフェ。
「月島さんもいるし、ここなら何かあっても安心だから」
そう考えたレイが場所を指定すると、皆神さんは電話の向こうであっさりと承諾してくれたらしい。
「超常現象研究家で変わり者っていうから、もっと家に引きこもってるタイプの人かと思った」
「でも、テレビにも出てるみたいだし、そもそも高校の学校祭にだってひょっこり来た人だよ? フットワークは軽いんじゃない?」
「……それも、そうか」
レイに言われて、妙に納得してしまった。
そして、約束の日。
レイは先にお客さんとして席に着き、皆神さんを待っていた。
私はいつものようにエプロンをつけてカウンターに立ち、平静を装いながらも、気が気ではなかった。
カラン、とドアベルが鳴る。
現れたのは、学校祭で見た時と同じ、人の良さそうな、それでいてどこか胡散臭い笑顔を浮かべた皆神さんだった。
彼は店の中を見渡し、すぐにレイの姿を認めると、まっすぐそちらへ……と、思いきや。
「いらっしゃいませ」と声をかけると、彼は私の目の前でぴたりと足を止め、ぐいっと顔を近づけてきた。
あまりの距離の近さに、思わずのけぞる。
「あんた、学校祭の時にいた姉ちゃんだよな。天文部の」
「は、はい」
「てことは、関係者だろ? あんたも、一緒に話聞かせてくれよ」
「え、でも、私バイト中ですし……」
強引な物言いに困惑していると、不意に、店の大きなガラス窓が、ミシッ、と小さくきしむ音がした。
はっとしてレイの方を見る。
彼は、テーブルの下で拳を握りしめ、険しい表情で皆神さんを睨みつけていた。
まずい。
このままだと、レイの力が暴走して、窓ガラスを割ってしまうかもしれない。
そう思った瞬間、凛とした低い声が、私たちの間に割って入った。
「うちの店員に、何か御用でしょうか」
月島さんだった。
その声は静かだったけれど、明らかに怒気を含んでいる。
皆神さんは、その気迫に一瞬たじろぎ、それから苦笑いを浮かべた。
「いやあ、これは失礼。この黒川くんの相談に乗るのに、ぜひ、このお姉さんにも同席してほしくてね」
月島さんは、訝しげな目で皆神さんと私たちを交互に見た後、ふう、と一つ息をついた。
「……まあ、ちょうど、そろそろ休憩時間だし。光凛、行ってきなさい」
「館長……!」
「いいから。ただし、変なことしたら、叩き出すからね」
最後の言葉は、明らかに皆神さんに向けられていた。
そんなこんなで、私はエプロンを外し、レイと皆神さんが座るテーブルにつくことになった。
事前に電話で概要は話していたものの、レイは改めて、自分の身に起きている不思議な現象について、詳しく説明を始めた。
皆神さんは、腕を組んで、時々「ほう」「なるほどねえ」と相槌を打ちながら、静かに聞いている。
「……と、いうわけなんです」
レイが話し終えても、皆神さんは特に驚いた様子も見せない。
こんな突拍子もない話、普通ならまず「証拠を見せろ」とか、そういう話になると思っていたのに。
「……あの、信じて、もらえるんですか?」
思わず、私が尋ねる。
すると、皆神さんはきょとんとした顔で私たちを見た。
「何、嘘なの? あんたら俺に嘘ついて、なんか得すんの?」
「い、いえ、そういうわけでは……」
「まあ、俺もこの商売、長くてね。嘘つきは大勢見てきたから、それくらいは見抜けるよ。ましてや、お前らくらいのトシの子の切羽詰まった嘘なんてのは、ちょろいちょろい」
彼は飄々とした様子でそう言うと、「しかし、暴走は確かに困るよなあ」と話を戻した。
「コントロールしようと、練習はしてるんですけど……感情が昂ぶった時とか、不意に出てしまうことがあって……」
そのレイの言葉に、皆神さんは小さく眉をあげて少し考え込む様子を見せた。
「そういうのってさあ……」
言いながらゆっくりとテーブルに肘をついて、レイの顔をありえないくらいの至近距離で覗き込む。
「たいがい、なんか決まったトリガーがあるもんなんだよな。……あんた、心当たりは?」
その問いに、レイは一瞬だけ、ほんの僅かに、言葉を詰まらせた。
そして、すぐに「……わかりません」と答えた。
それにしてもこの人は、なんでこの話に、私を同席させたんだろう。
ぼんやりとそう思っていたら、不意に話しの矛先が私に向けられた。
「ところで、あんた。さっきから気になってたんだけど、この子の恋人?」
「ち、違いますっ!!」
思わず、不必要に大きな声を出してしまった。
顔に、ぶわっと血が集まるのがわかる。
「あ、姉です! 姉の、月島光凛!」
「あれ? けど、今聞いた黒川って苗字と、違うじゃん」
「それは、あの、血は繋がってなくて……でも、小さい頃からずっと一緒に住んでるので、姉みたいなものです」
しどろもどろに説明すると、皆神さんは「へえー」と面白そうに目を細めた。
「学校で見た時、てっきり恋人同士かと思ったんだけどなあ」
しれっと言う皆神さんの言葉に、私とレイは、ただ戸惑うことしかできなかった。
*
結局、「今のところは静観。何か大きな変化があったら、また連絡して」ということになり、皆神さんとの会談は終わった。
私のバイトが終わるのを待っていてくれたレイと二人、並んで家路につく。
「……結局、あんまり意味なかったかな」
「そんなことないよ。誰かに話を聞いてもらえて信じてもらえただけで、気持ちが楽になったかも」
「そっか。なら、よかった」
まだ陽は高かったから、私たちは、少し遠回りになるけれど、駅まで公園を抜けていくことにした。
ふと、会話が途切れる。昼間の、皆神さんの「恋人かと思った」という言葉が、頭の中でリフレインして、急に気まずくなってしまった。
「……あ、このマフラー、あったかい」
ひゅう、と冷たい風が吹いた時、私がプレゼントしたマフラーに顔をうずめて、レイが少しだけ笑った。
その笑顔に、胸が痛いほど締め付けられる。
ああ、好きだなあ、と、改めて思い知らされる。
その時だった。
「あ、ぶちょー! に、レイも!」
前から、聞き覚えのある明るい声がした。
見ると、彩葉ちゃんと健太郎くんが歩いてくるところだった。
「二人でどうしたの?」
「へへ、実は、ぶちょーへの卒業サプライズのプレゼント、買いに来てたんすよ!」
「もー、それを現部長に言っちゃってどうするんですか! しっかりしてください、新部長!」
あっけらかんと言う健太郎くんを、新副部長になる予定の彩葉ちゃんが、一年生ながらしっかりたしなめている。
「じゃあ、また部活で!」
屈託なく手を振って去っていく二人を見送りながら、レイがくすりと笑った。
「あの二人、結構いいコンビかもな。光凛ちゃんが卒業しても、うちの天文部は安泰だ」
「え……。けど、彩葉ちゃん、別に健太郎くんのこと、そういう感じじゃなくない……?」
つい、本音が口から滑り出た。
私は彩葉ちゃんがレイを好きだったことを知っているから、言わずにはいられなかった。
でも、レイは私が彩葉ちゃんからそのことを聞いているのを、知らない。
だから、これ以上は私から余計なことを言うわけにはいかなかった。
「いやいや、好きとかじゃなくてさ。コンビとして上手くやれそうって思っただけ。……でも、確かに、あの二人が付き合っても、なんか面白いかもな」
何が楽しいのか、レイは本当に嬉しそうだ。
「……そうは、ならないんじゃないかな」
「案外、あるかもよ」
レイは、なぜかその説を有力視しているようだった。
そして否定派の私に、悪気なく私が傷つくようなことを言ってくる。
「そもそも、光凛って、そういう恋バナとか、疎いじゃん」
「……っ!」
彼のその言葉に、胸がちくりと痛んだ。
そうだ。
レイにとって、私はそういう対象じゃないんだ。
恋愛とは無縁の、鈍感な姉。
そして、唐突に思い出してしまう。
レイには、別に好きな人がいる、という事実を。
「……レイこそ、人のこと言えないじゃん。鈍いんだから」
仕返しのように、少しだけ棘のある言い方になってしまった。
すると、レイは「……確かに」と、素直に認めた。
「実はさ、俺……彩葉ちゃんに告白されてたんだ。けど言われるまで全然気づかなかったから……俺って、相当鈍いのかも」
知ってる。
心の中で、小さく呟く。
「……どうして、断っちゃったの?」
聞くつもりなんてなかったのに、言葉が勝手に出ていた。
「あんなに可愛くて、いい子なのに。普通なら、受けるでしょ? 向こうが好意を持ってくれてて自分もそこそこ好意を持ってたら、付き合ってるうちに恋愛感情わいたかもしれないじゃん」
なんて、嫌な言い方だろう。
レイに好きな人がいるから断ったんだって、知っているくせに。
彩葉ちゃんを振った本当の理由を、レイ自身の口から聞きたい。
でも、聞きたくない。
心が、ぐちゃぐちゃにかき混ぜられる。
いつの間にか、私たちは、いつも通り抜ける大きな公園に差しかかっていた。
陽はだいぶ西に傾き、木の影が長く伸びている。
レイの表情が、さっきより見えにくくなっていた。
「……じゃあ、光凛は?」
不意に、レイが逆に尋ねてきた。
「光凛は、そこそこ好意がある相手から告白されたら、たとえ相手に恋愛感情がなくても、付き合うの?」
「わ、わっかんないなー、そんな経験ないし! でも、まあ、そうかも!」
突然の逆質問で激しく動揺しているのを隠すように、私はわざと明るく、適当に答える。
するとレイは、そこでぴたり、と足を止め……、
そして、静かな、でも、芯のある声で、言った。
「じゃあ……俺に言われたら?」
思考が、止まった。
固まる私の耳元で、風が、ざあっと音を立てて木々を揺らす。
レイの表情は、影になっていて、全く見えない。
風が、どんどん強くなる。
枯れ葉が、渦を巻いて舞い上がる。
それは、木枯らしと言うにはあまりにも強く……、
違う。
これは、冬の、穏やかな公園にあるべき風じゃない。
まるで、台風みたいな強風だ。
立っているのもやっと、と思いながら目を細めていると――
「危ないっ!」
ごう、という轟音と共に、目の前の大きな木の、太い枝が、ばきりと音を立てて折れた。
それが、スローモーションのように、私たちめがけて飛んでくる。
瞬間、動けない私の身体は、強い力で、ぐっと引き寄せられていた。
そして、レイの腕の中に、すっぽりと閉じ込められ……長身の彼の胸に、顔をうずめる形になる。
私の頬に、どく、どく、と、彼の速い鼓動が伝わってくる。
シャンプーの、いつもと同じ、でも、今は特別な香りがする。
こんな状況の中、私の頭の中に、あるひとつの場面が思い浮かんだ。
――ひかりちゃん、痛いの、痛いの、とんでけー。
幼い頃、公園で転んで、膝を擦りむいて泣いていた私。
まだ小さかったレイが、おぼつかない足取りで駆け寄ってきて、私の背中を一生懸命さすってくれた。
その小さな手の温もりが、不思議と痛みを和らげてくれたのを、あれから何年もたった今も、よく覚えている。
ずっと、そうだ。
私が困っている時も、悲しい時も、レイはいつも、何も言わずにそばにいてくれた。
私が彼を守ってきたつもりでいたけれど、本当は、ずっと、私も彼に守られていたんだ……と、彼の腕の中で、改めて気づく。
ああ、もう、だめだ。
好き。
好きで、好きで、どうしようもない。
姉として、なんて、無理。
この腕を、この胸を、手放したくない。
そう思った瞬間、ふい、と腕の力が緩められた。
見上げると、荒れ狂っていた風は、いつの間にか、ぴたりと止んでいた。
「……ごめん。今の、忘れて」
レイが、寂しそうに、力なく微笑んだ。
その笑顔が、私の心の最後の扉を、壊してしまった。
「……断らない」
「え?」
「レイに告白されたら、私は、断らないよ」
……言ってしまった。
もう、止まれない。
けれど、彼は私から目を反らして、私の言葉の本当の意味を受け入れまいとした。
「ああ、そこそこ好意がある相手だったらって話。そりゃあ家族なんだから好きは好きだろうけど――」
「そうじゃない」
私は、彼の言葉をきっぱりと遮る。
「そうじゃないよ。私は……レイが、好きだから」
震える声で、最後の言葉を、紡ぎだす。
「家族として、じゃない。一人の男の子として、レイのことが、好きなの」
暗くてレイの表情が見えない……、
そう思った瞬間、ぱっ、と、公園の街灯が一斉に、全て点灯した。
オレンジ色の光に照らし出されたレイの顔は、泣きそうなような、微笑んでいるような、今まで見たことのない、なんとも言えない表情をしていた。
「……ずっと、おさえてきたのに」
うめくように、彼が絞り出す。
「なんで、そんなこと、言うの……? 家族だって、光凛は、俺の姉だって、そう思おうとしてきたのに……」
その、悲痛な声に、私は、言ってしまったことを、瞬時に後悔した。
困らせてしまった。
彼の心を、めちゃくちゃにしてしまった。やっぱり、言うべきじゃなかったんだ。
そう思った瞬間。
ふわり、と、優しい力で抱きしめられた。
さっき、強風と枝からとっさに守ってくれたのとは違う、とてもとても優しい、レイの両腕。
「え……?」
「……俺もだよ」
頭の上から、くぐもった声が降ってくる。
「俺も、ずっと、光凛ちゃんのことが、好きだった」
え……。
私のことが、好き、だった……?
じゃあ、レイの好きな人って……。
考えが、まとまらない。
私が彼へのこの気持ちを自覚したのは、ほんの三ヶ月前のことなのに。
レイは、『ずっと』好きだった……そう言った?
その『ずっと』の間、私は、何も知らずに、姉ぶって、どれだけ無神経なことを、彼にしてきたんだろう。
私がレイへの恋心を自覚してから感じていた、あの胸の苦しみが、レイには、ずっと……。
そう思ったら、涙が、ぽろぽろと溢れてきた。
「……ごめんね。ごめんなさい……」
私が謝ると、レイの腕の力が、少しだけ弱まった。
「……なんで、謝るんだよ。俺のほうこそ、変なこと言っちゃって、ごめん」
「違う、そうじゃなくて……!」
「違うの?」
「ごめん、でも、違うの!」
謝りながら、違うと言い合う。
それを何度か繰り返すうち、途中から、お互い何に謝って何が違うのかもよくわからなくなってしまった。
それがなんだかおかしくて、二人同時に、ふっと笑う。
そして、ほんの少しの沈黙のあとで……
レイは、ゆっくりと腕を解くと、改めて、私の目をまっすぐに見た。
「大橋光凛さん」
「……はい」
「俺と、付き合ってください」
今度は、はっきりと、そう言った。
「……はい」
涙でぐしゃぐしゃの顔で、私は、人生で一番、大きく頷いた。
こんなに幸せなことが、あっていいんだろうか。
ついさっきまで、悩みの種でしかなかったレイへの恋心。
それがまさか、こんな形で実を結ぶなんて。
帰り道、私たちは、手をつないで歩いた。
小さい頃から、何度も何度も、こうして手をつないで歩いた道。
でも、今日からは、もう、このつないだ手は、昨日までとは全く違う意味を持つんだ。
ふと、信号待ちで目が合うと、レイは言葉の代わりに、ゆっくりと、優しく片目をつぶってみせた。
これまでの、悪戯っぽいウインクじゃない。
たくさんの想いが詰まった、愛おしくて、少しだけ泣きそうになるような、特別なウインク。
私は、言葉もなく頬を染めて、きゅっと、つないだ手に力を込めた。
握り返してくれた彼の指の力強さが、これは夢じゃないと、教えてくれていた。
* * *
観測記録、248888。
対象個体『HIKARI』の感情パラメータが、予測していた閾値を大幅に超えて上昇。
原因は、対象個体『RAY』との関係性の変化。
彼女は、『彼』に恋をしている。
……なんという皮肉だろうか。
これでは、もはやちょっとしたデバグで済む話しではない。
彼女のデータを保護するためには、もしかしたら……。
手遅れになる前に、間に合うといいが。
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